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美食倶楽部へようこそ  作者: みお(miobott)
クリスマスミートボールと最後の真実
32/34

4-8

「……とりあえずは成功、でいいんじゃないですかね」

 壁にもたれかかったまま、膳子がつぶやく。

「店としては、まあ及第点です」

 と、膳子のつぶやきを支配人が拾い上げ、嫌味たっぷりに返した。

「本当の目的の成果はまだ不明ですが」

 膳子たちの目前、賑やかな笑い声が通り過ぎていく。いつもは静かな店内のホールが、人で満ち満ち、熱気でシャンデリアが曇るほど。

 美食倶楽部初のイベントとしてみるなら、なかなか好調な出だしだった。

 


「にぎやかだねえ」

 小西が心底楽しそうに笑う。彼の手には、大きな皿が一枚載っていた。

 周囲を行き交う人々の手にも、皿。顔には仮面、時々仮装。

 ドレスに着ぐるみ、セーラー服まで恰好はまちまちだ。

 目元は隠れているものの、その雰囲気を見れば分かる。

(……皆、楽しんでる)

 客たちの持つ皿にてんこ盛りになっているのは、カリカリ焦げ目のついたウインナーにふんわり仕上げた卵焼き。鰹節と梅を塗り込んだ、一口サイズの焼きおにぎり。

 そしてぎりぎりで決まった、クリスマスミートボール。

 オープンから早1時間経つが、膳子がフル回転で作り上げたビュッフェ方式の料理は、容器の底が見えるほどに減っていた。

「料理も……喜んでもらえてよかった」

 膳子は思わず小声で漏らし、胸を押さえた。

 料理の腕には自信はある。口の肥えた母親の胃袋を掴んだ腕だ。

 が、結果は客の顔を見るまでは分からない。

 皿が運ばれ、客が噛みしめ、飲み込む。その瞬間が一番楽しみで、そして一番怖い。

「だって膳ちゃんのご飯、すごくすごく、おいしいんだもの。半日もなかったのに、ここまで作るのって、すごいことよ?」

 小西の賞賛の言葉に、膳子は胸を張って鼻を鳴らした。

「いやあ。緊急事態には慣れてるもんで」

「膳。ドレス姿のときは、もう少しおしとやかに」

 支配人は嫌味を言いながらも、常連のおばさまに嘘くさい笑顔を向けるサービスを忘れない。

「大人しくしてるじゃないですか」

「淑女は胸を張って腰に手を当てたりはしませんし、鼻も鳴らしません」

「お言葉ですが、紳士もそんな軟派な笑顔を振りまいたりしませんよ」

 うれしそうに騒ぐおばさまを横目に、膳子はため息をこらえる。

「あんまり皆さん楽しそうなので、目的を忘れそうになりますね、支配人」

 すべては計画のためなのだ。膳子は苦いものを飲み込む。

 減っていく料理も、おいしいという賛美の声も、楽しそうな笑顔も、なにもかも。

「……おや? 僕は一秒たりとも忘れていませんよ」

 支配人はとん、と机の端を叩く。

 その上に載っているのは、黒いデミグラスソースが光る保温器だ。中に入っていたミートボールはすでに空っぽ。

 ホールの照明を反射して輝くデミグラスソースを見つめて、支配人は目を細めた。

「これは全部計画の一部でしょう、膳」

 お客様へ一つずつ大きなミートボールを配り歩いたのは10分ほど前のことだ。

 真っ白な小皿の上に拳大ほどのミートボールを載せ、艶のあるドミグラスソースを仰々しくかけてみせると、大いに受けた。

