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「それ、持って帰っていいよ」
一つ、二つ。大きなサンドイッチをぺろりと食べた彼女を見て、膳子は笑う。自分用に作っておいたサンドイッチをアルミホイルに包み、彼女の小さな手に乗せた。
「え。でも」
「旦那さん、途中で帰っちゃったでしょ。それ一緒に食べて」
戸惑うように、彼女は膳子の顔を見つめる。よく見れば化粧もどこか慣れていない感じがある。
幼いその顔を見て、膳子はなんとなく妹を思い出していた。
膳子の前では元気のいい妹が、もしこんな顔をしていたらと思うと、切ない。
「お腹いっぱいになったら、幸せになったでしょ」
膳子は温かいアルミホイルに手を載せたまま、笑う。
自分の立場に疑問を抱くときもある。過去を思い出し虚しく思うときもある。しかし料理をしている間は全て忘れることができる。
確かに、誰かの腹を満たすのは幸せなことだった。
「なんで、私に、そんな」
「私も、いっぱい弟妹がいるの。妹のこと、思い出しちゃった」
膳子は彼女の細い指を見つめてつぶやく。妹にも弟にも会いたい。
昔は家に帰れば、すぐにでも会えた。今は会えない。丸い食卓を囲んでいた小さな影を、毎日今でも思い出す。
「お姉ちゃん……?」
「そう。お姉ちゃん」
「……いい、お姉ちゃんで、いいな」
彼女は小さく呟いて、少し悔しがるような顔をした。
「それで今度は家でも旦那さんに作ってあげて。きっと喜ぶから」
「いいの……?」
「でもお店にも来て。店が潰れちゃ困りますので」
「……うん」
幼い顔で彼女は照れて、そして笑う。
「またくるわ。あと……」
彼女はなにか言いたげに、口を開きかけ……ピンクの唇をキュッと結ぶ。小さく首を振り、サンドイッチを抱きしめた。
「あ、ありが……とう」
彼女は初めてみせる可愛い笑顔で、膳子を見上げる。そして去っていく背をみつめ、膳子は長い息をついた。
……今日はなんとも、長い一日である。
「おじいちゃんも、おいしい?」
「おいしい!」
小西はまだ、幸せそうにサンドイッチにかぶりついていた。口の周りをビーフシチューとケチャップまみれにして、彼は笑う。
「……おじいちゃんもさ。死んでもいいなんて言っちゃ駄目だよ。だってたこ焼きじゃないものそれ。ちゃんと来ないと、エビ入りのたこ焼きつくらないからね」
「そうねえ。僕、奥さんにも会いたいけど、膳ちゃんにももっともっと会いたいもの。このお屋敷にもまたきたいし」
口いっぱいにサンドイッチをほおばって、小西はしみじみとつぶやく。
「年を取ったらどんどんやりたいことがなくなって、小さくなって、そうして死んじゃうんだと思ってたのね。なのに、全然だめ。歳を取るごとに、どんどん我儘になっていくの」
「おじいちゃん、このお屋敷に昔から遊びにきてたの?」
膳子もパンにかぶりつき、尋ねる。
小西がこの屋敷を見る目は、誰より優しいのだ。
「そうよ。お店自体はここ三ヶ月だけどね。その前はずっとここはお屋敷で、大昔にはここに伯爵様が住んでいたの。もちろん、伯爵っていう身分は遠い昔になくなっちゃったけど、みんな伯爵様って呼んでたのよ」
彼はキッチンの壁を見る。キッチンの水回りこそ改装されているが、壁や床は昔のままだと聞いたことがある。
古い、古い建物だ。小西は昔からこの場所を知っているのだろう。
「僕のお家と関係があったからよく遊びに来ていたのだけど、そりゃ優しくていい伯爵様でねえ。よく舶来物のお菓子や文房具をくれたの」
膳子はその伯爵様を知らない。そもそも支配人の過去も、この建物の由来もしらないのだ。
すべてを知っていると思われる小西は、不意に口を滑らせた。
「ここの支配人は、その伯爵様に拾われて」
「……子爵様、それ以上は個人情報ですので」
ふ。と、扉が音もなく開く。いつからそこにいたのか、支配人の細長い影が滑り込む。
