三章(3) 雪の中に溶け込んで
「あれ?」
彩人は『〇〇五号室』のドアを回す。しかし、鍵が掛かっているため開かない。
「どうした、彩人?」
今は雨夜と乃樹も一緒に新代荘にやってきていた。彼らが新代荘を訪れたのは、今年は初めてだ。
「鍵が掛かってる……」
「彩とん? 約束を忘れたわけじゃないよね?」
雨夜が指きり、指きりと復唱する。
「わかってるって。藍さんがよく戸締りには注意しろって言っていたからな。だぶん、ルネはそれを守ってきちんと戸締りしてるんだ。おーい」
強くノックしてみる。だが、部屋の中で物音一つしない。
「乃樹ちょっと藍さんの部屋の方見てきてくれないか」
「おう」
乃樹は藍の部屋『〇〇一号室』は一階にあるので階段を駆け下りていく。彩人は自室の鍵穴に鍵を差し込む。
「そこは彩人の部屋だよね?」
「ああ。もしかしたら寝ているのかもしれないからな。ちょっと壁際で確認を」
新代荘にベランダでも付いていればそこから部屋の中を除けるのだが、と彩人は考える。
部屋に入っていった彩人は壁際に耳を当てる。
「おかしいな……」
本当に人の存在感がしない。
「彩とん……覚悟はできているのかな?」
「待った待った! 別にこの部屋に居るとは限らないんだ。ルネは新代荘の家事を任されてるから藍さんの部屋の鍵も持ってるんだ。だからここに居ないとしたら、藍さんの部屋にいる」
彩人は昨日、ルネが起こした『洗濯機泡ぶくぶく事件』のことを思い出す。
(今日もそんなことになってはいないよな……)
悲劇的な光景を頭に浮かべながら彩人は二階から一階に階段を伝って降り、『〇〇一号室』の前まで来る。雨夜もそれ続く。
「乃樹どうだった?」
「おい、鍵開いてたぞ。どんだけ無用心なんだ」
肝心なことはそこではない。
「ルネはいたか?」
「いや。誰もいないぞ。ただ、ほれこれ」
乃樹が彩人と雨夜の前に見せた手に持ったそれは新代荘のマスターキーだった。
マスターキーを放置するとは本当にどれだけ無用心なんだ、と彩人も思う。部屋が荒らされていないか心配になって一応確認はして、問題が無いことがわかったら鍵をかけておいた。
ただこれでルネの部屋の鍵を開けることができる。
「ルネの部屋に行くか」
彩人の胸の中で不安という感情が渦をまく。まさか、そんなことは無いだろう、と無意識のうちに思考を望まない方向に向けないようにしていた。
「ルネちゃん、どんな子かなー。可愛いかなー」
乃樹の言葉を聞いて、彩人はやや苛立ちを感じつつルネの部屋の鍵を開ける。そしてゆっくりとドアノブに手を伸ばす。
「ルネいるかー?」
彩人は廊下を通っていき、ルネがいるはずの部屋を見る。
いない。
「いない、のか……」
その部屋は掃除された後だった。彼女の部屋だけでなく彩人たちの部屋もそうなのだが、もうすでに一通りの家事を終えてしまっていることが見てわかる。
(どこに行ったんだ?)
彼にはルネの行くあてが思い浮かばない。
「おい、彩人。 そのルネって子はいないのか?」
後から部屋に入ってきた乃樹が後ろから尋ねる。
「ああ……」
どうしてルネがここに居ないのかわからない。藍は仕事に出て今もおそらく仕事中。若葉と幸祐は、彩人たち三人は学校が終わってから急いで帰ってきたので、先に帰っているとも考えにくい。
(一人で出かけたのか? でも、なんで……)
ルネは極度の人見知り。それに記憶喪失の彼女が新代荘の周辺のことなど知っているはずがない。
彩人は、出かけるはずがない、と主張する。
それは先日。
「お前は一人で外に出るのはやめとけよ」
「ん?」
「ルネが一人で外出なんてしたら、人とすれ違うたびに叫び声あげそうだもんな」
「ひどーい」
「しまいには迷子になって帰って来れなくなったりしたら、もう最悪だよな」
「彩人のバカ!」
と、いったようなやり取りを交わしていた。
「さあ約束を……って彩とん? どうかしたの?」
いつもどおりに彩人がリアクションを取らない様子なので、雨夜が少々気まじめになってしまう。
(一人で出かけるなって言ったんだ)
「ああ! おかしい!」
怒鳴ったように言うので雨夜も乃樹も驚いた。
不安の渦が徐々に大きくなっていく。
彩人は忘れようとしていた、目を逸らそうとしていたその事実から、もう正面に認め向き合うしかなかった。
実に嫌な予想だ。
ルネがただ一人で出かけたならばまだいい。
だが、そこへ『奴ら』が関わっていた場合どうなる?
