1-8
「おじいちゃん!」
先程までの苛立ちは一瞬でかき消え、膳子は思わず駆け寄っていた。
……扉から顔を見せたのは小西だ。ここ最近、ずっと顔を見せなかった小西がそこにいる。
彼は少し気まずそうに指をこね回し、膳子をちらりと見上げる。
「あのね。今日はお店に行けなかったから……ちょっと寄ってみたのだけど……」
一週間ぶりのその顔は相変わらずふくよかだが、少しばかり顔色が悪い。寂しそうな風貌を目にして、膳子は彼の手を掴んでいた。
「どうしたの? 大丈夫?」
「膳ちゃん。さっきのお話が聞こえちゃったんだけど……おじいちゃんの知り合いの悪い人、つれてきたほうがいい?」
「だから、そんな大げさな話じゃないって……そんなことより、おじいちゃん元気だったの、っていうか、あの、その」
いつもは勝手口から入ってくる癖に、今日は珍しく中から現れたこと。
一週間ぶりの来訪であること。
小西に聞きたいことが一気に口にあふれて膳子は言葉に詰まる。
そして何より……。
「あの……」
小西の後ろに、すらりとした影を見つけて、膳子はぽかんと目を丸めた。
「奥様?」
小西の丸い背中の後ろにいるのは……例の大食い奥様なのである。
彼女は耳まで真っ赤にして、唇を噛み締めうつむいている。先程の女達の言葉はきっと彼女の耳を汚しただろう。聞いてないふりをしようとするその態度が却って切なかった。
「なんで、ここに……」
「あ、そうそう。迷子になってたから連れてきてあげたの」
小西はにこにこと膳子を見上げた。
「ここのお屋敷、トイレの横の紛らわしいところに、別の扉があるでしょ。そっち間違って入っちゃうと、別のお部屋に出ちゃうの。そこに入っていったから、追いかけてね。お話聞いたら、厨房に行きたいっていうから連れてきたのよ」
彼女はしずしずと前に進み一度足を止める。しかし小西に促されるようにキッチンに入ってきた。
今日は透き通るような黄色のワンピース。以前と同じ、ローズの香りの香水。
「あの……」
バカみたい、と言ったときとは一転。彼女は気まずそうに唇をかみしめている。
「気に病まなくていいのよ。ここ、フェイクの扉とか、仕掛け扉がいっぱいあるでしょ? 迷っちゃうよねえ」
「お爺ちゃん、はじめて聞いたけど、私」
「そぉ?」
小西は首を傾げる。
さも当然のような顔で言い放つが、膳子にとってみれば、初めて耳にすることだ。
この屋敷には扉の類はたくさんあるが、支配人より触ることは禁止されている。膳子にだって好奇心が無いわけではないが、職を失うリスクを前に危険は犯せない。
「僕ねえ、小さなときからここのお屋敷に遊びに来てたでしょ。ここの伯爵様が子ども好きで、お屋敷にたくさん迷路とかフェイクの扉作ってくれたの。ランプを引っ張ると扉が開いたり、いろんな謎掛けがあるの。100個はあるのよ。いつか一緒に探検出来たら良かったのにねえ」
小西は子供のようにニコニコ笑って女性を見上げる。屋敷を迷っていたという彼女は疲れたような青白い顔で、じっとうつむいている。
「えっと……」
彼女は細い指先を所在なさげに絡ませて、やがて思い切ったように顔を上げた。
仮面をはずし、頬を赤らめる。その素顔はとても幼くみえた。
「前……あなたに、ひどいこと言ってしまったから、お詫びしなきゃって……来たんだけど、あの、聞こえちゃって……その、庇ってくれて」
小西がにこにこと見つめている。その視線に押されるように彼女は膳子の顔を見てはっきり口を開いた。
「ありがとう」
その意地っ張りな声を聞いて膳子は思わず吹き出す。と、彼女の目がきゅっと釣り上がる。
「なによ……」
「案外素直で驚いてます。ところでおじいちゃんは、なんで?」
ホールからはまだかすかに談笑がきこえてくる。
キッチンの騒ぎは向こうには聞こえないのだろう。あの三名のお客様も、支配人がうまく追い払ったのか、彼女たちの声はもう聞こえない。
静かなキッチンには、三人だけ。
「僕ね、来週ね、入院するのね」
小西は言いにくそうに、俯き、そして泣きそうな声でつぶやく。
「え、どこか悪いの?」
「うん……入院前にうろうろするなって、せがれに怒られてね、だから家にずっと居たんだけど、膳ちゃんのご飯、もしかするともう食べられなくなるかもって、そう思って……」
丸い鼻をすすり、潤んだ目で彼は膳子を見上げるのだ。
「最後にどうしてもたべたくって、家を抜けてきたんだけど、お食事の時間に間に合わなかったねえ」