 しかもこれはただのミートボールではない。ボールの中には宝に導くマーク入り。

 人参の型取りと同じマークが入った宝箱が、屋敷のどこかに隠されています。それは当店からのプレゼント……と、告知をすると店内はわっと沸いた。 

「……が。思った以上に人があちこちに動くので、見張りも難しい」

 支配人が口ひげに触れて唸る。

「効果絶大でしたね」

 宝探しゲームの開始を告げた瞬間、客は一斉に散らばった。

 ホールに、廊下はもちろん、わざと開放したいくつかの小部屋にも。

 皆、クリスマスミートボールから出てきた"秘密の暗号付きギフトボックス"を探すのに夢中だ。

 小西さえ、真っ黒なミートボールにかぶりつき、ぱっと顔を輝かせる。

「かりっとしてるのに中がふわふわでこのミートボール、おいしい! 僕、スペード!」

「ああ。子爵様、スペード箱を隠した場所はですね」

「言わないで」

 支配人の声を聞いて、小西が慌てて耳を塞ぐ。

「おまえはいっつも、そうやってお節介するんだから!」

 そして、小西はあっという間にへたくそなスキップで群衆の合間へと消えていった。

 どうも小西は計画をすっかり忘れているらしい。

「今のは支配人が悪いです。ああいうのは探すのが楽しいんですよ。無粋なことしちゃだめですよ」

 小西の背を眺めながら膳子が苦笑すれば、支配人はあきれたように眉をよせる。

「膳、うまくいくんですか。あなたの計画は」

「私の思ってる通りなら、おそらく」

 壁の花となった二人の前を、客たちが通り過ぎていく。

 一番良い接客とは、客に店員の存在を忘れさせることだ……と、どこかに書いてあったそんな言葉を思い出す。

 その言葉が本当なら、今の膳子と支配人は最高の店員だろう。

 二人の前を客は油断した顔で行き交っている。彼らは隠されたマークつきの箱を見つけては、声を上げて喜ぶ。さっそく箱を開けて喜ぶ人もいる。

 多くの声が混じり合うその場所に、甘い香りも交錯していた。

 それは、支配人愛用の……伯爵様の香水。

「客に香水をかけて……それで犯人を捜すとは、いったい」

 眉を寄せる支配人を無視して、膳子はふと、目を閉じた。

 息を吸い込むと、甘い香りが体中いっぱいに広がる。

 客の入店時、入り口で一人一吹きの香水をつけさせて貰ったのだ。

 ごく薄く、さりげないほどの淡い香り。

 全員がつければ、匂いは混じり合い、すっかり鼻に慣れてしまう。

 ……おそらく、膳子以外は。


「……動いた」


 甘い香りの中に、かすかに濁った匂いを感じとり、膳子はドレスのスカートをつまみあげる。

 壁から離れ、客の合間をすり抜け、廊下の向こうを睨む。

 広い廊下には、宝探し中の客で満ちていた。

 廊下の最奥には右に折れる曲がり角がある。

 そこを曲がればキッチンに繋がる廊下になるのだが、今は角に立ち入り禁止の看板を立ててあった。

 もし、立入禁止の看板を越えて角を曲がれば……。

(……例の扉)

 キッチンに向かう廊下の壁に、例の隠し扉がある。

 大勢の人の目がある中で、目的もなく立入禁止の看板を越えていく人間は少ない。

 とはいえ、好奇心の強い客が一人二人、入り込むことくらいは想定済みだ。

 それでも、壁に擬した扉の存在に気づく確率は相当低い。

(……その場所に扉があると分かって……しかも、そこを開くような人間は)

