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「子守唄なんて歌ってないで働きなさい」と追放された令嬢——彼女がいなくなった孤児院で、子供たちが夜ごと叫び始めた

作者: 歩人
掲載日:2026/04/30

 図書館の扉が開いた。


 西日が逆光になって、扉の向こうに立つ影の輪郭しか見えない。小さい。子供だ。でもラーベンハインの子供たちは全員ここにいる。


 影が一歩踏み込んだ。靴が床を擦る音がした——いや、靴ではない。布だ。靴底が擦り切れて、布で足を巻いている。


 逆光が薄れて、顔が見えた。


 頬がこけている。目の下に黒い隈。埃にまみれた栗色の髪。唇がひび割れて、乾いた血がこびりついている。


 でも、その目だけが——必死に、何かを探していた。


 私の目を見つけた瞬間、少年の目が大きく見開かれた。


 「イレーナ、さま——」


 声が掠れていた。何日も水をろくに飲んでいない声だ。


 指が震えた。名前が喉を突いて出た。


 「トーマ」


 王都聖光孤児院の子供だった。私が三ヶ月前まで、毎晩物語を読み聞かせていた子供。


 トーマが二歩、三歩と歩いて、私のところまで来た。そして膝から崩れるようにしゃがみこんで、私の服の裾を掴んだ。


 「お話が……聴きたくて……」


 声が途切れた。嗚咽が漏れた。


 「みんな、眠れないんだ。リリが、もう三日も何も食べてない。ルーカスが毎晩叫ぶんだ。僕も——僕も、もう竜の話の続きがわからなくて——」


 王都からラーベンハインまで、二百キロ以上ある。馬車でも五日かかる道のりだ。


 八歳の子供が、一人で歩いてきた。


 私はトーマを抱きしめた。骨ばった体が腕の中で震えている。服から汗と埃と、血の匂いがした。


 司書のノエルがいつの間にか横に立っていた。何も言わず、毛布と、温かいスープの入った椀を持ってきてくれた。


 トーマの足を見た。布を解くと、足の裏が水疱すいほうだらけで、いくつかは潰れて赤く腫れていた。


 私は涙を堪えて、トーマの髪を撫でた。


 「よく来たね、トーマ。よく頑張ったね」


 トーマがスープの椀を両手で包んで、ふるふると唇を震わせながら、一口飲んだ。


 それから、こう言った。


 「イレーナさま、竜は——友達を、温められましたか」


 三ヶ月前に途中で終わった物語の続きを、この子はずっと待っていたのだ。


 私は答えた。声が震えないように、語り部の声で。


 「ええ。竜はね、自分の火で友達を温められることを知ったの。怖いだけだと思っていた火が、誰かを守る火に変わったのよ」


 トーマが泣きながら頷いた。


 「……よかった」


 五人の子供たちが、黙ってその光景を見ていた。マルテが、そっとトーマの隣に座った。


 ——三ヶ月前のことを、話さなければならない。




 王都聖光孤児院の朝は、子供たちの喧騒で始まる。


 私の担当する年少棟、三十二人の声が食堂に反響する。スプーンが皿を叩く音、「それ僕の!」という叫び、世話係のため息。私はその喧騒の端で、子供たちの顔を一人ずつ見ていた。


 トーマが今朝は食欲がある。暖炉から離れた席を選んだけれど、火のほうをちらりと見る余裕が出てきた。火を怖がって暖炉の前に座れなかった少年に、私は「竜が友達になる話」を創った。三ヶ月かけて、やっと暖炉の近くに座れるようになったところだ。


 リリは相変わらず無口だけれど、昨夜の「星のお母さん」の話のあと、隣の子に小さくおかゆを分けた。母親の記憶がないこの子は、「お母さん」という言葉を聞くと黙り込んでいた。でも「星になったお母さんが毎晩見守っている話」を語り始めてから、少しずつ変わった。先週、初めて笑顔で「お母さん」と口にした。


