第5話 失敗者にだけ見えるもの
宿の主人は、申し訳なさそうな顔をしていた。
「悪いな。身分証がない客は泊められない決まりなんだ」
「……分かりました」
俺はそれ以上何も言わず、荷物を肩に担ぎ直した。
もともと大した荷物はない。
服と、最低限の道具だけだ。
「勇者パーティを抜けたって聞いたよ」
主人は気まずそうに言う。
「急だったな」
「そうですね」
「……仕事、探すなら紹介状は――」
「いえ、大丈夫です」
紹介状が必要な仕事は、
だいたい“身分”がないと受けられない。
宿を出ると、夜の空気がひんやりと頬に触れた。
街灯の光が、石畳に長い影を落とす。
(……野宿、か)
久しぶりだな、と思った。
冒険者になりたての頃以来だ。
路地裏を抜け、街外れの空き地へ向かう。
治安は悪くないが、油断はできない。
腰を下ろし、壁にもたれる。
所持金をもう一度確認する。
(……これで全部か)
数枚の硬貨。
パン一つ分にもならない。
不思議と、焦りはなかった。
怒りもない。
(こうなる可能性も、考えてなかったわけじゃない)
ただ、少しだけ疲れていた。
その時だった。
「ちょっと」
声がした。
顔を上げると、ランタンの光の向こうに一人の女性が立っていた。
フードを被り、腕を組んでこちらを見下ろしている。
「ここ、寝る場所じゃないんだけど」
「……通行の邪魔でしたか?」
「そうじゃなくて」
彼女は一歩近づき、俺の顔を覗き込む。
「その顔で『平気です』って言う人、だいたい平気じゃないのよ」
妙に鋭い。
「見たところ、冒険者。
で、その様子……追い出された?」
言い当てられて、少しだけ驚いた。
「まあ、そんなところです」
「やっぱり」
彼女はため息をついた。
「ここ、夜は冷える。
凍死するほどじゃないけど、寝るのには向いてない」
「忠告ありがとうございます」
「……忠告だけで終わらせるつもりなら、声なんてかけないわよ」
そう言って、彼女はランタンを掲げた。
「ギルドの裏。
下級冒険者用の詰所がある。
雑用手伝えば、床くらい貸してもらえる」
「なぜ、そこまで?」
「気まぐれ」
即答だった。
「それと――」
彼女は一瞬、言葉を探すように視線を逸らす。
「さっき、ギルドから出てくるの見たのよ。
……あんた、追放された人でしょ?」
「有名になってしまいましたか」
「悪い意味でね」
彼女は肩をすくめた。
「でも、ね」
一歩踏み出し、はっきり言う。
「追放される人って、二種類いるの。
本当に無能か、
便利すぎて切られるか」
胸の奥が、わずかに動いた。
「……どっちだと思います?」
「後者」
迷いのない声だった。
「だって、あんた」
彼女は俺の荷物を一瞥する。
「“何もない”顔してないもの」
その言葉に、思わず苦笑が漏れた。
「……ミレイアです」
「レオンです」
「じゃあ、レオン。
生き延びる気があるなら、ついてきなさい」
選択肢は、最初からなかった。
詰所は狭く、古く、正直きれいとは言えなかった。
だが、屋根と壁があるだけで、十分だった。
「ここで横になっていい。
雑用は明日、説明する」
「助かります」
「礼はいい」
ミレイアは言う。
「どうせ、すぐ返してもらうから」
「?」
「仕事で」
彼女は少しだけ笑った。
床に横になり、目を閉じた瞬間だった。
――視界が、歪んだ。
目を開ける。
天井が、薄く光っている。
(……魔法?)
違う。
魔力の流れじゃない。
文字だった。
《評価:レオン・グレイ》
《所属:なし》
《役割:未定義》
空中に、淡く発光する文字列が浮かんでいる。
「……なんだ、これ」
手を伸ばす。
触れた瞬間、文字が変化した。
《条件達成》
《社会的敗北:確認》
《居場所喪失:確認》
《期待値:ゼロ》
《隠し補正 起動》
《敗者補正 発動》
頭の奥で、何かが噛み合う音がした。
(……世界が、説明を始めた?)
視界の端で、別の表示が現れる。
《警告》
《この補正は、成功者には認識できません》
思わず、息を呑む。
(だから……)
だから、誰も気づかなかった。
俺のやっていたことに。
世界の歪みに。
文字は、最後にこう表示された。
《失敗者へ》
《あなたは、すでに“余分”です》
《ゆえに、世界の外側を参照できます》
光が消える。
詰所の天井に戻る。
何もなかったかのように。
だが、感覚ははっきり残っていた。
(……なるほど)
俺は、静かに理解した。
これは力じゃない。
救済でもない。
「見えるようになった」だけだ。
世界のバグが。
人間の勘違いが。
そして――
「……壊れやすい場所が」
呟いた声は、誰にも聞かれなかった。
だが、その夜から、
俺の見ている世界は、確実に変わっていた。
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