 犯人以外、存在しないのである。

「……よし」

 膳子は手の中のスマホをちらりと見つめた。まるで膳子がスマホを見たのに気づいたように、ぶるりと震える。

 すずのおと。

 短い一文を見て、膳子は小さく頷いた。

「久保田さんからも連絡来ました。確定です」

「何がです。説明しなさい、何を勝手に僕を仲間外れにして……膳」

 看板をするりと抜けて、膳子は冷たい壁に背をつけて立ち止まる。

 廊下の角を曲がる、それだけで空気が一変した。

 立入禁止看板より向こうは電気を落としてあり、薄暗い。暖房も切っているので冷え切った空気だけが停滞している。

「膳……あれは?」

 支配人が声を潜め、膳子の腕を掴む。二人でそっと角からその先を覗いてみれば……。

 一見何もなさそうな壁を男たちが見つめている。1人、2人、3人……4名。

「あいつらだ」

 膳子は手で口を覆って、支配人を見上げる。

「……あれ、4名のボンボン連中ですよ」

 仮面をつけた男たちの顔に、膳子は見覚えがあった。

 派手な女を引き連れて、春には支配人に追い出されていたグループだ。

 それでもこの店に週に一度は現れていた……そんな彼らが今、壁を前に何事か囁きあっている。

 彼らの前、壁が不自然にずれていた。

 壁にしか見えないそこを引っ張れば、扉が開く。おっかなびっくり顔を突っ込み、大きなくしゃみを一回。彼らは慌てたように口を抑える。

 やがて周囲の様子をうかがい、用心しいしい彼らはゆっくり扉の中に吸い込まれた。

 足下には履き慣れない雰囲気の、おろしたてのスニーカー。

「膳、本当に彼らが?」

 彼らが中に入ったのを見て、膳子たちも扉の前へ急ぐ。

「おじいちゃんに頼んで少しだけ、扉を開けて貰ってました。全部開くと怪しまれるし違う人が入る可能性もあるので……ほんの少しだけ」

 ここの扉は完全に閉まってしまうと壁にしか見えなくなる。彼らも今日開けられなければ、日を改めてしまうかもしれない。

 そこで、小西に依頼して扉を少しだけ開けてもらったのだ。

 その罠に、お馬鹿な四人組はまんまと引っかかった。

 冷たい空気の中、少し苦味のある甘い香りだけが残されている。扉に耳を当てれば、足音が遠ざかっていく。

 それを聞いて、膳子は素早くスマホに指を当てた。

 作戦決行。

 決めておいたその四文字の送り主は久保田である。

「膳、久保田君はどこに」

「先に中に入ってもらってます。細い糸を扉に付けて……扉が動いたら先につけた鈴が鳴る。で、誰かが入ってきたことが分かるという寸法です」

 静路から聞いた絹糸、がヒントになった。

 しかし絹糸などあるわけがないので、代打はチャーシューを縛るタコ糸だ。それでも立派に仕事はこなしてくれる。

「あの人たちが……まさか、泥棒ですか」

「これまでの、ガラス割ったり警報機を鳴らしたり……の、全部が彼らの犯行かは不明ですが。少なくとも昨日私たちを襲ったのは彼らでしょうね。スニーカーが同じでしたから」