「彩人」
雨夜が平常心を失いつつある彩人のもとにやってくる。
いつもの周囲を明るくする効果を持つ楽観的な表情は薄れ、まれにしか見せない真剣な眼をしていた。
「かなり心が乱れているみたいだけど、そんなに大変なことなの? ここにルネって子がいないということは」
「ああ」
彩人は確信がないにしても頷いた。
そう。
(ルネが誰かと接触したと決まったわけじゃない)
必死で頭の中を整理していく。
(でも用心にこしたことは無い)
ルネを今見つけ出さないと気が済みそうに無いと判断した彩人は決断する。
「ごめん二人とも。今日は帰ってくれると助かる」
「彩人?」
彼は二人の顔を交互に見る。
「俺は今からルネを捜しに行ってくる」
「なら手伝うよ。乃樹も手伝うよね?」
雨夜が即座に言い返す。
「え、ああ、お困りなら手伝うぞ!」
乃樹も雨夜の考えに同意。
「お前ら……」
「ほら分かったら、さっさとルネちゃんがどういう子なのか教えてよ。何か情報がないと私たちが捜せないじゃん」
一人より三人、ルネを探し出せる効率も三倍になる。
「ありがとよ」
彩人はルネがどこに行ったのかを深く考える。
(やはり一度行ったことが最有力だろうか……。行った場所は火曜日に出かけた町か、それともう一箇所――――――あの雑木林か)
「まずルネの容姿について教えておく。ルネは極度人見知りだからおそらく顔をフードで全部覆っていると思う」
火曜日にいざこざがあったがその時に買った服はフード付だった。出かけるとしたら必然的にそれを選んだと予想できる。
「それじゃあ顔が見えないじゃん」
まったくその通りであるが、ルネはそのためにフード付の服を好む。
「でも少しでも見えれば徹底的な特徴がある。」
「それはどんな?」
ルネの特徴。
彩人も初めて会ったときにふいに見とれてしまったそれしかない。
「銀髪。そして青い目をしている」
「外国人かよ!」
「名前からは推測はできていたけどね」
フードで隠れていると言ってもそれさえ確認できればそれはルネと断定してもおかしくない。彩人はこれまでこの帆布という町で同じような容姿をした人物を一度も見たことがなかったからだ。
「でもそれなら私たちでも分かりそうだね。とりあえず会ったら彩人の知り合いって伝えれば大丈夫だよね?」
「まあ……ルネが逃げ出そうとする前に」
「で、どこを捜せばいいんだ?」
町か。雑木林か。
「二人は街の方を見てきてくれ。できたらここから、町にあるあの大型スーパーマーケットまでの道一体を頼む。ルネは道のど真ん中は歩いたりできないと思うから、影になるようなポイントに目を向けてくれ」
「大型スーパーっていうのは、たぶんあれでいいな」
帆布では大型スーパーマーケットは一店舗しか存在していないので雨夜と乃樹にもすぐに伝わる。
「俺は別の場所で見ておきたい場所があるからそっち行く。じゃあ二人とも頼んだ!」
彩人は先に雑木林へと向かった。
「わかったよ」
「了解した」
彩人はあっという間に行ってしまった。走る速度からして十分に焦っていることなど簡単にわかる。
「私たちも行こうか」
「おう」
「彩とん、必死だったね」
雨夜は隣を走る乃樹の方を見ずに語りかける。
「ああ、久しぶりにみるぜ。それだけ心配する事態なのか……それとも彩人がその人のことをそれだけ大事に思っているのか」
「……。――――――思っているのかもね」
二人は町のほうへ急ぐ。
■□■□■
昼時だというのに気温が上がった感じはしていなかった。むしろ下がっているようにさえ思える。空も灰色が濃くなっていた。
四日ぶりになる。
日曜日にコンビニへ行った時と同じ経路を辿っていく。その経路は両側を建物で囲まれていつも影を作っている細道ばかりなので、路面は数日たった今でも雪に覆われている。
彼は一度も足を止めることなく十分足らずで雑木林への入り口に到着する。
(ルネはここにいるのか? いや、頼むここにいてくれ)
彼が最初に取れる行動は二択だった。
ただ外に出たかった。それはルネの性格から考えて削除する。では、なぜだ? と、次々に事の発端を考えていくうちに彼が断定した理由。
ルネは自分の記憶を探っている。
彩人にはそれ以外考えられなかった。
「くそ……」
彼は歯噛みして雑木林の奥へと続く一本道を突き進む。
(俺はあれからなにもルネにしてやれていない。なにも思い出しちゃいない。なのに……なのにルネは新代荘に居座って俺たちと普通に暮らしながら、自分からあれ以来記憶のことについては話さなくなった。別にこれから思い出していけばいいよ、だなんて、それでいいのか? 自分が誰なのかもわからないのに。俺がそれをなんとかしてあげるんじゃなかったのか? 俺は恐れていたじゃないのか? ルネの正体を知ることを)
ルネが使っていたあの不思議な力。それを炎使った男と同じもの。
つまりは、同類。
もし追求してしまえばあの日のようにまた『非日常』に関わることになるのではないか?
