奇跡なんかない! 闇の聖書までも!
突然、周囲が闇に包まれてしまった。
昼間の砂漠に居たのに。
もうすぐ日が暮れる時間ではあったけれど、こんなに急に暗くなるなんておかしい。
月も星もない夜のように暗い。
真の闇だ。
何も見えない……
足がもつれたと、思った時には転んでいた。
両手をつき、衝撃を抑える。感触は、砂の上だ。僕は砂に手をついている。
「ガジャクティン……」
兄様の声。
「兄様?」
僕は声がした方向に顔を向けた。目を見開き、或いは、細めた。が、何も見えない。
「僕は、ここだよ、ガジャクティン」
腕が、僕を抱きしめる。僕の背をぎゅっと強く。
「落ち着いて、ガジャクティン……大丈夫だから……」
兄様が優しく僕に声をかける。
「僕が一緒にいるから……落ち着いて……」
涙声だ。
兄様は穏やかな声をつくりながら、静かに泣いている……
周囲に人の気配がする。だが、誰がいるのかがわからない。
僕のすぐそばで誰かが動く。息がかかったので、顔を覗かれているんだと、わかった。
「目ぇ、持ってかれたか……」
赤毛の戦士、いや、ミズハ様だ。
「えげつないお方やわ。舌と鼻の次は、目か……」
そうか……
シャンカラ様が僕の視覚を持っていったのか。
過去渡りで、ラーニャの体の一部を拾って来た代償として。
「どういう事……?」
ラーニャだ。声は少し離れている。
「何でガジャクティンが失明したの! どういう事よ!」
「再生の術にはラーニャ様のお体の一部が必要でした。ガジャクティン様は手もとにあるものだけでは足りぬのではと心配し、守護神にラーニャ様の血肉を持ってこさせたのです。その代償に視力を奪われたのでしょう」と、事実を説明したのはジライだった。
「何でよ!」
ラーニャが声を荒げる。僕の方を向いて怒鳴っているのか? 顔の向きが変わったんだな。さっきより、声がよく聞こえる。
「何でそんなことすんのよ! 私、頼んでない!」
頼めるわけないじゃないか、ラーニャ死んでたのに。
「何をへらへら笑ってるの、馬鹿! 私、言ったじゃない! あんたの無謀には、もうつきあいたくないって! これ以上、何かしたら姉弟の絆をぶち切ってやるって!」
「うん、ごめん、ラーニャ」
「ごめんじゃ済まない! 無茶するなって命じたわよ! あんただって、しないって誓ったじゃない!」
「誓ったよね。約束を破ってごめん、ラーニャ」
「謝るぐらなら、やるな、馬鹿ッ!」
少し周囲がざわつく。
無理しちゃ駄目だと言ったのはアーメットか。
うるさい! と、ラーニャが言い返している。生き返ったばっかりなのに、何を?
そっちじゃないって声もした。アーメットだ。
何処よ? って声の後、砂を蹴る音が近づいて来る。
「治して!」
僕のすぐ近くで、ラーニャの声がする。歩けたのか、ここまで? ラーニャは僕の横へと叫ぶ。
「その格好はナニだけど、その真っ白な顔! あんたが姫巫女でしょ? あんたなら治せるわよね? 腐りきってた知恵の巨人だって治したもの! 私のバカ義弟の目を治して! お願い!」
「できん」
にべもない答えだ。
「病んだモノはもとの姿に戻せる。けんど、その子は目ぇを神様に捧げてまったんや。もう、そこには無い。食べて産み直しても一緒や。目と鼻と舌が無い子ができるだけや」
「役立たず!」
昂ぶらせた感情のままに、ラーニャが声を荒げる。
「千年も生きてきた大白蛇だって、威張ってたじゃない! キョウの守護神だって! 何でできないのよ! 死者だって生き返らせたくせに! 目を治すぐらいどうしてできないのよ!」
「ラーニャ……」
僕はラーニャの声がする方へと手を伸ばした。
兄様が手を引き、僕を導いてくれる。
僕の手がやわらかな肌を感じる。
ラーニャの二の腕だ。
位置が低い。
ラーニャは、砂の上に座り込んでいるようだ。
「ごめんね、ラーニャ……」
僕はラーニャに触れた。
ラーニャは身を震わせている。
声を殺して泣いているのだ。
「嫌な目覚めになっちゃったよね……ごめん」
ラーニャがむせび泣く。
