1-5
「ようこそ、美食倶楽部へ」
毎日毎日繰り返される、支配人の芝居がかったセリフと配膳。
洗練された動きに、革靴が軽やかに地面をける音。
膳子は耳だけでホールの様子を探り探り、必死に手を動かしていた。
(あ、またいつもの集団だ)
甲高い女の声と、低く含むような笑い声を耳にして、膳子は手を止める。
それに重なるのは、きついきつい、香水の匂いだ。顔をしかめて膳子は秘密の窓を覗き込む。
ホールの中心には、キンキラ光る仮面を付けた男3名と、胸もあらわなドレスをまとう派手目の女性が3名。
女性の顔には羽毛のようなふわふわの仮面がピンクに染まって揺れている。
(あれは金持ちじゃあ、ないな)
膳子は目を細め、その集団を見つめた。
ドレスも仮面もペラペラに安いものだ。審美眼など持ち合わせてもいない膳子だが美食倶楽部に働くようになって数ヶ月、安物のドレスを見抜く技は身につけた。
(香水が安っぽいし、使ってるシャンプーも多分安物。ドラッグストアの匂いがする)
膳子は鼻を動かして、眉を寄せる。
(金持ちに化けるなら、そういう所からちゃんとしないと)
ここ、美食倶楽部は完全会員制の一見さまお断り。
彼らは誰かの紹介を受けたということで、一週間に一度は現れる。
席についてからは比較的おとなしいが、それまでがやかましい。そして彼女たちは揚げ物を出すと必ず衣を剥いで食べる。お行儀のよろしくないことだ。
(いくら会員制でも、ああいうの入れちゃうとイメージ悪くなるとおもうんだけどなあ……ま、私が言うことじゃないけど……ん?)
引っ込もうとして、膳子は再び足を止める羽目になる。
安物集団の後ろに、別の客が続いたのだ。
普通、今から食事をしようとする人間は頬の筋肉が緩むものだ。
眉毛も下がり、柔らかい顔つきになるものだ。しかし最後に現れた客は、どこか不機嫌そうだった。
年齢は小西と同じか……下手すると小西より上。飾りのついた杖をつき、仕立ての良いスーツに、良いジャケットを羽織っている。靴の先も磨かれ、油断なく輝いていた。
しかし美食倶楽部のルールである仮面は付けていない。すぐさま支配人が近づいて、彼に小声でなにか囁いた。
支配人の笑顔は胡散臭いほどに冴え渡り、鬱陶しがるように客は顔を背ける。
しかしやがて納得したのか、納得させられたのか、渋々仮面をつけると彼は他の客の後ろに続いた。
(あれは、本物の金持ちだな……面倒そう)
ため息を押し殺し、膳子は慌てて再びキッチンに走り込む。
二日連続でのんびりしていたら、支配人にどやされてしまう。
「今宵はハンバーグに、おにぎりにウインナー炒め。ほうれん草のゴマ和えです」
「まあ、懐かしいわ。運動会みたいねえ」
どんなシステムになっているのか、キッチンの中にいると玄関やホールの音がよく聞こえる。時折壁を軽く叩く音も聞こえる。それは支配人の仕業だ。急げ、という合図である。
(わかってますよ……えっと、皿は……)
その声に焦らされるように、膳子は身をかがめてキッチンの戸棚を引く。しかしその戸棚は異様な硬さで膳子の手を拒んだ。
「固っ……いったぁ」
キッチンの下、壁と同化するようなその棚を見て、膳子はため息をつく。
右から数えて3つ目の扉だ。不思議なことに、ここだけが開かないのである。
普段は意識して触れることもないが、忙しい時にいつもうっかり手を滑らせてしまう。
膳子の舌打ちでも聞こえたのか、支配人がひょっこりと扉から顔をのぞかせた。
