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男の人の声が怖い

作者: jh

嫌な光景を見た。

始まりは大学の軽音楽サークルの女子から部屋に誘われたことだ。妄想で薔薇色に染まった僕の脳内は、そのわずか数時間後にすべての色を失い。最終的には、東京メトロの同じ車両に乗り合わせた知らないおっさんが、ボコボコにされる姿を見ることになる。僕を誘った女子とボコられたおっさんの間に接点は一つもない。でも、おっさんがボコられる現場に僕が居合わせることになったのは彼女に誘われたからで、ボコられる理由を理解することができたのもその前に彼女との間に残念なやり取りがあったからだ。

今日の出来事は記録として残しておこうと僕は決めた。

将来の戒めのためだ。

僕に共感してくれる人なんてほとんどいないとは思うけど、ネットに残しておけば100人に一人くらいはわかってくれる人が思う。

これを読んでくれる人、100人もいないかもしれないけれど。



今日は午前の講義が突然休講になった。手持ち無沙汰の僕は軽音楽サークルの部室を覗いた。誰もいないが部室の床の上に、何本かのシールドケーブルが無秩序に放り出されている。僕は損な性分で、こういう状況を放っておけない。散乱したシールドを拾い上げ、捻じれをほぐしながら緩い輪っかにして上でにまきつけていた。手を動かしていると無心になって、周囲が見えなくなる。集中しているのかぼっとしているのか、自分でもよくわからない。

「高木君って、もしかしてコードまとめるの上手な人?」

急に声をかけられた。びっくりして顔を上げると、いつ部室に入って来たのかサクラが立っていた。サクラは同じサークルの同じ学年の女子。一瞬、幽霊かと思った。

ちなみに、サクラというのは本当の名前じゃない。今日起きたことを間違いなく彼女の黒歴史となって、決して口外することはないだろう。だから、彼女の名誉のために偽名を使わせてもらいます。高木というのが僕の本名か偽名か、それはどうでもいいことでしょう。もし本名だとしても、都内の大学の軽音楽サークルに高木という名字の男はそこそこいるはず。たとえ僕が本名を使っていても、これを書いているのが僕だと特定できるのは、サクラしかいない。まあ、サクラがこんな文章を読むこともないだろうとは思うけど。

サクラのファッションはかなり個性的だが、バンドをやっている女の子のファッションが個性的なのは全然珍しいことじゃない。彼女のファッションを詳細に描写して、文章に臨場感を出したいところなのだけど、そうするとサクラが誰なのか、わかる人にはわかってしまう。だから、あえて触れません。電車の線や駅の名前も、大学名が絞られてしまうかもしれないからここでは書きません。情報が足りない部分は、どうかご自由に頭の中で補って読み進めてくれたら嬉しいです。


ごめんなさい、だらだらと脱線してしまいました。

話を戻します。

「コードまとめるの上手な人?」とサクラに訊かれて、僕は「まあ」と答えた。ここで謙遜する理由はない。

「もしかして、いま暇?」彼女は次の質問をした。

「まあ」今思い出すと恥ずかしいが、僕は二回続けて同じ返事をした。彼女のことをかわいいとは思っていたが、あまり話をしたことがない。ファッションが個性的過ぎて声をかけづらかったというのもある。だから緊張していたのかもしれない。この状況で会話が続くはずがない。この時点で、サクラはすでに僕を見限ったかもしれない。

「だったら私の部屋に来てもらえる? 近くだから」サクラが言った。

「え?」僕は耳を疑った。

「部屋の中がコードでぐちゃぐちゃになっちゃって、一人じゃどうにもならないの、お願い!」

サクラは僕を拝むように、自分の下の前で手を合わせた。そんな仕草で「お願い」と言われ、僕は断れるはずがない。

顔がにやけるのと驚きとを必死に隠しながら、僕は「いいけど」と努めてそっけなく答えた。そのあと何が起こるのだろう? そのままいい感じになって…、僕の頭の中には期待しかない。

サクラの家は本当に近くで、歩いて行ける距離にあった。

二人で歩きながら、「そこのコンビニの脇を左」などとサクラが説面してくれる道順を、僕は「ああ」とか「へえ」とかまったく気の利いたところのない相槌を入れながら聞いていると、僕の心の準備ができる前にサクラが生活している部屋の前に着いてしまった。