 ルーカスは夜泣きが減ってきた。先週から「騎士が冒険する話」を語り始めたら、寝つきが良くなった。


 私はそれを、手元の帳面に書き留める。誰が何を食べたか。誰がどんな顔で眠りについたか。そして今夜、誰にどんな物語を語るべきか。


 「イレーナ嬢」


 背後から声がかかった。低く、硬い声だ。


 新任院長ブルーノ・カイザー。半年前に就任して以来、孤児院の空気が変わった。笑い声が減ったわけではない。ただ、大人たちの表情が——強張った。


 「一日、あなたの仕事を確認した」


 ブルーノは手元の書類に目を落としたまま言った。


 「朝食の観察、午前は子供と散歩、午後は絵本の補修、夕方から夜まで読み聞かせ。これがあなたの業務内容で間違いないかね」


 「はい」


 「はっきり言おう」ブルーノが書類を閉じた。「伯爵令嬢の給金は世話係三人分だ。お話を読むだけの女に払う余裕はない」


 予感はあった。ブルーノが就任してから、「成果」という言葉を何度聞いたかわからない。語り部の成果は数字に表れない。子供がどれだけ安らかに眠れるようになったか、夜泣きが何回減ったか——そんなものは帳簿に載らない。


 それでも、言わなければならないことがあった。


 「院長、トーマの物語は途中なんです」


 ブルーノの眉が微かに動いた。


 「竜の話の第四章を先週始めたところです。あと二ヶ月で火を怖がらなくなる段階まで——」


 「本は棚にある。誰でも読める」


 「同じ本を読むのとは違うんです。トーマには——」


 「イレーナ嬢」ブルーノが遮った。「感情論で予算は動かない。三日以内に引き継ぎを済ませたまえ」


 引き継ぎ。


 三十二人分の、三年間かけて積み上げた信頼の引き継ぎ。


 声色の使い分けも、間の取り方も、今夜この子にはどの物語が必要かという判断も——全部、一日や二日で教えられるものではない。


 でも、私はそれを言わなかった。言ったところで届かない相手だとわかっていたから。


 代わりに一つだけお願いした。


 「最後の夜だけ、読み聞かせをさせてください」


 ブルーノは一瞬間を置いて、頷いた。




 最後の夜を、一生忘れないだろう。


 大部屋に三十二の寝台が並んでいる。子供たちが毛布に包まって、私を見上げている。蝋燭の灯りが揺れて、天井に大きな影を作る。


 子供たちは追放のことを知らない。「しばらくお休みをもらうの」とだけ伝えた。嘘はつかない。でも、不安にもさせない。それが——最後にできることだった。


 「今夜はね、語り部が旅に出るお話をしましょう」


 リリが毛布から顔を出して、小さく訊いた。「語り部さん、帰ってくる?」


 私は微笑んだ。


 「もちろん。だって、お話の続きがあるでしょう? 物語の途中で帰ってこないお話なんて、あるかしら」


 リリが安心したように頷いた。


 トーマが小さな声で訊いた。「竜は? 竜はまだ旅してる?」


 「ええ、竜もまだ旅の途中よ。でもね、竜は知ってるの。友達が待ってるって。だから必ず帰ってくるわ」


 トーマが毛布をぎゅっと握った。


 私は語り始めた。


 語り部が旅に出る話。世界中の物語を集めるために、いろいろな国を訪ねる。悲しい話も、楽しい話も、怖い話も。全部集めて、帰ってきた時に子供たちに聞かせてあげる——そういう物語。


 語りながら、私は一人ひとりの顔を見た。


 ルーカスがうとうとし始めた。この子は物語が穏やかな場面に入ると眠りに落ちる。だから中盤に温かい暖炉のシーンを入れた。


 エミリアはまだ目を開けている。この子は結末を聞きたがる。だから最後まで起きていられるように、語り部が帰ってくる場面を少し引っ張る。


 トーマの目がだんだん重くなっていく。呼吸が深くなる。毛布を握る手がゆるんでいく。


 全員が眠るまで、声を絶やさない。


 最後に目を閉じたのはリリだった。私を見つめたまま、「おやすみ……」と言って、まぶたが落ちた。


 「おやすみ、リリ」


 蝋燭を吹き消した。


 暗くなった大部屋で、三十二の寝息が聴こえた。


 私は立ち上がって、帳面を棚に戻した。三年分の記録。三十二人分の物語処方箋。全部そこに残してきた。誰かが読んでくれることを——いや、読んでもらっても、たぶんわからないだろう。でも、残さないよりはいい。


