【事件①(Incident)】
俺は女に貸してもらったコートを汚さないように、一晩中座ることも何かに寄りかかることもせずに立ったままでホテルの玄関を見張っていた。
やがて東の空の青色が薄く朱色に変り、空が白み始め、そして日に照らされた空が群青色から青色に変ってもコートを汚したくない一心でズットそのままの体勢で立っていた。
完全に空が青で染められて、人通りが多くなるころ慌ただしく行き交う人たちが僕の恰好を変な目で見て通る。
中には「女もののコートを着ている」とか「似合わねえ」とワザと聞こえるように笑って通る輩も居た。
普段の俺なら馬鹿野郎と怒鳴って喧嘩になるところだが、今の俺にはそんなことを言われても何とも思わねえ。
これはリズに着せてもらった物。
悔しかったらオメーらもリズに着せてもらえるようになってみやがれ!
このコートは俺にとっては勲章だ。
やがて8時が過ぎ、10時が過ぎ、11時が過ぎてもホテルに泊まった他の客はエントランスから出て来るのにヤツと連れの女は出てこない。
“ひょっとして連泊!??”
お盛んなことはかまわない。
コレがアンドリューにとっては、あの美人のカミさんに離婚状を突き付けられる前の最後の情事。
やるだけやって、あとは巨額になるであろう慰謝料を払うために真面目に働けと、そう思った。
しかし連泊となれば、俺の方の体が持たねえ……。
しばらく見張っているとガラス越しに見えるホテルの従業員たちの様子が慌ただしくなったと思うと、そのあと摩天楼にパトカーのサイレン音が響き渡る。
1台じゃなく十数台、いや数十台のサイレン音が次第に大きくなってくる。
こういう場合は殺人事件による緊急出動であることは、元刑事だから直ぐに分かった。
“殺人事件……もしかして⁉”
まだホテルから出てこないヤツ等が気になって、俺はホテルのエントランスから中に飛び込んだ。
中に入ると慌ただしく動くホテルマンたちや、ロビーで屯している客たちの不安そうな顔が一斉に俺の着ている白いコートに注目した。
どうやらこのコート、俺には相当似合わないらしい……。
だが身なりなんて気にしている場合じゃないし、そもそもファッションなんて個人のセンスの問題だ。
俺が気に入って着ている物を、他人にどうこう言われる筋合いはない。
急がないと中で何があったのかを確かめるチャンスを失ってしまう。
なにしろ俺はもう刑事でもないから、偶然事件の現場に居合わせたとしても、直ぐに規制線の外に追いやられて状況を確認することもできない。
俺はホテルのマネージャーらしき人物を見つけ何があったかと聞いた。
相手は客に関しての守秘義務を重んじるホテルマンらしく言葉を濁しただけで事実を伝えてはくれなかったので、俺は咄嗟に刑事でアンドリュー氏を見張っていたと嘘をつくとようやく事実を話してくれた。
教えてくれた情報は、アンドリューと連れの女がチェックアウトの時間になっても出て来なくて電話を掛けても応答しないので、部屋の様子を見に行くと2人が死んでいたと言う事だった。
それで警察を呼んだ。
警察が来れば部屋を見ることは出来ないから、俺は本人確認がしたいからと言うと意外にもスンナリ部屋に案内された。
部屋のある廊下には、数人の従業員が部屋を取り囲むようにして不安な表情を浮かべた従業員が居た。
外ではパトカーのサイレンが、いよいよ直ぐそこまで来ているのがハッキリと分かる。
警察が来れば決して現場に入ることは出来ない。
それはたとえ俺が現役の刑事であっても。
殺人現場には鑑識が最初に入ることが決まっている。
ドラマや映画とは違い、いくら刑事だといっても鑑識の作業が終わってからでないと現場に足を踏み込むことは出来ない。
それは現場に残された証拠を確実に残すため。
俺は従業員が作った囲みの中を通り抜け、一人で部屋の中に入った。