サクラは「どうぞ」といってドアを開けた。

中は、かわいい見た目からは想像もつかないカオスだ。足の踏み場もない。コードをまとめる前に、埋もれているコードを救出しなければいけない。僕は女性に幻想を抱いていたのかもしれない。サクラのかわいい顔と部屋の中のカオスがまったくつながらない。つなげたくないから、頭の中でつながらないような処理をしたのかもしれない。

以前、高校時代の友人に「お前の姉ちゃん美人だよな」と言ったら「姉貴の部屋を一度見たら、そんな言葉は出なくなるぜ」と言われたことをこの瞬間はすっかり忘れていた。しかも、僕は「片づけられない」という欠点をさらけだしてくれたサクラをよけいにかわいく感じてしまった。僕にできることなら何でも言ってよ、と自分が大きくなった気がしていた。綺麗に部屋を片付けたら彼女は間違いなく僕に感謝してくれるだろう。だいたいこの散らかった状況では、雰囲気というものが皆無だ。ものごとがいい感じに進むためには、障害を取り除く必要がある。僕は妄想を追い払うように、鼻歌を歌いながら体を動かした。

「この延長コード、こっちのコンセントにつないだ方がいいよ」とか、「ベッドの下のここに、これ入るよ」とか、自分の発する言葉が最初よりも力強く聞こえる。それもまた僕を上機嫌にさせた。僕の鼻の先にはリワードがつるされている。僕は妄想の暴走を抑えるのに必死で、サクラの反応をあまり気にしていなかった。

一生懸命に働いた甲斐があり、部屋は見違えるくらい綺麗になった。

「どう?」僕は自慢げに両手を広げた。

「すご~い、ありがとう」という反応が返ってくるはずが、様子がおかしい。サクラは僕と目を合わせようとしない。不安そうな彼女を見ているとこちらまで不安になる。

「どうしたの?」僕は声のトーンを落として聞いた。

「ごめんなさい」サクラは相変わらず僕の目を見ない。

僕はサクラの顔を見続けるべきかよくわからないまま固まっていた。

やがてサクラが口を開いた。「私、高木君なら線が細くて肩幅もないから大丈夫だと思ったの、でもやっぱりダメみたい」

そこから先が続かない。

僕は黙っていることが耐えられず訊いた。「ダメって、何がダメなの?」

「私、男の人の声が怖いの」

またサクラは黙り込んだ。

よく考えたら僕の質問の答えにはなっていない。それでも、僕はしばらく考えてから紳士的に訊いてみた。

「あの…、言いたくなかったら言わなくていいけど、男に何かされたり怖い目にあったことあるの?」

「ううん、そうじゃないの、ただ怖いの」

僕はどうすればいいんだ?

淡い期待を抱いて、…いや、淡くはなかった、「濃い期待」という言葉はあるのか? そんなことはどうでもいいか…、とにかく期待してのこのこサクラの部屋に着いてきたのに、結局は拒絶されて何も起こらないまま、彼女の家から出ていくことになった。

「ごめんなさい、高木君、私、男の人の声が怖いの」サクラの言葉を、額面通りに受け取れる単純な人間が存在するなら、そいつが羨ましい。僕はいろいろなバージョンを想像してしまう。彼女は最初から僕をいいように使うつもり、ただそれだけだったのかもしれない。こいつなら誘えばのこのこついてくるだろうとわかっていて、用事がすんだら「お疲れ様、じゃあね」と追い出すつもりだった。不安そうな表情もすべて演技。相当な悪女というわけだ。人間としては、とても興味深い。悪女と知り合いになれたのだとしたら、それはそれで貴重な経験をしたのかもしれない。僕はどうも人を嫌いになることができないらしい。

最悪なのは、家に呼ぶくらいだからもとも僕に悪い印象は持っていなかったはずだが、僕の今日の振る舞いがすべてを台無しにしたというケースだ。僕は調子に乗り過ぎた? いやあ、そこまでひどくはなかったと思うけど…。でも、自分を客観的に見てサクラの目にどう映っていたかを分析するなんて無理だ。まさか、最後の自慢げな「どう?」が彼女を怖がらせたのかな?

僕の頭の中で疑問が次々と湧いてくる。この先、僕はサクラに避けられたままサークル活動を続けていくのだろうか? 

それとも、一連の出来事は「踏み絵」?