「だけど、僕は嬉しいんだ……今、ラーニャが側にいるから……ラーニャがいない世界じゃ、生きててもしょうがないし……」
「黙れ!」
声をあげてから、ラーニャがしゃくりあげる。
「私、馬鹿なお子様は嫌いなのよ! 私より賢いって、嫌味をさんざん言ったくせに! あんたの方が馬鹿よ! 考え無しの馬鹿!」
「うん、そうだよね」
「あんたの面倒なんか、もうみきれない! どっかでのたれ死んじゃえばいいんだわ!」
「うん」
「縁、切った! もう姉でも義弟でもないんだから!」
「うん」
「あんたなんか……あんたなんか……あんたなんか」
「ラーニャ……」
「……大嫌いッ!」
「うん……ごめんね……ラーニャ」
堪えきれなくなったのか、ラーニャの喉から泣き声が漏れる。
僕の背に手を回し、僕をきつく抱きしめ、ラーニャが号泣する。
僕にできる事は、ラーニャを抱きしめ、謝り続ける事だけだった。
* * * * * *
姫勇者死亡……心話にて速報が、世界中に広まった。
姫勇者ラーニャ……十四代目及び十五代目大魔王ケルベゾールドを倒した十四代目勇者。
十三代目勇者セレスの娘。ラジャラ王朝第一王女。
美貌の姫君だった彼女は、大衆に人気があり、もともと異名が多かった。神速の勇者、美しき剣、麗しの薔薇など。
人から人へ伝わりゆく速報に、新たに、最強の勇者、剣に愛されしもの、奇跡の聖女などの二つ名が加えられていった。
彼女の戦いは奇跡に満ちていた。
第一の奇跡は、その驚異的な速さ。わずか五ヶ月で全ての四天王(十四代目大魔王の部下)を倒し、大魔王二体の討伐を果たしたのだ。
第二の奇跡は、無血さ。従者の数が五十六人(十三代目勇者セレス・ナーダ国王・アーメット王子を含む)と、勇者史上、最も多くの従者を抱えながら、その誰も失わなかった事。
十五代目ケルベゾールド戦では過去の四天王が七体そして邪龍までもが召喚されたにも関わらず、従者の死者は零。
剣に愛された彼女の清らかさが、味方をも守護したのだろう。
十五代目大魔王との戦いでの被害……負傷者 三十八人。治癒不可能な怪我人 一名(ガジャクティン王子)のみ。
従者達は戦場から、国へと帰還した。
第三の奇跡は、ケルベゾールドを真に倒した事。
彼女は、十五代目ケルベゾールドと共に、大魔王召喚の為の魔法道具 『闇の聖書』をも消滅させたのだ。
魔界の王は、今世に出現する手立てを無くした。
この地上に、大魔王の脅威にさらされる事は、二度とあるまい。
速報にて知らされたのは、三つの奇蹟と、姫勇者ラーニャが十五代目ケルベゾールドを相討ちにて倒し、短い生涯を終えたという事。
そして、『勇者の剣』が姫勇者と運命を共にしたという事。
七百有余年の間、大魔王を倒せる唯一の武器であった剣は、姫勇者と共に大魔王の時空魔法に飲み込まれ、今世から消滅した。
大魔王が完全に葬られた瞬間に、聖なる武器も役目を終えたのだった。
多くの心ある者が、彼女の死を悼んだ。
殊に、彼女の母国インディラ、代々の勇者の出身国エウロペ、そしてシャイナで。
シャイナ国では、彼女は皇帝の婚約者であり、疲弊した国を資金面からも救ってくれた恩人であった。
皇帝は、三年の間、喪に服す事を宣言した。
『姫勇者』の名づけ親、エウロペ国王は心話にてナーダ国王と十三代目勇者セレスに慰めの言葉を伝え、自国で病気療養中のグスタフ侯爵にも弔問の使者を送った。
* * * * * *
ラーニャ様が、僧侶ナラカを倒してから半日以上が経過した。日も変わっている。
昨日、『姫勇者死亡』の速報の心話をナーダ国王の名の下に各国に送らせてから、ずっと今後の予定やら、公開する情報について話し合っていた。
カルヴェル様、ナーダ、シャオロン、それに我が部下を交えて、後宮の一室で。
シャオロンは全身火傷で死にかけたそうじゃが、夜通しの話し合いに付き合っている。怪我自体は魔法にて消されていても、肉体疲労は残っておろうに。忌憚ない意見や提案を述べてくれるシャオロンの参加は助かる。ありがたい。
ナラカ戦の真実を全て、世に伝えるわけにはいかぬ。