しみじみとつぶやく小西の言葉に膳子の胸が急に苦しくなる。
ふくふくしい小西が急に弱々しくみえた。言いたい言葉が口から出てこない。
と、キッチンの扉が薄く開いて支配人がひょっこりと顔を出した。
「膳、ホールはもう終わりますし、いいですよ。キッチンを使っても」
それだけ言い捨てて彼は去っていく。もっと掛けるべき言葉があるだろうと、腹も立ったが膳子は急いでキッチンの扉を締めると冷蔵庫を思いっきりひらいた。
「じゃあ今から作ってあげる」
「えっいいの」
ちょうど買い出しを終えたあとなので、食材は豊富だ。
ぱっと顔を輝かせた小西を見ながら膳子は食材を探り出す。
……食べたいと、そう言ってくれる人に作る料理はなんと幸せなことだろう。
「おじいちゃん、なにたべたい? なんでも作るよ」
「えっとね、えっとね。前に膳ちゃんが作ってくれた、オムレツのサンドイッチ」
「あれでいいの?」
「それがいいの」
小西は力強く頷く。膳子は思わず笑みをこぼした。
そのメニューは、弟妹たちの大好物。
運動会では必ずレギュラー入りする
「……あなたも一緒につくろう、もしまだ時間があるなら」
膳子は手を止め、キッチンの隅で所在なさげにしている彼女にも声をかける。急に声をかけられたせいか、彼女の顔がパッと赤くなった。
「つ、つくる? わ、わたし?」
「オムレツを作って、パンに挟むってやつ。すごく美味しいの。濃い味で、食べざかりの男の子に大人気」
彼女のドレスを見つめて、膳子は目を細める。
ピカピカのワンピースに、美しいエナメルのハイヒール。本皮の小さなハンドバック。
高級感に包まれていても、彼女はどこか庶民風だ。
「具は赤いエビと緑のネギをオムレツにいれて、味付けはケチャップと、余ったビーフシチューもちょっと乗せて。ついでにポテトも揚げようかな」
「……」
膳子の言葉に反応して、彼女の目がきらきらと輝く。
……彼女の感性は、膳子と同じようである。
「まだ食べられるでしょ。だってまだ若いもん。一緒に作って、食べよう。お腹空くのって悲しいでしょ」
お嬢様然とした彼女の腹がきゅうと鳴る。それが合図だった。
「……私、結婚して三ヶ月なの」
彼女は包丁でネギを切る。
とん、とん、とん。という丁寧な音が響く。
その横で膳子はエビを調味料で和える。マヨネーズと、ケチャップの甘酸っぱい味。
ピンク色に染まったエビに、彼女の切ってくれたネギをたっぷり混ぜる。
「じゃあ次は卵を割ってもらえる?」
「ええ」
お金持ちの若奥様と並んでキッチン仕事をするなど、まるで幻想のような不思議な時間だった。
「……おかしいでしょ。夫と私、孫とおじいちゃんくらい離れてるのに」
彼女は包丁を器用に扱い、笑う。長い髪をひとつにまとめる動きは手慣れたものだ。ネギを切る手も慣れていた。
小西といえば、パンを皿に並べるだけでも四苦八苦しているというのに。
「あの人、前の奥さんを亡くしてずっと再婚せずにここまできて」
彼女はぽつり、ぽつりと語り始めた。膳子が急かしたわけではない。卵を割って混ぜる、その単純作業が彼女の口を緩ませたのだ。
「私の実家、お金持ちでもなんでもないの……むしろもっと……普通の……普通よりちょっと貧乏……兄弟も多いから、あんまり、お金もなくて」
「というより家事得意ですよね」
「え」
「料理。慣れてる。お金持ちのお嬢さんの動きじゃ無いもん」
彼女の混ぜた卵液に、砂糖と醤油と出汁のもと。それをネギ入りエビに混ぜ込んで、膳子は大きなフライパンにそれを一気に滑りこませた。
じゅう、と煙がフライパンから立ち上って小西が嬉しそうな声を上げる。
甘辛い香りがキッチン中に漂う。
彼女は目を丸く見開いて、じっとフライパンを見つめる。
やがて悔しそうに唇を噛みしめた。
「分かるの?」
「お姉ちゃん、って感じですね」
「……弟と、妹がいる……あと年の離れた姉。こっちは、ほとんど家に帰ってこないけど……」
「せっかくお金持ちの旦那さん捕まえたのに、こんな庶民的な料理を出すお店に連れて来られて、馬鹿にされてると思った? それで不機嫌に?」
「そうじゃない」
彼女は膳子の顔をみて、きっぱりと拒否の声を上げる。
「ここのお店のお料理は美味しくて」
彼女は小さな口と、細い体だ。ぱっと見ただけでは大食漢にはみえない。
しかし、その目は膳子の作る卵焼きを見つめている。