 扉の前で振り返った。暗闇の中の寝息に、耳を澄ませた。


 ——大丈夫。この子たちは眠れている。今夜は、大丈夫。


 目が熱くなった。唇を噛んで、声を殺した。語り部は泣かない。子供の前では、絶対に泣かない。


 でも、子供はもう眠っている。


 だから——ほんの少しだけ、泣いた。


 翌朝、荷物を一つだけ持って、孤児院の裏口から出た。正門は使わなかった。子供たちが起きる前に。


 実家には帰らなかった。父は三年前に再婚して、継母は語り部という仕事を「伯爵家の恥」だと言った。帰る場所は——もう、なかった。


 ただ、一つだけ思い当たる場所があった。母が生前よく話していた、辺境の小さな図書館。「あそこには読まれるのを待っている本がたくさんあるのよ」と、懐かしそうに言っていた。孤児院の蔵書目録にもその名前を見たことがある——ラーベンハイン辺境図書館。




 辺境への旅路は、五日かかった。


 馬車を乗り継ぎ、徒歩で山道を越えた。三日目の夜、街道沿いの宿屋に泊まった時、隣の部屋から子供の泣き声が聞こえた。


 体が動いていた。廊下に出ると、宿の女将が困った顔で立っていた。


 「すみません、うちの末の子が……怖い夢を見たようで」


 三歳くらいの女の子が、母親にしがみついて泣いていた。私は膝をついて、子供の目の高さに顔を合わせた。


 「怖い夢を見たの? じゃあね、楽しい夢の作り方を教えてあげる」


 小さな声で、星の話をした。三分もかからなかった。女の子の泣き声が止まり、目がとろんとして、母親の膝の上で眠りに落ちた。


 女将が目を丸くしていた。


 「……あなた、何者ですか」


 何者。語り部だ。それ以外の何者でもない。たとえ追放されても、子供が泣いていれば——物語を語ることしかできない。


 ラーベンハインの町に着いた時には日が暮れかけていた。


 町の中心に古い建物があった。看板は色褪せていたけれど、読めた——「ラーベンハイン辺境図書館」。


 扉を押した。きいと軋んだ。中は薄暗く、埃っぽく、そして——本の匂いがした。紙と革とインクが混じった、あの匂い。孤児院の書庫と同じ匂いだ。


 「いらっしゃいませ。……珍しいですね、旅のかた?」


 カウンターの奥から、銀縁の眼鏡をかけた青年が顔を出した。ノエル・ヴァルトベルクと名乗った。この図書館のただ一人の司書だという。


 「蔵書は千冊ほどです。多くはありませんが……お探しの本があれば」


 「あの……本を探しに来たのではなくて」


 私は正直に話した。王都の孤児院で語り部をしていたこと。追放されたこと。行く場所がないこと。


 そして——ここで、子供たちに読み聞かせをさせていただけないかということ。


 ノエルは長い沈黙のあと、眼鏡の奥の目を少しだけ細めた。


 「この町の人は、本を読む習慣がないんです。図書館に来るのは月に数人。子供はもっと少ない」


 「……それでも構いません。一人でも聴いてくださる子がいれば」


 ノエルは書架のほうを見た。千冊の背表紙が薄暗い中に並んでいる。読まれるのを待っている本たちだ。


 「……図書館の一角をお使いください。報酬は出せませんが、裏手に空き部屋があります。狭いですが、寝泊まりはできるかと」


 「ありがとうございます」


 孤児院で三年間働いた給金の蓄えが少しある。質素に暮らせば当面は持つだろう。何より、屋根と本がある場所を得られた——それだけで十分だった。


 こうして、私はラーベンハインで語り部を再開した。




 最初の一週間は、三人しか来なかった。戦災で親を亡くした子供たちだ。


 マルテは暗い場所を怖がった。父親が夜の戦闘で亡くなったと聞いた。


 ある日、雨が降っていた。屋根を叩く雨音で、図書館の中が薄暗くなった。


 マルテの体が強張った。膝を抱えて、肩が小刻みに震え始めた。隣のアンナが不安そうにマルテの顔を覗き込む。


 「マルテ、こっちを見て」


 私は子供たちの前に両手を広げた。


 「今日はね、雨粒が冒険するお話をしましょう」


 マルテの震えは止まらない。でも、耳はこちらを向いた。


 「雨粒が雲から飛び出してね、いろんな場所に落ちるの。屋根の上に落ちた雨粒は、すべり台みたいに滑ってといを通って川になるの。葉っぱの上に落ちた雨粒は、ハンモックみたいに揺れて——」