どう伝えるのが無難か、知恵をつきあわせているわけだ。
カルヴェル様の魔法で、セレス様とラーニャ様と三人となった王子、そして我等はインディラ後宮に移った。
他の者達とは、シルクドの砂漠で別れた。
新従者達はれぞれの国へ、カルヴェル様の分身に運ばれ、或いは自らの魔法で帰った。結界を張っていたインディラ僧侶達も、移動魔法の得意な現大僧正候補と合流したゆえ、帰ったろう。
北方人の移動は、ケルティの上皇が担当した。
白蛇が離れグースカ眠っている男も、ふさわしい場所に運んでおくとの事だ。後日、報酬を払えと要求してくるであろうが、数週間、或いは数カ月先の話だろう。
アジンエンデは、まずラーニャ様を、次に第三王子を抱きしめた。
『夜は必ず明ける。終わらぬ悪夢はない。間もなく、朝日がおまえ達を包み込むだろう』。
赤毛の女は、剣を抜き、印を切った。
『世を救った姫勇者と勇敢な仲間達を、誇りと思う。常に光の加護がおまえ達と共にあらん事を祈る』。
ラーニャ様も、赤毛の女戦士との別れを惜しまれた。北方ケルティとは国交がない。別れれば、初めての『友人』とは、そうそう会えなくなる。
『子ができたらしい。国に帰り、夫とよりを戻す』
そう聞いて、ラーニャ様の顔に笑みが戻った。
『処女仲間だったのに、先、越されちゃったわけ? 悔しいけど、嬉しい……アジンエンデ、幸せにね……旦那さん、絶対、どっかの変態忍者よりいい男よ』
アジンエンデの姿が移動魔法のきらめきに消えるまで、ラーニャ様はその姿を目で追い、手を振り続けた。
ラーニャ様は、ナラカ戦について何かお語りになりたいようであった。
が、侍医により半ば強制的に休息が与えられた。『眠り』の魔法がかけられたのだ。さまざまな身体機能が低下しており、今、無理をすると命に関わるという診立てであった。
ラーニャ様には、セレス様がつきそわれた。
失明した第三王子は、第一王子の部屋にアーメットと共に居る。アーメットの身の内の蛇が、徹夜にて、霊力にて物を見る方法を教授しておるのだ。
第一王子と白蛇の契約期間は七日。アーメットの内の鱗も、その日を境に溶けるそうな。間もなく期限がきてジャポネに戻らねばならなくなるゆえ、それまでに眷族の使い方や視力の補い方を教えると白蛇の方から申し出たのだ。
『捉えられる世界は、人の目が見るものとはまるで違う。が、見ることはできる』ようになるのだそうだ。
さまざまな事が、時間との勝負だった。
表の大臣達との会議には、ナーダ国王役としてヤルーを出席させた。昨日の会議では、間に部下の忍者どもをはさんで連絡を入れ、こちらの意向を国王の意見として述べさせた。それ以外は悲しみに暮れる国王の演技でもしておれと命じられた通り、ヤルーはだらだらと会議を引き延ばし、仮眠休憩にまでもっていってくれた。
カルヴェル様とナーダとシャオロンとムジャらと話し合い、他国に伝える情報や今後の予定は大方、決まった。
早朝からの会議には、ナーダ本人に出席してもらうか。
国葬は三日後と、昨夜、表でも決めている。
各国への通知は、表に任せるが、通知文はこちらの指示通りにしてもらう。
勇者と従者は、大魔王討伐後に、エウロペ国王のもとへ報告に行く『伝統』があった。
けれども、ラーニャ様の死を理由に、その『伝統』を先送りできる。七日から二週間は遺族の立場をフルに活用させてもらおう。第三王子の失明も遅延の理由となる。
ナラカ戦の真実を、どんな『真実』として伝えるかを煮詰める時間ができたというわけだ。
インディラでのラーニャ様の国葬を終えた後、従者の一部のみがエウロペに『伝統』を果たしにゆく。
一度は『勇者の剣』の持ち手となった第二王子アーメット、インディラ国世継ぎガジュルシン王子、当代随一の大魔術師カルヴェル様、二代にわたり従者をつとめたシャオロン、インディラ教大僧正候補のサントーシュと……後は、まあ、新従者の代表としてあのペリシャ聖戦士長を向かわせれば格好はつくか。
ナラカ戦に関しては、我らが何も語らずとも、口は多いのだ。新従者達が見聞した事が世に広まってゆく。