その声をきいて、小西は照れるように笑った。
「……うちもね、随分大昔は子爵のお家だったんだって。でも、そんな呼び方をするのは、もうこの人だけになっちゃったねえ」
小西が丸い顔で支配人を見る。彼は困ったように小西にコートを羽織らせた。
「子爵様、運転手が泣きそうな顔で、あちらに」
「もう。仕方ないねえ。じゃあね、またね……膳ちゃん、支配人」
頬を膨らませ、小西は丸椅子から飛び降りる。そしていつものように手をふって、勝手口から出て行くのだ。
「待っておじいちゃん……」
追いかけようとする膳子の手を、支配人がつかんで止めた。
「膳」
「だって、おじいちゃん、病院がどうこうって……」
「心配なんてしなくても、あの人はまた来ますよ」
「へ?」
支配人は扉を閉めながら、ため息混じりに言った。
「正確には、来週には来ます」
支配人はいつも通りに涼しい顔。ただ眉間に疲れがかすかに見える。
「ただの人間ドッグです。毎年この季節に受けるようですが、毎回入る前にあんな風に大騒ぎして。数十年、ずっと同じ事の繰り返しです。今年もきっと大丈夫」
「はあ……?」
「でも、たこ焼きはいいですね。エビ入りはどうかとおもいますが……でも縁日メニューか……焼きそば、たこ焼き、あと、あのウインナーを衣に包んで揚げた……」
支配人はぶつぶつと何事かつぶやいて、ポケットから小さなメモ帳を取り出す。細かな文字が刻まれたそのメモ帳に、彼はさらに何か書き足していく。
「アメリカンドッグ? あとはべっこう飴とか……季節外れですが、面白いですね」
「支配人」
つぶやきながらも手にはステッキ、そして鞄。帰る準備を整える支配人を眺めながら膳子は思わずそのコートの端っこをつかんでいた。
振り返る支配人の顔は、相変わらず端正だ。
マダムたちを見つめるときのような色気は見せない。支配人が膳子に向ける顔は、いつも素の表情だ。
「なんでこんなお店しようと思ったんです?」
「恩人の遺志のようなものです」
「その……伯爵様っていう……」
「さあ、どうでしょう?」
口元だけで笑って、彼はごまかす。近づけるように見せかけて、彼はけしてあと一歩を許さない。
ロビーに出た彼を追いかけて、膳子は彼の顔を見上げた。
「……支配人」
支配人は深く帽子をかぶり、ステッキをくるりとまわす。
「なんですか」
口にしかけた言葉を飲み込んで、膳子は別の言葉を口にした。
「本名をお伺いしても?」
「帰ります」
膳子の戯れを見事に無視して、彼はまっすぐ扉に向かった。
豪奢な飾りの一枚扉が重々しく開かれる。
扉の上に取り付けられた真鍮の鈴が、涼やかな音を立てる。
扉の向こうから光が漏れる。ワインレッド色の絨毯に、外と中の光が共鳴する。
「戸締まりをしっかりして、明日は4組のお客様ですよ」
「はいっ」
「おつかれさま、膳」
そして支配人の大きな手が、膳子の頭をなでる。
「膳。ほら、桜が咲き始めました……いい季節だ」
彼は玄関先で、眩しそうに目を細めた。その視線の先は、洋館の隣に立つ桜の木。最近の温かい風に誘われて、1つ2つ、花が咲き始めている。
遠く、海からは汽笛が聞こえる。
支配人が扉を閉めれば、後は置き時計の刻む音だけが残される。
おそらく、支配人が若い頃からずっと時を刻み続けた時計の音。
壁に背中をおしつけて、膳子はその音に耳を傾ける。
……伯爵様という人も、きっとこの音を聞いたに違いない。
時をこえて、自分がこの音をこの場所で聞いているのは、不思議なことだった。
「さて。明日も頑張りますかあ」
骨董品のような室内を見上げて、膳子は深呼吸を一回。そして大きく伸びをする。
ノスタルジックな気持ちに襲われたのはたぶん、この建物が見せた幻影だろう。
明日からはまた、いつもの忙しい毎日がはじまる。
しかし今日は昨日よりも、ほんの少しだけ心地よく一日を終えられそうだ。と、膳子は眠気のあくびをかみ殺した。