サクラは僕を値踏みしていたのか? だとしたら一次面接で落とされたことになる。

嫌なことが起こるとその裏にある最悪の可能性を想像し、それを受け入れることでどうにかやり過ごす、それがいつの間にか僕の習慣になっていた。たいていの場合、不安の正体は「不確定さ」だ。もしかしたら自分はサクラに嫌われたかもしれない、というのは「不確定さ」で、彼女が僕を嫌いになったという事実とその理由が明確になれば、なんだ、そんなことかと受け入れて気持ちを落ち着かせることができる。だから。僕はいつも最悪の状況を想像して、納得するようにしている。もしかしたら嫌われたかもしれないというのは、もしかしたら嫌われていないかもしれないのと同じ意味で、ただ希望にすがりついているだけ。精神衛生上まったく好ましくない状況だ。

それよりも、嫌われたことを受け入れて、そこから先の希望を見つける方がいい。

ポジティブな人間が結局は勝つんだ。

サクラの言った「男の声が怖い」という感覚は、わからなくはない。自分は男だし、男の声を怖いと思ったこともない。でも、これからの人生で、あのおっさん特有の太い声を自分が出すようになるとはとても思えない。

だいたい男の声のトーンに心地よさがない。電車の中でおばさんの集団の会話がうるさいとよく言われるけれど、おっさんの会話よりはよほど許容できる。電車の中でおばさんたちのうるさい会話を聞きながら眠りに落ちることはあっても、おっさんの会話は常に不快で睡眠の妨げになる。僕の声がサクラを怖がらせたということは、僕はしっかり男の声をだしていたということだ。確かに僕は線が細く、肩幅も狭く、体育会でガンガン鍛えている女子とぶつかったら吹っ飛ばされてしまうだろう。そんな僕でもサクラに恐怖を与えてしまったのだ。

それにしても、「高木君なら大丈夫だと思った」の「大丈夫」っていったいなんだ? やはりサクラは僕を関係を持つつもりで部屋の誘ったんじゃないかな? それを僕の声が台無しにしたというのか…。だとしたらあまりにももったいない。ああ、こういうのってきっと挽回の余地はないのだろう。運命の女神に後ろ髪はないと言うから、この部分だけは悔やんでも悔やみきれない。


大学に戻っても午後の講義に出る気力がなかった。家に帰りたいのかどこかで寄り道したいのかもよくわからないまま、僕は遠回りして駅に向かった、数駅分歩いた気がする。駅に着くとホームに東京メトロが入ってくる。僕は席に座った、顔を上げる気にならずうつむいていたが、思わず深いため息が漏れた。我に返り少し恥ずかしく感じたけれど、周囲の人々はみなスマホに夢中で誰も僕など気にしてはいない。なんとなく車内を見まわしてみた。僕が座っている場所は進行方向に向かって左側、片側に4つあるドアのうちの前から3番目のドアのすぐ後ろの、7人掛けのシートの一番前。車両の後ろに視線を移すと、僕から対角線方向となる進行方向に向かって右側の3人掛けのシートのドア側に、灰色の作業服を着た中年の男が正面を向き幸せそうに眼を閉じている。

あの男を見るのは初めてじゃない。彼は目を開くと、狡猾そうな表情になる。その表情がなんともいやらしく、記憶に残っていた。あんな年の重ね方はしたくない、とその時に感じたことを思い出した。だいたい本当に狡猾な人間が作業服を着て真っ昼間に電車で移動する仕事に従事するのだろうか。狡猾ではない人間が狡猾に見えるなんて、かなり悲惨なことのようにも思える。

男の向かいの席には、おそらく僕と同年代のおそらく女子大生の横顔が見える。彼女は膝にのせたリュックの上で両手を動かしながら何かを喋っている。電車が揺れる音の中で耳をすますと、3人の女子の声が聞こえる。どうやら大学の授業の話をしているみたいだ。完全に自分たちの世界に入り込んで、周囲はまったく目に入らない感じだ。距離があるからあまり感じないが、近づいたら彼女たちの声は相当デカそうだ。その向かい側で、先ほどの男が幸せそうに眼を閉じている。

電車は駅で停車する。ドアが開き、サラリーマンらしき中年の男が二人乗り込んで、例の男を前と横から挟むようなポジションに立った。一人はバッグを網棚に乗せてつり革を持ち、もう一人はバッグをドアの前の床に置き、男が座っているすぐ横のポールに捕まった。二人はハンドタオルで額の汗を拭うと、会話を始めた。まるで彼らにプラチナバンドが割り当てられたかのように、さっきまで聞こえていた女子大生の会話が彼らの声で消されてしまった。