 マルテの肩から、少しだけ力が抜けた。


 暗い雲が怖いのではない。暗さそのものが怖いのだ。だから暗い雲を「雨粒の出発点」に変換する。怖い場所を、冒険の始まりに書き換える。


 物語の途中で雨が上がった。窓から淡い光が差し込んだ。


 マルテが小さく言った。「雨粒、楽しそう」


 その目が、ほんの少し笑っていた。それだけで十分だった。


 二週間で五人になった。一ヶ月で八人。親が聴きに来るようにもなった。鍛冶屋のおかみさんが、物語が終わった後に声を震わせて言った。「あの子が笑ったのは半年ぶりです」


 フリッツは言葉が少なかった。だから問いかけ型の物語にした。「うさぎは次にどうしたと思う?」と訊くと、小さな声で「……にげた?」と答えた。それがフリッツがこの町で初めて自分から発した言葉だったと、あとでノエルが教えてくれた。


 ある夜、片付けをしながらノエルが言った。


 「あなたが読むと、同じ本なのに……違う物語になる」


 「え?」


 「今日のうさぎの話、あれは棚にある児童書の第三章ですよね。でも、あなたが語ると……マルテのための物語になっていた。間の取り方、声の高さ、最後の一文の速度。全部違う。全部、あの子のために調整されていた」


 私は黙った。


 誰にもそんなことを言われたことがなかった。


 孤児院では「お話を読んでいるだけ」だと思われていた。ブルーノだけではない。世話係も、先代院長も、みんなそう思っていた。読み聞かせは誰でもできる簡単な仕事だと。


 「これは技術ですよ」


 ノエルが眼鏡を押し上げながら、静かに言った。


 「僕は大学で文学を学びました。テクストの分析、語りの構造、読者反応の理論——全部知っています。でも、あなたがやっていることは教科書に載っていない。子供の心の傷を読み取って、物語で包み込む。即興で物語を変形させて、その子だけの器を作る。……これを『ただ読んでいるだけ』だと思う人間は、本を読んだことのない人間です」


 私は唇を噛んだ。泣きそうになったからだ。


 三年間、誰にも認められなかったことを、この人は一度聴いただけで見抜いた。


 「……ありがとうございます」


 それしか言えなかった。


 ノエルは少し照れたように目を逸らして、本棚の整理に戻った。その背中を見ながら、私は思った。


 ああ——ここに来てよかった。


 それからノエルは、私の語りを記録し始めた。


 毎晩の読み聞かせが終わると、カウンターの向こうからノエルがノートを持ってくる。私が語った物語の筋書き、声の使い方、子供たちの反応。全部書き留めていた。


 「何をしているんですか?」


 「あなたの物語を、本にしたいんです」


 私は目を瞬いた。


 「僕がこの辺境に来たのは、読まれない本を守りたかったからです。王都の大書庫で埃をかぶっていく本を見ていられなかった。でもここに来て気づいた——本当に守るべきは、まだ本になっていない物語のほうだった」


 ノエルの声が少しだけ熱を帯びた。


 「あなたが語る物語はまだどの本にも書かれていない。マルテのための雨粒の話も、アンナのための物語も。このまま消えてしまうのは、司書として許せない」


 ノエルの字は丁寧だった。細い万年筆で、一文字ずつ刻むように書く。


 「あなたの物語は本になるべきです。次の語り部が現れた時に、引き継げるように」


 孤児院に残してきた帳面のことを思い出した。あれは記録であって、物語そのものではなかった。語り方も、声の温度も、間の呼吸も——文字にはできないと思っていた。


 でもノエルは、それを書こうとしている。語り部の技術を、次の世代に渡すために。


 「……お願いします」


 私は頭を下げた。ノエルが照れたように眼鏡を押し上げた。


 アンナにも変化が見え始めた。人の顔をまっすぐ見られなかったこの子を、私は目を合わせなくても聴ける位置に座らせた。一週間後、物語のクライマックスの間だけ、アンナはずっと私の顔を見ていた。




 王都聖光孤児院で、何が起きていたのかを知ったのは、トーマが来てからだった。


 あの夜、トーマをノエルの家の客間に寝かせた。ノエルが町の治癒師を呼んでくれて、足の水疱と腫れを治してもらった。清潔な服に着替えさせて、温かいスープをもう一杯飲ませて。トーマは私の手を握ったまま眠りに落ちた。