だが、情報が一人歩きしては困る。漏らしても構わぬ情報――過去の四天王や邪龍との戦闘、ラーニャ様とナラカとの戦いとその結末等を、積極的にこちらから流す事によって、情報を操作する。
ラーニャ様の復活を隠し、ナラカ戦における負傷で第三王子は失明したとする。『勇者の剣』と『闇の聖書』の消滅は偶然であり、『闇の聖書』を消したのはラーニャ様の功績とする。その三つは徹底せねば。
各国で噂も流す。が、目に見える形の文章も流布したい。
先ほどからムジャが、やけくそのようにペンを走らせている。勇者の従者であった我等四人が書いた文章を下敷きに、我々の意見や要求を加え、『姫勇者ラーニャ 追悼本』の主要文章を書いているのだ。速報性を重視するゆえ、物語にまでは昇華できぬ。事実の列挙に近い。だが、大魔王戦に興味を抱く輩は本に飛びつくであろう。都合のいい事実が世に広まってくれる。
ムジャの文だけでは頁が少なすぎるので、ラーニャ様の足跡……既刊本のあらすじと、まだ本となっていない部分の出来事のまとめも載せる。そちらは他の部下にやらせている。
後二時間で原稿を書きあげさせ、我がチェックし、修正させ、午後にはシャイナの版元に渡すのだ。
迅速出版を取り柄とする版元は、魔法で版木を削り、魔法で印刷し、魔法で製本し、一週間で『姫勇者ラーニャ 追悼本』を出版してくれるであろう。
「失礼いたします」
扉を使わず忍者の技で、くノ一のセーネが姿を現す。
「ナーダ様、ラーニャ様からにございます」
セーネから渡された手紙に目を通し、ナーダの細い目が一層、細くなる。
「少し退席し、ラーニャと話してきます。何かあったら呼んでください」
そう言い残し出て行く男の背を、目で追った。
クソ真面目な顔が一層、硬くなっていた。大魔王戦の話であろう。
ラーニャ様が、ナーダ一人に語る事を希望された理由が気にはなった。が、動かずにおいた。
内緒の話であれば、結界を張るであろう。覗くだけ無駄だ。
* * * * * *
意外なことに、部屋にセレスはいなかった。召使もいない。
私と二人っきりで話をしたくて、人払いをしたのか。
暗い部屋に灯る明かりは、サイドテーブルの上の燭台だけだった。
ベッドの上のラーニャが、ほのかな灯りに照らされている。ベッドから上半身だけを起こし、うつむきかげんに座っている。自分の手元を見つめる目を半ば閉じ、眉をしかめ、唇をゆがめている。溌剌とした彼女に似つかわしくない表情だ。
近づいた私を、ラーニャはすまなそうに見上げた。
「お忙しいところ、ごめんなさい……来てくださってありがとう」
「私の仕事は、今は、一段落してます。心配は無用です。それに、あなたの口から語られる真実を私も聞きたい」
勧められたので、寝台のそばの椅子に腰かけた。
「お話を伺いましょう」
ラーニャが私へと向き直る。その表情は真剣で、私を真っ直ぐに見つめる。
「みんなにも後で話すけど、まず、お父様に聞いてもらいたかったの……伝言を頼まれてるし、ご相談したい事もあるから」
「伝言?」
「ええ……あのね……ちょっと突拍子も無い話なんだけど、聞いて」
「わかりました、どうぞ」
「私、死んだ後ね……ナラカ達と一緒だったの。幽霊になって一緒に居たというか、魔法で精神世界に閉じ込められていたというか……」
「魂だけの存在になって、伯父上と対話したという事ですか?」
「ええ、多分、そういう事だと思う。それで教えられたの。奇跡なんて何一つなかったって。私はあいつの掌の上で踊らされただけ。姫巫女が魔に堕ちず解放されたのも、従者達に誰一人死者がいないのも、私が生き返ったのですら、あいつの計画通りなのよ……悔しいことに、ね」
* * * * * *
ナラカを斬った! と、思った瞬間に、私は違う所に居た。
真っ黒な何もない空間。
狭いのか広いのかすらわかんない、暗い世界。
その寂しい場所に……
ナラカが居た。