黄色の卵にピンクのエビ。たっぷりのバターに沸き立つ卵を丸めて、その中にエビを折りたたんでいく。
とろとろ卵の隙間から見える艷やかなエビの姿は魅力的だ。まるで手品でも見るように、彼女の目が輝いている。
期待に答えるように、膳子は卵の上に、余ったビーフシチューをじゅっと落とす。熱せられたフライパンの上で、マグマのようにビーフシチューが沸き立って、キッチン中に甘く濃厚な香りが広がった。
それを見て、とうとう彼女は口元を手で押さえる。目が輝き、フライパンに釘付けだ。
膳子にはその目つきに覚えがあった……弟妹たちだ。
食いしん坊の彼らはこうしてキッチンで、膳子の作る料理をじっとみつめていた。
彼女は膳子と目があい、気まずそうに顔を背ける。
「た……食べてる私のこと、あの人、じっと見るの。私のこと、まっすぐに見るの。初めて会ったときとおなじ……きっと、恥ずかしい女だって、そう思ってるんだわ。卑しいって……それで……」
「お嬢さん、旦那さんのこと、大好きなのねえ」
小西がふいに、口を開いた。
白い皿に丁寧にパンを並べて終わった彼は、にこにこ笑顔で彼女をのぞき込む。
その視線に、彼女の頬が一気に赤くなった。つんけんしていた表情とはまるで違う。素直な少女の色になる。
「大好きなんでしょ、旦那さんのこと」
「……そうよ……」
ふるふると、彼女の指先が震えた。
「愛してるの。あの人のこと……好きになっちゃったの」
ぽつり、と言葉が漏れてそれは一気に吹き出す。まるで間欠泉のようだ。
「これまで、あの人が連れて行ってくれるレストランは高級フレンチとか、イタリアンとか……そんなのばっかり。食べ慣れないし、そこなら食べ過ぎることは無かったの。でもこのお店に連れて来られて、懐かしくって、美味しくって……」
「がつがつ食べちゃう?」
「……試されてるのかと……でも、おなかが空いちゃって、私……」
彼女は唇を押さえ、俯く。
膳子は思わず吹き出しそうになる口を必死に押さえた。
なんてことはない。新婚の甘い惚気につきあわされている。
笑いをこらえ、膳子は卵を揺らし皿の上に落とした。
まだ湯気のあがるそれを丁寧にまとめあげ、ケチャップとビーフシチューを塗ったパンの上に乗せていく。
それを見て、彼女は細い喉をこくりと鳴らした。
「あの人の周りに、こんな女はいないわ。はしたないって、皆笑ってる。あの人のことも、笑われちゃう……」
震える彼女の声をBGMに、隣の鍋ではフライドポテトも揚げていく。冷凍食品だが、このチープな味が、こんなサンドイッチにはよく似合う。
「なのに、お腹がすくの……我慢できなくて……嫌われちゃう……」
「そんなことない。大好きな人が美味しそうにご飯を食べるのは、見ていて楽しいのよ。はしたないなんて思わないの。可愛いの」
小西は目を細めて、彼女の背をなでる。
「おじいちゃんの大切な奥さんもねえ、15歳年上だったのよ」
卵を挟んだパンをきゅっと押さえながら、小西が照れるようにいった。
「おじいちゃんが10歳のとき、家庭教師だった奥さんのこと大好きになっちゃって。必死に口説いてね、18歳で結婚したの。卵焼きが大好きな人だった。卵焼きをぱくぱく食べるのが可愛くって」
「はじめて聞いたよ、おじいちゃん」
「うん。ずーっと前に死んじゃった。寂しいから、もう思い出さないようにしようって、そう思ってたんだけど……」
小西は嬉しそうに微笑んで、頬を赤くする。
「久しぶりに思い出して、すごく嬉しくなっちゃった。やっぱり、思い出さなきゃ駄目なのね」
卵は柔らかなパンでふたをされ、真ん中から切ると綺麗な黄色の断面がみえる。
間に挟まったエビのとろりとした、赤と白。ケチャップも卵もビーフシチューも、とろとろに溶け合った。
弟たちの運動会で作ったオムレツサンドとは全く違うものなのに、それでも膳子は運動会の風景を思い出す。
土の匂い、汗の匂い。あの頃のにおいを、全部思い出す。
……思い出は、いつも綺麗だ。
切なさをぐっと堪えて、膳子はサンドイッチの隣に揚げたてのポテトを並べた。塩を少しと胡椒も少し。ピンと立ったポテトはアツアツの湯気をあげる。
「あの人があっちで待っていてくれるから……おじいちゃんは死ぬのが怖くないのよ」
サンドイッチとポテトをしみじみと見つめて、小西は優しくつぶやいた。
柔らかい風貌のその向こうに、彼のかすかな思い出が見えて膳子は少し胸が痛くなった。