 翌朝、トーマが話してくれた。途切れ途切れに、時折泣きながら。


 「イレーナさまがいなくなった次の日から、トーマは眠れなくなったんだ」


 トーマは自分のことを名前で呼ぶ。幼い頃からの癖だ。


 「暖炉が怖くなった。前は平気だったのに。竜の話の続きがないから——竜がどうなったかわからないから、火がまた怖くなった」


 私は拳を握りしめた。


 三ヶ月かけて回復させた火への恐怖が、私がいなくなった瞬間に戻った。物語の途中で語り部がいなくなることは——治療の途中で薬を取り上げるのと同じだった。


 「リリはもう喋らない。前は少しだけ喋れたのに。『お母さん』って言えるようになったのに。ごはんも食べない」


 リリが自分で「星のお母さん」の物語を続けるようになった、あの日のことを思い出した。初めて「お母さん」と笑顔で言った瞬間を。何ヶ月もかけて、回り道をして、やっとたどり着いた場所。それが——消えた。


 「ルーカスは毎晩叫ぶ。前は泣くだけだったのに、今は叫ぶんだ。世話係の人が睡眠の魔法をかけてくれるけど、朝になるともっとひどくなる」


 睡眠薬的な魔法は根本治療にならない。依存性がある。世話係はそれを知らないのだろうか。


 「院長が新しい語り部を連れてきた。でも違う。全然違う。あの人は本を読むだけだ。トーマの竜の話をしてくれない。リリの星の話もしてくれない。同じ本を読んでるのに、全然違うんだ」


 トーマが鼻をすすった。


 「お医者さまが来たけど、『心の傷は治癒魔法では治せない』って。院長が怒って追い返した。偉い人にも知られたくないみたいで、誰にも言うなって」


 ブルーノは面子を守ろうとしたのだろう。自分が追放した語り部の不在が原因だと、上に知られるわけにはいかなかった。


 「三人が逃げ出そうとした。『イレーナさまのところに行く』って。捕まって、鍵のかかる部屋に入れられた」


 「トーマ……どうやって私がここにいるって知ったの?」


 「マルガレーテさまが手紙を書いてた。ラーベンハインって読めた。地図で調べたんだ」


 世話係筆頭のマルガレーテは、私が辺境に着いた時に一度だけ手紙を送っていた。子供たちの様子を知りたくて。その返事に、ラーベンハインの図書館にいると書いた。それをトーマが見たのだ。


 「捕まらないように、夜に出た。街道で荷馬車のおじさんが乗せてくれた。パン屋のおばさんがパンをくれた。でも最後の三日は一人で歩いた。靴が壊れて、シャツを破いて足に巻いた」


 八歳の子供が、夜の道を二百キロ以上。十日以上かけて。


 何度怖い思いをしたのだろう。何度泣いたのだろう。


 訊けなかった。訊いたら、泣いてしまうから。語り部は泣かない。子供の前では——


 でも、涙が一粒落ちた。


 トーマがそっと私の手を握り返した。


 「泣いてもいいよ、イレーナさま。トーマもたくさん泣いたから」




 トーマが来た翌朝、ノエルに頼んで早馬を手配してもらい、孤児院宛の手紙を送った。トーマは無事にここにいること、足の傷は手当てしていること、落ち着いたら改めて連絡すること。


 その返事が届いたのは三日後だった。


 世話係筆頭のマルガレーテからだった。トーマが無事だと知って皆泣いて安堵したこと。そして——子供たちの惨状が書かれていた。夜泣き、退行、拒食、脱走未遂。三ヶ月で五人が口をきかなくなり、十二人に退行現象が見られ、安眠できている子供は一人もいないということ。マルガレーテは何度も院長に語り部の復帰を進言したが、そのたびに却下され、王宮への報告書も院長に握りつぶされたと書いてあった。