記憶がさらに蘇る。

前回もあの男は今日と同じ場所に座っていた。今の僕は7人掛けシートの進行方向側に座っているけれど前回は一番後ろに座り、ちょうど彼のはす向かいの場所にいた。おそらくその時も、僕は電車の中でただ頭を休めていたのだと思う。いくつか目の駅で今日と同じようにサラリーマン風の男が二人乗り込み、今日と同じように彼のすぐ近くに立った。今日の二人はどこにでもいそうな、あまりにありふれた見た目をしている。あの時の二人も似たようなものだろう。今日の二人と同じだったと訊かれてもどちらも印象が薄すぎてさっぱりわからない。あの時の二人も今日の二人と同じように、電車が動き出すタイミングで会話を始めた。その声がやけに耳障りだったので、僕はたぶんワイヤレスヘッドフォンで音楽を聴き始めたはずだ。そしてそのまま、うとうとと眠りに落ちてしまった。目的の駅の手前で僕はタイミングよく目を覚まし、ヘッドフォンをしまった。そして何気なくはす向かいを見ると、二人はすでに会話をやめていた。電車がホームに入り、停車する直前に、例の男は二人の間を縫うように席を立った。その姿を見ながら僕も席を立ち、彼よりも先にドアの前に立った。ドアが開くと早足でホームを進んだ。その時に少しだけ、違和感が残ったことをいま思い出した。あの男が席を立とうとしたとき、サラリーマン風の二人の男は彼を通すために身体を動かして場所を譲るようなそぶりを一切見せなかった。もしかしたらあの時二人は、身体を動かさなかったのではなく、動かせなかったのではないか? ピクリとも動かなかった。

僕は何かを確かめるように例の男の方を見た。二人の男の会話は続いているし、その声に消されながらも女子大生三人の会話の断片も聞こえてくる。前に立っている二人組の片割れのせいで、男の顔はちょうど僕の位置からは死角になっていたが、車両が揺れると二人組の体は横に振られて、そのまま二人は立ち位置を少しだけ変えた。そのおかげで例の男の表情をしっかりと捉えることができた。二人組が乗り込んでくる前の幸せそうな表情はもうない。うつむいて、怒りを抑えているかのように小刻みに震えているように見える。肥田座に抱えたリュックに手を突っ込んでごそごそとやりはじめ、次に自分自身を落ち着かせるように思い切り顔をしかめた。そして小型のエアサロンパスに似たスプレー缶らしきものを取り出すと、無駄のない動きで目の前の男に噴射し、間髪を入れず横の男にも吹き付けた。

男二人は動かなくなった。会話も止まった。そのせいでかき消されていた女子大生三人の声が良く聞こえるようになった。三人は自分たちの会話に夢中で、男二人の会話が止まったことにまったく気がついていないし、同じ車両に乗り合わせた人々に対してわずかの関心さえも持っていない。三人は何事もなかったように会話を続けている。

僕は声を上げそうになったが、必死に抑え、車内を見まわした。僕以外の誰も、誰一人として、今起きたことを見ていなかったし、二人の男の会話が止まったことにも気がついていない。みんな、連れと喋っているか、スマホを見ているか、寝ているかのどれかだ。

たぶん前回も彼は同じことをしたはずだが、やはり誰一人として彼を見ていなかった。僕自身も電車に揺られて眠ってしまい、肝心な部分を見逃した。つまり味をしめたというやつだ。噴射したスプレーの外観はエアサロンパスっぽく見えたが、実はスペシャルなものかもしれない。

そして、話がつながった。

今日、サクラに部屋に呼ばれたにもかかわらず「男のひとの声が怖い」と拒絶されたおかげで、僕はすべてを理解することができた。ケガの功名とはよく言ったものだ。僕の心はケガをしたも同然だから。電車で見たあの男は、男の声を聞くのが嫌だった。女子の会話だけが聞える環境が彼には最高だった。結局、自分の居場所を守ったというそれだけのことだ。僕は彼に共感もしないし、同情もしないけれど、彼の気持ちは理解できる。だから、このささやかな事件と傍観者として楽しむことができた。楽しんだのは、この車内で僕だけだろう。そう思うと、得をした気分になる。少なくとも、数時間前にサクラから拒絶されたことの埋め合わせはできた気はした。


