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エビ入りたこ焼きを食べたがる職業不詳のおじいちゃんは、その日を境に姿を見せなくなった。
しかし、彼のことを心配するには膳子の時間が足りない。
毎日毎日、美食倶楽部は営業を続け、毎日毎日、支配人からは料理のスピードアップを求められるからである。
今日もまた、膳子は支配人に急かされながら食後のデザートを出し終えたところだ。
今日のメニューは、炒り卵のちらし寿司、肉じゃが、エビチリ、桜餅。
意外に手間のかかるものばかりで、終わると同時に膳子は椅子に崩れ落ちた。
膳子を更に疲れさせる声が響いたのはそのときだ。
「あら。ここがキッチン?」
きゃらきゃらと軽い声が耳につき刺さり、膳子はげっそりと顔を上げた。
きつい香水の香りが鼻をつく。色鮮やかなドレスの色も、目をいたずらに疲れさせる。
顔を挙げなくてもそこに派手な女性が三名いる……と、わかった。
(……今度、支配人に頼んで、キッチンの扉に鍵、つけてもらお)
膳子は手にしていたボウルを片付けながらため息をつく。
磨いたボウルには、キッチンの扉からこちらを覗き込む女性の姿が横に伸びてうつり込んでいた。
木の扉は全開だ。遠慮ない視線がキッチンの中に飛び込んでくる。
「案外素朴ねえ」
「狭いわね」
「あら、シェフはひとりだけ?」
そこに立っていたのは、いかにも下品な女が三名。
派手なドレスと派手な仮面をくっつけた女性客。甲高い声でこちらをちらちらと覗き込んでいる。
……それはあの派手な若者が連れ込んだ女達。よほど気に入ったのか、彼は週に一度は店にやってくる。
いつもいつも揚げ物の皮を、ナイフとフォークを使って無理矢理剥がしていく、「お上品」な方々だ。膳子は険しくなる眉の間をとんとんと叩いた。
「お客様。失礼ですが、ここはキッチンで……」
仕方なく膳子は振り返り、精一杯の笑顔を向ける。
嘘笑顔の作り方を支配人から教えて貰おう、と膳子は心に誓った。
「ああ。あなた。あなたに聞きたいことがあって、あの若い奥様をご存じ?」
「支配人に聞いてもはぐらかされるし」
「あなたなら知ってるんじゃないかって、ね」
膳子が近づくと、むしろ女性たちは一気に詰め寄ってくる。ぎょっと体を仰け反らせれば、彼女たちのおしゃべりときつい香水の香りが、一斉に膳子を襲った。
「頭取の奥様になんてなってるけど」
「どうだか。あんな若いのに、あんなお年寄りに……」
彼女らの囁きは聞くに耐えないものだった。膳子は腹の底が、ぐっと熱くなる。
ホールではまだクラシックが流れ、別の客たちの談笑が繰り広げられていた。
その中には、例の若奥様もいたはずだ。
あの夫婦はこの店が気に入ったのか、続けて足を運ぶようになっていた。
今日は夫が急な仕事で途中で抜けたものの、彼女は残ったまま。
おそらく、彼女は席でも好奇の視線に晒されていたのだろう。
夫婦揃っているときはともかく、一人になれば遠慮のない視線が飛んできたはずだ。それでも彼女は最後まできちんと食べきった。
彼女は相変わらず不機嫌な顔を崩さないが、誰よりもきれいに食事を平らげる、けして、揚げ物の皮を剥がして残すようなことはしない。
「ねえ、ねえ。あなたもこのお店の人なら何か彼女の噂なんて……」
「お客様」
膳子は台に転がっている人参をアイマスクのように当てて、へらへら笑って見せた。
「あのね、お客様。この店はこういう性質のものですので、さぐり合いは御法度です」
彼女らは、膳子が何を言いたいのかわからないのだろう。顔で互いを目配せしあう。
そんな彼女らにも理解できるよう、膳子は言葉を優しく変えた。
「分かりませんかね。ゲスの勘ぐりは止めろってことですよ、みっともない」
ま。と一人が口を抑える。マスク越しでもわかるほど、三名の顔色がさっと青くなる。
その仮面の下の彼女たちが何者なのか、膳子は知らない。金持ちの奥様なのか、背伸びがちな庶民なのか、それとも実はどこかのお姫様なのか、そんなことは分からないし興味もない。
仮面を付けるということは、そういうことだ。
つまりこの店に一歩足を踏み入れた瞬間、全員平等の立場となるのである。
膳子はパン、と机を一度叩いた。キッチンの台はきれいな音をたてて、上に乗せたボウルにも音が反響する。
「料理人として言わせていただくと、揚げ物の衣をちまちま剥いていかれるようなお客様より、綺麗に完食してくれる人の肩を持ちたいものです」
膳子は胸を張って答える。
ピンクドレスの若奥様は膳子に向かって「馬鹿みたい」と言い放った。
しかし、その食べ方をみていると心地が良いほどなのだ。
一生懸命に食べてくれる。それをみていると、弟妹を思い出す。
膳子が料理を作るとき、いつも思い浮かべるのは弟妹のことだけ。すべての食事は彼ら彼女らを思い浮かべて作られる。
こんな下品なマダムに食べてもらうくらいなら、弟妹たちに食べさせたかった。もう一度、一緒に食べたかった。
「……膳」
膳子の肩を、誰かが優しくなでる。振り仰げば、そこには支配人が立っていた。
「支配人。クビならクビにしてください。私だって腹の立つことくらい」
「お客様。うちのシェフのいうとおりです」
その手を振り払おうとした膳子だが、支配人の静かな声に動きを止める。マダムたちはまだ頭の整理が追いつかないのか、固まったまま寄り添って目を白黒させている。
「お客様がたは、美食倶楽部の趣旨を勘違いされているようですね」
支配人は膳子の肩を軽くなで、一歩前に出る。
彼が前に立つと、やはり甘い香りがする。
半年前、車に跳ねあげられた水しぶき。それを拭ってくれるとき、あの出会いの瞬間も彼は同じ香りをまとっていた。
「この店はお客様にとっての最高の美食を提供する場所です。お口にあわないようならば、そのままご退出ください」
支配人は言い切ると、最高に爽やかな笑顔を浮かべて、慇懃無礼に三名をキッチンから追い出す。
「お連れ様の殿方は入り口でお待ちですよ。さ、お見送りいたします」
「え。まって、だってまだ、最後のデザート食べてないし」
「お見送りいたします」
断固とした物言いで、支配人は彼女らをキッチンから押し出した。ただし振り返りながら、
「膳。人参で遊ばないように」
と、膳子が手にする人参を指し示すことも忘れない。
「支配人、私……」
「膳ちゃん……」
支配人を追いかけようとした膳子だが、支配人と入れ違いで入ってきた人影をみて思わず息をつまらせる。
……そこには、顔色の悪い小西が寂しそうに立っていた。