 そして——ブルーノが私の帳面を見つけたということ。書庫の奥に残した三年分の記録。三十二人全員の「安心日誌」に書き加えた補遺。


 マルガレーテはこう記していた。


 ——院長は一晩かけて全員分を読み、翌朝初めて食堂で子供たちの顔を一人ずつ見ておられました。そして私にこう仰いました。「これは物語ではない。治療記録だ」と。


 三十二人分の、三年間の記録。


 トーマの欄には、火への恐怖の段階的回復計画が書いてあった。リリの欄には「星のお母さん」の発展記録と、リリ自身が語り始めた物語の書き起こしが。三十二人全員に、今夜の物語の選定理由と翌朝の反応と次の計画が書いてあった。


 マルガレーテは最後にこう書いていた。


 ——イレーナ様は三十二人全員の心の地図を持っておられたのですね。


 手紙を読み終えた時、手が震えていた。ノエルが黙って紅茶を入れてくれた。温かい陶器の感触が、指先から伝わった。




 さらに一週間後、ブルーノ本人からの手紙が届いた。万年筆の文字が、ところどころ滲んでいた。


 ——あなたの仕事を理解していなかったことを、恥じている。安心日誌を読んだ。三十二人分を読み終えた時、私は自分が何を壊したか知った。戻ってほしいとは言えない。ただ、子供たちがあなたを待っている。


 手紙を読んだ後、ノエルに見せた。


 ノエルは読み終えて、手紙を丁寧に折りたたんだ。


 「行くべきですか?」


 私は首を振った。


 「戻りません」


 ノエルが少しだけ目を見開いた。


 「でも——子供たちを、ここに呼べたら」


 ノエルの目が変わった。驚きから、理解へ。そして——微かに、喜びの色が混じったように見えた。


 「辺境伯に相談しましょう」ノエルが言った。「この町にも、心に傷を負った子供たちがいます。王都の孤児院と連携して、小さな寄宿施設を作る——それなら、この図書館を拠点にできます」


 「ノエルさん……」


 「本は読まれてこそ価値がある。それが僕がこの辺境に来た理由です」ノエルが眼鏡の奥で、静かに笑った。「物語も、同じでしょう? 語られてこそ、意味がある」


 私は頷いた。


 胸の奥が温かくなった。これは——泣きたい温かさではなくて、何かが始まる予感の温かさだった。




 トーマが来てから二週間が経った。


 足の傷は治り、頬に血色が戻ってきた。私は毎晩、トーマの枕元で竜の話の続きを語った。中断されていた治療を、ラーベンハインで再開した。


 四日目の夜、ノエルが暖炉に火を入れた。秋の夜は冷える。


 トーマの体が固まった。


 ノエルが気づいて、火を消そうとした。私は首を振った。


 「トーマ。竜のことを思い出して」


 トーマが毛布を握りしめて、暖炉の炎を見つめた。唇が震えている。


 「竜は火を持っているね。でも竜の火はどんな火だった?」


 「……友達を、温める火」


 「そう。この暖炉の火もね、トーマを温めるための火よ。寒い夜に、ぶるぶる震えなくていいように」


 トーマが暖炉から目を逸らさなかった。長い沈黙のあと、小さく言った。


 「……あったかい」


 私は語り続けた。


 「——竜は旅の果てに知りました。火は怖いだけのものではなかった。友達が寒い時に温めてあげられる。暗い夜道を照らしてあげられる。火は——竜にしか使えない、特別な力だったのです」


 トーマが毛布の中から小さく言った。


 「トーマも……火、怖くなくなる?」


 「なれるわ。ゆっくりでいいの。竜だって、何年もかかったでしょう?」


 「うん……」


 トーマが目を閉じた。数分で、静かな寝息に変わった。


 安眠だ。三ヶ月ぶりの——穏やかな眠り。


 私はそっと部屋を出た。


 廊下にノエルがいた。壁にもたれて、本を持っていたけれど、ページは開いていなかった。


 「眠りましたか」


 「ええ」


 「……よかった」


 ノエルはそれだけ言って、本を胸に抱えた。何かを言おうとして、やめて、もう一度口を開いた。


 「辺境伯から返事が来ました。寄宿施設の設立を、前向きに検討するとのことです。条件があります。運営計画書を提出すること。それと——語り部の常駐を確約すること」


 語り部の常駐。つまり、私がここにいるということだ。


 「ここにいてもいいのでしょうか」


 思わず訊いていた。


 ノエルが少し驚いた顔をした。それから、眼鏡越しに真っ直ぐ私を見た。


 「イレーナさん。あなたがこの図書館に来てから、蔵書の貸し出し数が十倍になりました。子供たちが本を手に取るようになった。大人たちが図書館に足を運ぶようになった。この町に、物語が戻ってきた」