ヘッドフォンの音楽の裏で、車内のアナウンスは僕が降りる駅名を告げる。中年の男は前回と同じように、目の前の動かなくなった男をよけるように席を立った。

彼はどこに向かうのだろう? 興味本位で後をつけてみたという欲望が抑えられない。

僕は席を立ち、彼のいる遠い方のドアへ向かった。彼の向かいに座っていた女子大生も立ち上がり、隣りの二人に「じゃあね」と笑いながら手を振っている。男はまだ幸せそうな表情をしていた。

電車を降りた男は、ホームを左側に進み、エスカレーターの列に並んだ。僕は彼より数人後ろのポジションを取った

。地上に上がると、すでに夕方の空気に変わっていた。涼しさが混じっている。行きかう人の数はそこそこという感じだが、一人で歩いている人がほとんどで、たまに耳に入るのは「これ今日中に先方に連絡した方がいいですよね?」「そうだな、報告だけしとけばいいからとっとと片付けよう」とか、「おいおい、あいつは上げられないから、あそこまでは行ってもそこから先は上がらないから」「ですよね」とか、仕事の会話らしき男の声ばかり。僕の前を歩いている作業着の男が、男二人の会話をスプレーを噴射して止め、その後しばらく男の声を聞いていなかったので、いまは少し変な感じがする。

作業服の男は歩きながらスマホを取り出して、耳元に持って行った。着信があったのだろう。僕は5メートルほど後ろを歩いていた。そこから見える限りでは、彼は通話をしながら歩いている。ところが彼の身体が突然左右にぐらんぐらんと揺れだしたか思うと、突然両膝をつき、そのままゆっくりと左側にあおむけに倒れこんだ。右手にはスマホを握ったまま、両目を開き、何度か身体をぴくぴくと震わせている。

誰かが僕の横を追い越すようにかけていった。白のTシャツの黒のリュックを背負い、ベージュのカーゴパンツと白いスニーカーというよくある服装だったが、僕は数分前にその姿を見ていた。同じ地下鉄に乗り合わせていた女子大生だ。彼女はリュックを背負ったまま、倒れた男の横で両方のかかとを地面につけたまま深くしゃがんだ。僕は彼女の足首の屋柔らかさに見とれた。

「大丈夫ですか? 大丈夫ですか?」彼女は一生懸命に男に声をかけた。

男は彼女に顔を向けると、右手からスマホを離し、その手をゆっくりと彼女に顔の方に持って行った。彼女はその手を取ろうとしたが、男の手は彼女の手をすり抜けると、彼女の唇をつかんだ。彼女の口は閉じられたが、それでもなんとかうめき声のような音を発すると、両手を使って男の手を自分の唇から離そうとした。男は上体を捻りながら必死に彼女の唇をつかみ続けた。

次の瞬間、三十代から四十代のワイシャツ姿の男が四人、彼を取り囲むとボコボコと彼の体を蹴りだした。彼は、彼女の唇から手を離すしかなかった。男たちのうちの一人は彼女を見ながら「警察を呼びます、離れてください」と声をかけたが、彼の右足は横たわった男を蹴り続けていた。

僕は目の前の光景を勝手に解釈した。作業服の男は、地下鉄の車内で男の声を消すことができた。でも、地上に出た途端、男の声に圧倒されたのだ。スマホの着信も男からだったのだろう。電話で男の声を聞いているうちに、彼はショック状態に陥った。男の声が怖かったのだ。道端で突然倒れこんだ彼に、同じで車両に乗っていた女子大生が救いの手を差し伸べた。彼女は男に声をかけた。その声がなぜか彼の耳には届かなかった。もしかしたら、地上では女の声がすべて消されて、彼の耳には男の声しか届かなかったのかもしれない。彼の恐怖は増大し、すがるように彼女の唇をつかんだが、前後のつながりを知らない人間がその場面を目にしたら、彼は変質者にしか見えなかっただろう。変質者が女性におかしなことをしたら、ボコってでも彼女を救いたい、そう思うのは極めて自然のことだから。

男の声が怖いという彼の気持ちは理解できる。でもやはり、僕は同情も共感もしない。僕が彼のすぐ側に歩み寄ったとき、嵐のような暴行はすでに終わっていた。

倒れこんで動かなくなった男の作業服の胸元には、漢字で「高木」という刺繍が施されていた。

このおっさんと僕は同じ苗字。彼は将来の僕なのか?


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