真っ暗だったのに、ナラカの姿はよく見えた。オバケみたいだった。いつも通りのうっとーしいほど長い髪、嫌な薄ら笑いはそのまんまなんだけど、左肩から斜めに腹ぐらいまでが残っているだけで下半身はなく、右腕は無かった。それでも、残っている部位に魔術師のローブがあるのは、こいつなりの美意識のせいだろうか。
斬りかかろうと思ったんだけど、『勇者の剣』が無かった。手にも背にも。
「剣も聖書も今世から消えましたよ」
ナラカが静かに微笑む。
「そして、私もあなたも死んだのです。もう争う必要もないし、武器もなければ戦えないでしょ?」
死んだだなんて、悪い冗談と思った。
けれども、ナラカは意地の悪い顔で笑う。
「最期を見せましょうか?」
そう言ってナラカが、気分の悪くなる映像を見せた。
『勇者の剣』がナラカを背から斬った瞬間、鞠ぐらいの黒い球状のものが、私とナラカの間に出現したのだ。
それは私達を瞬時に飲み込み、収縮して消えた。
一瞬の出来事だった。
次に、何がどうなったのかを、克明に見せてくれた。
黒の光は私達を吸引し、ズタズタに引き裂いたのだ。
私も、剣も、鎧も、肉体も……大魔王となっていたナラカの残っていた肉体も、浄化と共に広がっていく光も……千々に砕け、形を失った。更に圧縮され、塵すら残さぬほど完膚に砕いてくれて、黒闇は消え去ったのだ。
「一瞬の出来事だったから、痛みもなかったでしょ?」
ナラカが楽しそうに笑う。
だが、そんな映像を見せられても、実感がわかなかった。今、私はここに居る。『勇者の剣』は無いけれど、白銀の鎧をまとったいつも通りの姿だ。
「死んだんなら、ここ、何処よ? 私とあんたは、幽霊ってわけ?」
「ええ、幽霊ですよ」
両手もなく、下半身もない、ナラカがクスクス笑う。
「あなたと、剣と、聖書と混ざり合い一つとなる事を私が望んだのです」
「なに、それ……?」
「魔界の王の憑依体となったご褒美ですよ」
忘れたのですか? と、からかうように男が言う。
「魔界の王の器となった者は、勝負の勝敗にかかわらず、ご褒美を貰えるんです。魔界の王が憑依体を離れる時に、どんな願いでも一つだけ叶えてくれるんです。それは、対戦相手への呪でなくてもいい。二代目ケルベゾールド以降の大魔王は、敗北を喫した時に屈辱を払おうと勇者を『呪い』ましたけどね、私はそんなつまらないお願いはしなかったんです」
「私と、あんたと、剣と、聖書が一つになった?」
ナラカが鷹揚に頷く。
「等しくしたかったのです。あなたと『勇者の剣』、私と『闇の聖書』で釣り合いがとれる。そう思ったので、一緒に死んでいただいたのですよ」
「なに、それ?」
「あなたも気づいていたでしょ、『勇者の剣』と『闇の聖書』は表裏の関係です。『闇の聖書』が力を失えば、『勇者の剣』も弱ってゆくのです。それぞれが闇と光の神官戦士ですからね、両者の力は常に均衡となるようにバランスがとられています」
え?
「『勇者の剣』が、もとはどんな姿だったかご存じです? 勇者ラグヴェイの義兄グザビィエ。それが彼の名であり、剣はもとは人間でした。聖書も同様なのですよ」
闇の聖書も人間だった……?
「前に言ったでしょ? 初代ケルベゾールドは自分には子孫が残せないと知っていたと。性機能に障害があったのです。そして、彼には兄弟も親類も居なかった。自分が魔界の王の最後の神官戦士だと知っていた彼は、魔界の王からのご褒美で、永久にこの地上に留まる事を望んだのです。既に生み出していた『闇の聖書』という魔法道具に魂を宿らせる事で、ね。魔界の王は神官戦士に憑依する、それが決まりだったので、『闇の聖書』の術そのものにケルベゾールドはなったのです。その術を宿した人間は、彼の眷族のようなものですから、魔界の王の器にできる……そういうわけなのです」
ナラカがクスクスと笑う。
「姫勇者様、私もあなたも脇役だったのです。真の主役は、古代の神の神官戦士の二人……『勇者の剣』と『闇の聖書』のお二人……そして、二人とももう戦える状態ではありません。剣は砕け、闇の聖書もほとんどの頁を失いましたし……二人とも、もう実体がありませんからね。古代から続いてきた代行戦は、もはや実行不可能となりました」