事の始まり 3
世界がひっくり返った。そんな風に思うことって、漫画とかアニメの世界じゃなきゃ絶対にない。そう思っていた僕は浅はかだったのかな。日常だからこそ、崩れた時の衝撃が凄いんだ。今ならわかるよ。
電車に揺られながら僕は、通り過ぎた駅の数を数えていた。
僕の家の最寄りの駅から、伯母さんの家のある駅までは電車で一本。駅の数で言うと、乗るところから降りるところまで全部で八個もある。
降りる駅さえ間違えなければいいんだけど、実は初めて一人で電車に乗るから凄くどきどきしていた。
でも、どきどきしていたのは電車以外にも理由がある。僕が拾った猫が退院したのだ。
お母さんは日曜日に伯母さんの家に一緒に行こうと言ってたんだけど、待ちきれなくて僕は伯母にお願いして一人で今向かっている。
僕は今日までにお父さんと動画を観ながら色々勉強した。
猫や小さい動物の前で、大きな声ではしゃいじゃいけないこと。追いかけたり、急に触ったりしてもだめ。時間はかかるかもしれないけど、まずは慣れて貰うことが大事なのだ。
だから、慣れてもらうために猫に人気のおやつを家の近くのスーパーまで買いに行った。お母さんが買ってくれようとしたけど、僕が初めて拾った、初めて仲良くなる猫だから、大事に貯めていたお小遣いで買った。思ったほど高くはなかったから、また今度買おうと思った。
お父さんと観た動画に映る猫達は、足が短いのや毛が長いの、ヒョウみたいな柄だったり、ハートの模様があったり色々な猫がいたけど、僕が拾った白い猫が一番きっと可愛いと思う。
血の汚れが消えたらきっと、ふわふわで真っ白なんだ。そんな風に考えていたから、伯母さんから猫が退院したって連絡を貰った時、突然名前をつけて欲しいって言われてもすぐに返事ができた。
真っ白だから『白』。覚えやすいし、可愛いと思う。
駅の改札を出ると、伯母さんをすぐ見つけた。伯母さんもすぐに僕を見つけて、目があった。
「こんにちは、ちーくん」
「ひとりで来れたよ」
凄いですねと伯母さんは笑ってくれた。伯母さんはお母さんより年上のはずなのに、お母さんより肌が綺麗だしずっと優しい。
なんだか伯母さんと外で会うのが嬉しく思えたけど、今日僕がここに来たのは猫の白に会うためだ。
「白は元気?」
「はい、おかげさまで元気になりました」
「よかった!早く行こう」
伯母さんは、綺麗で大きいマンションに住んでいる。伯母さんが玄関のドアを開けると、うちとは違ういい匂いがする。
靴を脱いだら、これから猫に会うからまずは手を洗いにいこうと洗面所に一緒にいった。
退院したと言っても白はまだ子猫で身体が弱いと思うから、いつもより念入りに手を洗った。爪の間もよく洗った。
洗った手を拭いて、伯母さんを洗面所に置いたまま、そうっとリビングのドアを開ける。
気をつけろ、僕。いくら白が可愛くても大きな声を出しちゃいけない。走って駆け寄っちゃいけない。
僕は僕に言い聞かせながら部屋を見回すと、いつの間にか足元に白い毛玉がいた。
白だ。
血の汚れはすっかり落ちて、拾った時はよくわからなかった顔だけど、青色の目が大きくて凄く可愛い。
僕は可愛い!と大きな声をあげたい気持ちを抑えて、ゆっくりとしゃがみこもうとした。
「しろちゃぁあああああん」
何が起きたかわからなかった。
「たっだいまあああああん」
目に見える、聞こえる全てがわからない。
「ちーくんが遊びにきてくれまちたよおおおお!おもちゃも新しいの届いたから一緒にあそびしょうねぇええええ」
子猫の前で大きな声を出しちゃダメだよ。
廊下から走ってよってきちゃダメだよ。
そう思ったけど、白は伯母さんの足にしっぽをくっつけてスリスリしていた。
違う、問題はそこじゃない。
いつも敬語で静かに話す伯母さん。
大きな口を開けて笑ったりしない伯母さん。
穏やかでいつも優しい伯母さん。
僕が困ったら助けてくれる伯母さん。
そんな僕の伯母さんはもう、どこにもいなかった。
さっきまで伯母がいた場所には、
顔をふにゃりとさせて変な声をあげる、人の形をしたナニカが立っていたーーーー