「膳、皿は上です。そこの戸棚、開かないんですよ、鍵がなくなってしまって」
「メンテナンスしておいてください。とっさに間違うんですよ」
ただでさえでも忙しいというのに、と膳子は大急ぎでフライパンを握りしめる。
平たくのばしたハンバーグを手際よく焼き付けながら、膳子は白い皿をみた。
今日はノリタケの白い皿だった。
真っ白よりも、少しだけ淡く色づいた柔らかい白。色彩で灯りの下でとろりと輝いている。
ここにハンバーグ、赤いウインナー、ほうれん草の緑がのせられる。
その隣には、四角いノリが巻かれたおにぎりを添える。たしかに客のいうとおり運動会のお弁当メニューだ。
(運動会か……)
切れ目をいれたウインナーを熱した油で転がし、茶色の焦げがついたタイミングで引き上げる。
緑の映えるゴマ和えを添え、炊飯器をあける。
甘い米の香りの向こうに、運動会の風景が見えた気がした。
年の離れた弟妹たちの運動会に駆けつけるのは、いつも膳子の役目だった。
兄弟たちが膳子の弁当を開いたときの、歓声。はしゃぐ声。今でも耳によみがえる。
必死に走る妹、転がって泣きながらそれでも立ち上がる弟。砂まみれになって、お弁当をがっつく弟妹たち……。
「あなたはご存じないでしょうけど、昔、我が家は貧しくってね、忙しい母に代わって食事を姉が作ってくれて……」
「良い思い出ですね」
いつの間にホールに戻ったのか、支配人の柔らかい声が室内に響く。低音の穏やかな声で、膳子に対するときの声とは全く異なっていた。
「今じゃフレンチに寿司にステーキ。そりゃ最初はうれしかったものだけど……」
客の声がさざ波のように聞こえてくる。声の感じからすると60代くらいか。穏やかで柔らかい。
「だから私うれしいのよ、こんなお店をしてくださって。以前、お得意様からこんなお店ができたと噂だけ聞いて、ずっと来てみたかったの。紹介を受けないと入れないと聞いて、そりゃもう必死に知り合いにあたって、ようやく今日来られたのよ」
「……そうおっしゃって頂けて大変光栄です、マダム」
支配人の柔らかい声が聞こえ、やがてホールにクラシックが流れはじめる。
膳子はおにぎりを握り赤くなった手のひらを眺めて小さくため息をついた。
食事会が終わりに近づくと、クラシックの音調が変わる。
それがデザートへ移行するタイミングだ。
あとはデザートを盛りつけるだけ、というところまで準備を整えてある。
仕事の終わりが見えた膳子は伸びをしながら立ち上がり、小窓からそっとホールをのぞき込む。
綺麗な木のテーブルには、相変わらず紳士淑女たちが仮面を付けたまま食事を楽しんでいた。
(今日は……8割が常連客、か……)
覗き込んで、膳子は目を細める。顔を隠していても、ドレスの趣味や体型などで大体の客は把握できる。
昨日、支配人に手を取られたマダムは今日も来ている。よほど支配人がお気に入りなのか、くねくね腰を揺らして支配人に絡んでいるのが見えた。
残りの人々も、好き勝手におしゃべりなどを楽しんでいる。
例の派手な連中も、食事が始まると案外おとなしい。気難しそうな爺さんはいつの間にか姿を消していた。支配人が追い返したのかもしれない。
ルールを守れない客は、どれほどご立派な人物であろうと支配人が追い返す。それがこの店の絶対的なルールだった。
残った人々は、そろそろ食べ終わる頃。あとはデザートとコーヒーをサーブすれば終了だ。
(はい、今日も無事に終了……っと?)