 私は黙っていた。


 「僕は……あなたにいてほしいと思っています。図書館のためだけではなく」


 ノエルの耳が赤くなっていた。暗い廊下でもわかるくらいに。


 「司書として、ですか?」


 意地悪な質問だとわかっていた。でも、聞きたかった。


 ノエルが咳払いをした。


 「……司書としても。それ以外としても」


 私は笑った。孤児院を出てから、初めて心の底から笑った気がした。




 ラーベンハインの夕焼けは、王都よりもゆっくり沈む。


 図書館の窓が赤く染まる時間。私はいつもの場所に座って、子供たちを待つ。


 今日の聴き手は、ラーベンハインの子供たちと、トーマ。


 マルテが一番乗りで来た。「今日はうさぎの話?」と訊く。

 「ううん、今日は新しいお話よ。語り部が旅をする話」

 マルテが目を輝かせた。


 アンナが来た。いつもの位置——私の左斜め後ろに座る。顔を見なくてもいい位置だ。でも最近、時々ちらりとこちらを見るようになった。


 フリッツが来た。「……こんにちは」と言った。二ヶ月前は一言も喋らなかった子が、自分から挨拶をしている。


 トーマが最後に来た。図書館の椅子に腰を下ろして、膝を抱えた。靴下の下に、まだ包帯が巻いてある。


 ノエルがカウンターの向こうで、新しく届いた本を並べている。時々こちらに目を向けているのが、気配でわかる。


 窓から風が入ってきた。秋の匂いがする。乾いた葉と、どこかのかまどの煙と、図書館の古い紙の匂い。


 私は深く息を吸って、語り始めた。


 「むかしむかし、ある国に語り部がいました」


 子供たちが耳をそばだてる。


 「その人は、お話を読むだけの人だと言われました。でも本当は、お話は——」


 トーマが顔を上げた。目が合った。あの夜、二百キロの道を歩いてきた少年の目が、今は穏やかに光っていた。


 トーマが続けた。


 「——心のばんそうこう、でしょ」


 私は微笑んだ。涙が一筋、頬を伝った。


 「そうよ。お話はね、心のばんそうこう」


 マルテが「ばんそうこう!」と繰り返した。アンナが小さく笑った。フリッツが「……それ、いいね」と言った。


 夕焼けが少しずつ藍色に変わっていく。


 物語は終わらない。語り部がいる限り、子供たちがいる限り。


 ラーベンハインの図書館の蔵書は、この二ヶ月で千冊から千二百冊に増えた。ノエルが各地の書店に手紙を書いて集めた本。私が孤児院時代に覚えていた物語を、ノエルが書き留めてくれた本。


 いつか、この図書館に王都の子供たちが来る。リリが来て、ルーカスが来て、三十二人全員が来る日が——まだ先かもしれないけれど、必ず来る。


 そしたら私は、一人ひとりに新しい物語を語ろう。


 星のお母さんの続きを、リリに。

 騎士の冒険の続きを、ルーカスに。

 竜の話の最終章を、トーマに。


 物語の途中で帰ってこない語り部なんて、いないのだから。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


「読み聞かせ」というテーマで短編を書くと決めた時、最初に浮かんだのはイレーナの帳面でした。三十二人分の「物語処方箋」——子供の心の傷に合わせて物語を即興で変形させるという裏設定は、実際の心理療法にヒントを得ています。物語の力で心の傷を包むという発想は、大げさに聞こえるかもしれませんが、現実の読み聞かせの現場でも似たようなことが起きていると思います。


トーマが二百キロ歩いてくるシーンは書いていて手が止まりました。八歳の子供が、布で巻いた足で歩くところを想像したら涙が出てきて、なかなか先に進めなかった。でも、トーマにとって竜の話の続きは「治療薬」だったから——それを求めて歩くのは、彼にとって当然の行動だった。そう思い至った時、やっと書けました。


ノエルが「あなたが読むと、同じ本なのに違う物語になる」と言うシーン。この台詞が浮かんだ瞬間に、この作品の芯が決まりました。イレーナの語りの本質を一発で見抜く人間が、言葉を大切にする司書だった——という組み合わせが個人的にとても気に入っています。


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