路地裏に迷い込んだ子猫
ナオが烏と出会う話。
見てしまった。
「誰だお前」
目の前の男は冷たい目で私を見ている。
その手はどす黒く染まっていて、足元には先程私に馴れ馴れしく話しかけてきた男の人。
人が、人を殺す瞬間を、私は初めて目撃した。
「おい」
震えて言葉の出ない私に、男は更に近付いてくる。
真っ黒な髪の毛の隙間から、鋭い目付きで私を睨みつけながら。
「や、やめて」
「あ?」
無意識に後退りしても、運が悪いことに後ろは壁で行き止まり。
ああ、私はここで殺されるのだな。
そう思うと、何故だか涙が出てきた。歯が鳴って、全身に鳥肌が立つ。
どうしてこんなことになったんだっけ。
私がこんな、夜の町をたった一人で歩いていたせいか。
どうしても家に帰るのが億劫で、いつもこうしてだらだらと町を散策しながら時間を潰していたが、この辺りに来たのは初めてだった。
でもまさか、こんなことになるなんて思わないじゃない。
男は静かに私を見下している。殺すタイミングでも見計らっているのだろうか。
私の人生はここで終了。さようなら、母さま、父さま、姉さま。
それから……マイ。
こんなことになっちゃって、ごめんね。今までずっと一緒にいてくれてありがとう。
そう覚悟を決めた時、大きな音で音楽が鳴り響いた。私のケータイの着信音だ。
何というタイミング。
おずおずと男の方を見ると、彼は何故だか苦々しい顔をした。
私がぽかんとしていると、彼は舌打ちをしてから踵を返した。そのまま彼は去っていく。
これは、助かった……ということか?
私はずるずると座り込み、大きく息を吐いた。
ケータイを確認すると、母さまからの着信履歴が何件も並んでいた。
ずっと面倒に思っていたけれど、今回だけはこれのおかげで命拾いしたようだ。
ケータイをマナーモードに設定し直す。どうせまたかかってくる着信には、気付かない方がマシだ。
でも、流石に肝が冷えた。
今日は大人しく家に帰った方が良いような気がする。
私は立ち上がると、仕方なく家路に着いた。
未だに震えている手が、鬱陶しかった。
*
次の日。
つまらない授業を聞き流しながら、昨日のことを考えていた。
今思い直せば、私に絡んできたあの男は、殺されて当然だったのではないだろうか?
酔っていたのか、たまたま通りがかっただけの私にやけに絡んできて、体を触ってもきた。今思い出しても気持ちが悪い。
そして近くの路地にいた例の男にも絡みに行って、確か殴ろうともしていたっけな。
まあ、殴る前に殺されちゃったんだけど。
そんなことを考えていると、机の上にノートを破った切れ端が置かれているのを見つけた。
隣を見ると、照れ笑いのような表情を浮かべているマイがいる。恐らく彼女からの秘密の手紙なんだろう。
内容を見ると他愛もない話だったが、それが何となく心地よくて。
私は自分のノートの端を切り取ると、マイへの返事を書き始めた。
*
「あ?」
「だから、ありがとうって」
助けてくれたんでしょ、と言うと、男は「は?」と口に出した。
放課後、マイに一緒に帰ろうと言われたのを断って、私はまた昨日と同じ場所にいた。
もう一度、昨日会った男を探すために。
中々見つけることができないまま日が落ちてしまって、もう帰ろうかと思いかけたとき、何となく入った路地裏に彼は居た。
「意味わかんねぇ……」
頭をぼりぼりと掻きながら、そう呟く男。
彼は、昨日人を殺していた。もしかしたら、昨日だけではないのかもしれない。
でも。
でも、なんでかな。
なんか、その姿がかわいく見えた。
「名前、なんていうの」
そう問いかけると、
「そんなものはねぇ」
ぶっきらぼうに答えが返ってくる。
私は少し考えたあと、彼に名前をつけてあげることにした。
「じゃあ、烏ね」
真っ黒で、烏みたいだから。
また「は?」と言った烏は、呆れたように大きな溜め息を吐いて、好きにしろとだけ言った。
口角を上げる私を見て、烏は更に溜め息を重ねる。
「お前、俺に会ったこと誰にも言うなよ」
「なんで?」
「殺されてぇのか」
「……分かった」
そろそろ帰れ、という烏の言葉に、仕方なく頷く。
やっぱり家には帰りたくないけれど、そのおかげで烏に出会えたんだから、少しは感謝しないとな。
なんてことを考えながら、すっかり暗くなった帰り道を歩く。
でも、まだ殺されたくはないから、友達とか恋人とかに話すのはまた今度にしよう。
気付けばもう家は目の前で、私は珍しく軽やかな足取りで、扉を開けたのだった。