あくびをかみ殺し窓を覗く膳子だが、その目にふと視界の隅に一人の女性が引っかかった。
しばし悩み、やがて急いでコンロに走り込む。落としてあった火を付け、ミルクパンを上に。レモンにはちみつ、少しの黒砂糖……沸いた湯で、それを引き伸ばす。
「支配人、これ、あの、奥の席に居る女の人の席にお願いします。ピンクのドレスを着てる人。あったかい、レモネード」
そして支配人が小窓の横を通りがかる瞬間、膳子は小窓からそっと手を出し彼のスーツを軽くつまんだ。
「……なにかあの女性に問題でも?」
突然声をかけても、自然に立ち止まり動揺も見せないのは流石だった。
膳子が小窓から差し出したのは、小さなカップに入ったレモネード。
「あのお嬢さ……奥様、すごく顔色悪いから。具合悪くなったのかも」
膳子が指し示したのは、中央テーブル。
そこには先日も見かけた、若い女性が座っていた。隣には夫と思われる年輩の男。
相変わらず仮面のせいで顔はみえないが、薄いピンクのワンピースから見える白い腕が、今日はますます青みがかってみえた。
彼女の前に置かれた皿は綺麗に空っぽだ。前の時もそうだった。
彼女はぎこちなく食べるくせに、気持ちがいいくらい皿を綺麗にしてくれる。それなのに、小さな手のひらは膝の上に置かれたまま。震えているように見えた。
「確かに、あまり具合がよくなさそうだ」
支配人は自然な動作でカップをとると、滑るようにホールの真ん中へ向かう。
その背を見送ったあと、膳子はあわててデザートの支度へと駆け出した。
「お嬢さんが料理を?」
「わ」
ミルクシャーベットに空気を含ませるように数回混ぜる。
そしてゆっくりと冷たい皿に盛りつけようとした瞬間、突如、背から声がかかった。
その声に驚いて思わずスプーンが宙を舞う。落とさないように必死に受け止めて振り返れば、キッチン入り口に見知らぬ影がある。
「あのっ、あの……お客様……何か……?」
ずり落ちかけたコック帽を直し、膳子は姿勢を正す。気がつけば、恰幅のいい男がそこにいた。
キッチンはホールの裏にあたるため、トイレを探して迷いこんでくる客も多い。
しかしわざわざ扉を開けて声をかけてくる客は少ない。
しかも彼は明らかにキッチンが目的のようだ。彼は木の扉を開けて、膳子をみつめている。
こんな時の対処法を、膳子はまだ習っていない。
もじもじと、コック帽をかかえて膳子は顔を俯ける。
「あの、すみません。あの、ここキッチンで……」
……男は、一歩キッチンに入り込んだ。その体が白い光にさらされる。そして彼は仮面をずらした。
「驚かしてすまない」
「あ」
彼の体からかすかにローズの甘い香りが漂い、膳子は慌てて顔をあげる。
彼は、例の女性の隣に座っていた男性ではないか。
どこかの銀行の頭取だとか、そう聞いた。たしかに、そんな貫禄がある。
恰幅のいい体に高級そうなスーツ。腕には高そうな時計も見える。髪は白く、顔にはしわも深い。しかし、優しそうな男である。
彼はキッチンを軽く見回したあと、膳子を優しく手招いた。
「お嬢さんが一人で?」
膳子の背に冷たい汗が流れた。不具合でもあったのだろうか。もし何かあれば、この店を追い出される。そんな恐怖が膳子の足を震わせる。
「は……はい、なにか、あの、料理に不手際でも……?」
おそるおそる近づく膳子に、彼はそっと囁いた。
「妻にレモネードをありがとう。どうしてもお礼を言いたいと、支配人にわがままを言って通してもらったんだ」
「あ。いえ、その」
「……実は妻は……気分が悪いのではない。食べ足りないんだ」
慎重に囁かれたその一言に、膳子の足の力が抜ける。
「た……足りませんでしたか?」
「私からすれば十分な量なんだが、妻はまだまだ若くて……しかしそれを恥ずかしがって、隠している」
男はまるで重大な秘密を漏らすように、膳子にそういった。
「君の食事がおいしすぎるから、一気に食べてしまって、まだ足りない」
男は優しい目でほほえんだ。
その真剣な声も、目線も、動作も。どれにも嫌味がない。真剣だ。どこまでも優しく、真剣に妻のことを案じる声だ。
「まだ結婚して、三ヶ月なんだ」
「偶然ですね、私もここ、三ヶ月目なんです」
思わず膳子がそう返せば、男は楽しそうに笑う。