彩人の足は一本道の途中で止められた。
木々で生い茂っていたはずなのにぽっかりと空いた場所。もちろんそれらはあの男の炎によって焼き払われたものだ。
今は立ち入り禁止と書かれたテープが張られている。彩人が来た方と反対側にも同じようにテープが張られている。
普段から使う人などいないように思われる道なのに立ち入りを禁じている。
あの時の出来事はこうして影ながらも『日常』に表れている。
「いない、か」
彩人はテープをくぐり辺りを捜索するが、銀色に輝くものは見られなかった。
(ここいないとしたら町しかない。いや、もしかしたルネトが全くの知らない場所に行っているとしたら……)
それでも町に行ってみるしかなかった。検討もつかないところを手当たり次第捜したところで見つかるとは到底思えなかった。
彼は来た道を戻らずにコンビニのある方面からの道に行く。
この道を進み続けると同じように建物に囲まれた細道になるが、それをさらに進むと自動車も頻繁に通る車道に抜ける。その車道を西に進むと橋が架かっていてこちらからも町に行くことができる。走っても町まで二十分で着くのは難しいだろうが、来た道を戻って新代荘から行くよりかは早く着ける。
もう十二時をまわっていた。
空腹なんて気にしていられない。
やがて彩人は総合スーパーマーケットに着いた。その時には店の外に付いた丸い形をした時計をみると時計の短針と長針は一直線になっていた。彩人はずっと走りっぱなしで体が火照っていたので気温が下がっていっていることに気が付いていなかった。
「雪?」
ここ数日間は雪が降らなかった日が続いていたのに、気温が再び下がったせいか雪雲が活動を再開する。
冷えた空気が汗をかいた体に吹き付けて一気にほてりをなくす。
「この周辺を捜すか……それともすれ違いで新代荘に帰っているとも考えられる……どうしたらいい!」
この時間帯は藍が仕事を終えて帰ってくる。
(藍さんだったらルネがいないことを知ったらどうするか)
そう考えていると。
「彩とーん!」
聞きなれた声と彩人をその名で呼ぶのはひとりしかいないので、誰かはすぐにわかった。
「どうだった?!」
「ごめん、それらしき人は見つけられなかったよ。まだノッキーが周辺をまだ見回っていると思う」
「そうか……わかった。二人はもういいよ、昼過ぎたし、雪降ってきたし。後は一人でなんとかする」
「でも、この辺りのことを全く知らない人なんでしょ? だったら迷子になって帰れなくなってもおかしくないよ。交番でも尋ねてたらいいんだけど……」
彩人はルネが交番に尋ねるわけがないと思った。
(ルネはたぶん交番を知らないんじゃないか?)
そもそもルネが誰かに自分から話しかけられるとは思えない。
「ノッキーに会ったらもう帰っていいと伝えておいてくれ。俺はここから新代荘までも道を探して行く。すれ違いになってるかもしれないから」
「あ、彩とん!」
雨夜の返事を待たずに彩人は走り出していた。
町と新代荘の間には住宅街と学校、そして橋があるくらいだ。
(学校って線はあるだろうか?)
思いついた先に直接向かう。何の手がかりもないのだからそうするしかない。
学校や住宅街は町より土地が高い。だからこれより先は緩やかな上り坂がずっと続いていく。彩人は長時間走り続けられるほど体力はない。上り坂は体力の切れた彩人のを苦しめる。
「はぁはぁ」
白い息が空中に出ては煙のように消えていく。
足が地面にへばりついているような感覚になっていた。
彩人は足を地面から引き剥がして進んでいくがその進む距離は短い。走っているはずだったがいつの間にか歩いていた。
(ルネ……。どこだ……)
学校の校門のところに来てとうとう立ち止まってしまった彩人は手を膝につく。
(これだけ探してもいないんだったらもう帰っているよな……。ストーブの前に丸まってでもいるよな。勝手にどこにも行ったりしていないよな!)
彩人は顔を上げる。
(?)
雪が降って先が真っ白になっている坂道を見上げる。
よく目を凝らす。
白色の中。
溶け込んでいる。
白色よりやや銀色に近い。
(あれは……)
「ルネ!」
彩人は白色の空間へと叫び、再び重い足を走らせる。進み方は遅かったが不思議とつらさは感じられなかった。
銀色の少女は静かに振り返った。
「どこへ……行っていたんだ……?」
彩人の体力はもう限界だ。息切れをしている彼の言葉はところどころ途切れる。
銀色の少女――ルネはそっと彩人に近づく。そしてルネの体は彩人の体の中へと埋められる。
(ルネ……?)
「ごめんね」
「はは……見つかってよかったよ。お前が俺の手の届かないどっかに行っちまったみたいだった」
「……」
「さ、帰ろう。昼飯、食ってないだろ? 俺はもう腹減って倒れそうだわ。あっ、藍さん俺が帰ってくること知らないから俺の分用意してくれてるかな……。用意してなかったら俺に作ってくれよ」
「……うん、わかったよ。帰ろ……」
ルネはその後短い答えしか返さなかった。