三章(2) 忍び寄る影
「ぅー」
誰にも聞かれないように小声で唸る。
ルネは一度来た三階建ての総合スーパーマーケットの目の前までたどり着いていた。厳密に言えば、その店の入り口に面した通りの反対側に立っている電信柱に身を隠している。周りから見れば完全にフードで顔を隠した不審者である。
ここを目指して出かけたので目的地には着いたものの、何かをしにきたわけでもなくこれからの行動をどうしようかと迷っていた。
もうここに留まって五分以上経過している。
その間、通りすぎていく人々が不振な目を向けていたが、ルネはその意図を全くわからないまま見られることによってただびくびくと怯えていた。
幸いルネは背が低く、またすらっとした細身の体型だったので、顔を隠していても子供だとわかる。通報されて警察官がやってくるという事態は起こっていない。これが太った中高年の体型をしていた場合はすぐにでも警察官にすっ飛んで来て声をかけられていただろうが。
さすがに店内にまで入っていく勇気は無かった。
(と、とりあえず、ルネも頑張った……と思う。これなら今度は一緒に歩くことぐらいならできそう)
ルネは人見知りを少しでも克服しようとしていた。これを克服しない限り新代荘から気兼ねなく出ることができない。
そう思った彼女は意を決し、一人で外に出てみることにしたのだった。
だが外出してみて、結果はこうである。
(藍が帰ってくるまでに帰らないといけないし、うん、もう帰ろう)
ルネが電信柱から姿を出した。
「ちょっといいかしら?」
「ひゃっ」
いきなり背後から肩に手を置かれたことによって飛びのこうとする。
「いっ!」
電信柱に頭を打ちつけてしまった。ルネは打った部分を押さえてその場にしゃがみ込んだ。ガンガンと頭の中で響、ジンジンと頭皮に痛みが走る。
「だ、だいじょうぶ?」
ルネは涙目で見上げる。女性に話しかけられていた。スタイルのいい色香の漂う金髪女性だ。金髪は肩の長さまでありウェーブがかかっている。
「うん……」
手を差し伸べられる。
彼女は一旦躊躇したがその手を取って立ち上がる。
「ありがとう」
小鳥のような口からとても小さい声で言う。
金髪の女性はお礼を言われるとやさしく微笑み、「どういたしまして」と返す。
「あら? あなた、綺麗な髪をしているわね」
ここまで近づくとフードからルネの髪が出ているのがわかる。
金髪の女性も綺麗な髪をしているが、ルネのものは対照的な銀色の美しさである。
「あなたも……です」
「そう? ありがとう」
ルネは優しそうな人だとわかると心が落ち着いてきた。だが何か引っかかるものがどこかにあるような気がしていた。体がぞわぞわするような……。
「でも、そこまで驚かれるとさすがにこっちも驚くわよ……。ところであなたはここで何をしていたの?」
「えっと……」
何をしていたか、と問われてもルネには答えようが無い。彼女は何もできなくて帰ろうとしていたのだから。
「まあいいわ。ねぇ? 少しお話しないかしら?」
ルネは見知らぬ人にいきなり声をかけられるとは一度たりとも考えていなかったため、心の準備ができていなかった。目が泳ぐ。口がパクパクする。
「もしかして用事があったかしら?」
「い、いえ、帰ろうとしてたところで……」
そこで金髪の女性は目を細める。
「帰る……」
ルネは彼女の朗らかとした雰囲気が一瞬で冷たくなったのを感じる。それに恐怖心が少し湧いてしまった。
しかし冷たい雰囲気は冬の冷気に変わって溶け込み、すぐに違和感は消える。
「今すぐじゃないといけないかしら? 問題無いようなら、ちょっとだげ付き合って欲しいんだけど……大丈夫かな?」
「え、えっと」
ルネは躊躇う。
(この人知らない……から、藍は知らない人には関わったらいけない、って言った)
「す、すみません!」
走り去ろうとしたルネの腕をその女性は掴み取った。
(?!)
「あ、あの……ルネ、帰らないと」
だが金髪の女性は都合よく引き下がってはくれなかった。
「ねえ?」
「は、はい」
女性の雰囲気は再び、冬の寒気と同じように冷たくなる。
「どこへ帰るの?」
「え」
「帰る場所があるの?」
「あの……」
「どうやらどこかのお人よしにでも拾ってもらったのかしら? まあいいわ。そういうことにしておきましょう」
状況がつかめない。
恐い。
早く帰りたい。
だがルネの腕は金髪の女性に掴まれたままである。
「改変者であり、しかもその中でもこちら側の世界にいたというのに、あなたにこの普通の世界に居場所があるって言うつもり?」
なんだろうか、とルネは思う。言葉が難しくてわかりにくかった。
ただ、何かこの人は――――――
「ルネを知っているの?」
訊いてみた。
まるで自分とは初対面ではないように思えたから。
「どういうことなの?」
金髪女性は不審な表情を作る。
「ルネは記憶がないの……だから昔のことが思い出せないの」
「それは記憶喪失ってことでいいのかしら?」
「そう……」
そこで金髪女性は手を放した。彼女はルネに対して同情――――――はしていなかった。ただルネにも気付かれないように薄っすらと笑みを浮かべていた。
金髪の女性のほうが手を離したのでルネは逃げられるようになったのだが、自身を知っているような口ぶりの彼女からすぐには離れられなかった。
「じゃあ、お話しましょう。ここでは寒くてなんだから、そこの喫茶店にでも入って」
「知っているの?」
ルネはもういちど確認を取る。
「ええ」
ルネは思う。
記憶を失くす前の自分を知っている人がいた。そのことをどう捕らえて良いのかわからない。喜ぶことなのか。だが、このまま帰るのはもったいない。
彼女はもう網にかかってしまっていた。
「さあ、中に入りましょうか。そして教えてあげるわ。あなたが何者であるかを――――――」