「若い妻だろう。前妻を亡くしてもう何十年、独り身でね。もう一生独り身でいようと思っていたんだが……周りから見合いを進められて」
彼はゆっくりと、言葉を紡ぐ。穏やかで優しい声だ。人を安心させる声である。
「蓋を開けてみると、相手はあんな若いお嬢さんだ。最初は断るつもりだったが……」
男はキッチンに流れる暖かい湯気を吸い込んで、目を細める。
「結婚後は好みが分からずに最初は手当たり次第、色んな店に連れて行ったんだ。でもどうも食が進まなくって」
膳子はちらりとホールの方を見た。
妙齢の淑女たちがあふれるホールの中、あの若い女性が一人で空腹に耐えているのは可哀想だった。
「ある時に人からこんな店があると聞いて、試しに連れてきてみた。あの人は普通の家の出でね。一緒になってから、思えば彼女が慣れた家庭料理、というものを食べてなかった」
「美味しかったですか?」
「ああ。とても。それに妻は綺麗に食べてくれたよ。それが嬉しくってね」
妻、という彼の声は優しい。そして彼は照れるようにわらった。
「……まるで過保護だろう」
「分かります。食べ盛りの人には、沢山食べさせてあげたい」
膳子は机に並ぶ皿をみて、急いで冷凍庫をあけた。
今日のデザートは、ラムネ味とミルク味の2種シャーベットだ。
しかしその冷凍庫の奥には、濃厚ミルクのソフトクリームのストックもある。
毎晩ひっそり、膳子だけが楽しみで食べる秘密のおやつ。
「じゃあ食後のデザート。奥様だけソフトクリームにしますね。下に、スポンジもいれます。奥様、チョコレートもお好きですか?」
「ああ、大好物だ」
まるで子供のように、男の目が輝いた。
遠くで古時計が、カーンと音をたてる……それは22時の合図。店が閉店する音だ。
しかし今日は客たちの談笑が長く続いて終わる気配がない。
顔見知りが多いのか、ロビーやホールで輪になって、動かない。
キッチンの隅に腰かけて客がはけるのを待つ膳子の体に、細い影が差した。
「あっ」
顔をあげればキッチンの扉の向こうに、一人の女性が立っている。
きれいなピンクのワンピースをまとう細い体が、キッチンの白い光の中に浮き上がって見えた。
膳子は思わず椅子から飛び降りて、姿勢を正す。
「……」
彼女は細い指で、仮面をのけた。その下には、はっと目を引くほど美しい顔がある。
とがった顎、少しつり目の瞳に、丸い唇。
モデルと言われても納得してしまう、そんな整った顔だ。
……それは、例の腹ぺこ若奥様なのである。
「あ……の。お口に合わないものがありましたか?」
膳子はコック帽をかぶりなおし、ゆるめていた襟をただす。
「私、シェフです」
目の前に現れた彼女は、高級そうなドレスを身にまとい、黄金色のヒールを履いている。
甘い香水の匂いに包まれて、そして……これ以上ないほど不機嫌な顔をしている。
「あなたがシェフ……?」
彼女が口を開いた。
そうっと、キッチンを見渡して、膳子を見る。その目が驚くように見開かれる。
「あの、なにか」
「そ……素朴だから、びっくりして……」
膳子の食事を完食し、ミニパフェさえも綺麗に食べ尽くしたその口が、震えるようにつぶやく。
膳子はうれしくなって、思わず一歩近づいた。
「お食事はいかがでしたか?」
「ええ……あの」
彼女はキッチンをじいっと見つめ、そして壁に貼られた一週間の献立表を凝視する。
明日はナポリタンに目玉焼き、かぼちゃのお味噌汁、デザートは桜餅のゼリー。
乱雑に殴り書いた文字が恥ずかしく、膳子はそっとそれを背で隠す。
「食べたいものがあれば、いってください。家庭料理ならだいたいつくれるから」
「このお店は、いつもこうなんですか?」
「こう、とは?」
「こんな……家庭料理ばかりで、こんな立派なお店なのに」
「ギャップに驚かれる人も多いみたいですね。でもまあ、そこは支配人の趣味といいますか……」
へら、と膳子は笑う。少なくとも、この瞬間まで膳子は彼女に優しい気持ちを抱いていた。
しかし次の瞬間、それは彼女によって打ち崩される。
「……ば……っかみたい」
彼女は膳子に向かって小さく吐き捨てると、ヒールの音も高らかに去っていく。残されたのは前よりも強いローズの香りだけ。
その向こうに、客たちの柔らかい談笑の声だけが響いている。