「しかし膳、ここの扉の向こうは」

 珍しく歯切れの悪い支配人を見上げ、膳子は目を細めた。

「迷路、でしょ?」

「僕も全部は知らないんです。ここは危ないと、伯爵様はそう言って……ここは……狭くて暗いので」

 言いよどむ支配人の言葉に違和感を覚え、膳子は首を傾げる。

「おや、支配人。狭いところはお嫌いで?」

「狭くて暗い場所を忌避するのは人間としての本能です。伯爵様はお得意でしたが、しかし僕は」

「その伯爵様が道を教えてくれます」

 扉の隙間に指を差し込み、そっと引く。のぞけば、そこは暗闇だ。先に入った男たちの声は消えた。

 が、耳を澄ませればどこか遠くで扉のきしむ音が聞こえる。

 ……それと、甘い匂いも。

「この香水には少し変わった特性があって。緊張が高まると、匂いが濃くなるんです」

 膳子は目を閉じる。息を吸い込む。

「加えて、このお屋敷の中だと……匂いがすごく、わかりやすい」

 闇の中にまるで一本の道ができるようだ。彼らの進んだ道のりが、香りとともに浮かんでくる。 

「香りの道ができる」

 そうつぶやくと、支配人は唖然と膳子をみた。

「そんな、膳。無理ですよ、匂いなんかで……ここは暗くて」

「本当は事前に中を確認したかったんですが、時間無かったでしょ。だから一発勝負」

 そんな支配人を無視して膳子はキッチンに駆け込むと、大急ぎでドレスを脱ぐ。

 精一杯、丁寧に……できるだけ。

 ドレスを手早く畳み、ハイヒールを脱ぎ捨て、体にまとったのは着慣れたコック服、そして足に馴染むシューズ。

「こっちのほうが断然、動きやすいです」

 膳子は指先で口紅を拭い落とすと、笑う。

「シェフですから」

「膳」

「警察入れたくないんでしょ? じゃあここに連絡、お願いします。私の名前出してくれたら、必ず飛んできてくれます」

 扉に体を押し込みながら、膳子はポケットから一枚の名詞を取り出した。

 くしゃくしゃになったそれは、長らく財布の中に押し込んでいたものだ。

 警部補、と書かれた堅苦しい文字と、鬼瓦。という嘘みたいな名前の羅列。

 もう警部になったんだったかな。などと思いながら、膳子はシューズの紐を締め直す。

「そういえば支配人、さっき、なんで私が高校やめたか聞いたでしょ」

 迷路から漂う冷たい空気を吸い込んで、膳子は目を閉じる。

 静路の言うとおり、ここは隠された迷路だったはずだ。もう何十年も。

 カビの匂いに冷えきった空気。この空気は膳子の記憶を揺さぶった。

 それは膳子が高校三年の冬の記憶だ。ひどく冷たい風と、雪まじりの雨が吹いていた。

「クラスでいじめがあったんですよ。結構えぐいいじめ受けてる子がクラスにいて」

 昼でも寒い空気の中で、一人の男子がよろめき、カビ臭い掃除道具入れに閉じこめられた。

 ……もう名字も覚えていない、気の弱いクラスメートだったと思う。

 彼は体の大きな男子生徒に肩を押され、蹴られ、踏まれた。抵抗する弱々しい手さえ笑いの、嘲りの対象になる。

 彼を閉じこめた掃除道具入れを男子生徒の一人が蹴り飛ばす。揺する、殴る。

 そして、だれかが「はる」と男子の名を呼んだ。馬鹿にするように、いたぶるように。

 名前を呼んでいるだけなのに、それは蔑みの行為になった。はる。はる。はる。

 合唱されるその名前は、膳子がこの世でもっとも愛する弟妹の一人、末晴と同じ呼び名であった。

「偶然、そのクラスメート、弟と同じ名前だったんですよね……で、まあ……ちょっとひと暴れというか」

 膳子は舌を出して肩をすくめて見せる。

 そのときの拳の痛みだとか、殴りつけたせいで発生した腕のしびれはすぐ忘れた。

 しん、と静まった教室の空気も、割とすぐに忘れた。

 母親が母親なら娘も娘だ。と吐き捨てる教師の声は、一晩で忘れた。

 実際、この頃は母はすでに家を出て、膳子も弟妹たちと引き離されたあとだった。

 その冷たさが、膳子の行動を過激化させたのは間違いない。

 ただ虚しさも、痛さも、腹立ちも全部忘れた。

 ただ学校を辞める決断をして、制服をゴミ箱に投げつけた。その時の手の冷たさだけを覚えている。

「それで学校を……? 膳は何も悪くないのでは」

「責任をとろうと思ったんですよ、子供なりに、一丁前に」

 何か事件でも起こせば、再び家族は一緒になれるかもしれない。そんな淡い期待があったのかもしれない。

 しかし母は膳子の行いを賞賛するためだけに現れて、また去った。弟妹たちは帰ってくることなく、膳子は一人で責任をとった。

「行動には責任が伴う。まあ中のボンボンにも、わかってもらいましょう」

「……膳」

「じゃ、行ってきます。支配人はほかの客をここに入れないようにして、接客お願いします。料理も、キッチンに第二段を用意してますから、いいタイミングで出してください」

「膳……」

「あ、そうだ。締めのカレー、一膳分残しておいてくださいね。体動かしたらきっとおなか空いちゃうから」

 珍しく動揺している支配人を見上げ、膳子は声を出して笑った。

「そうやってここで私のこと心配していてください。そしたら、清々して頑張れそうな気がするんで」

 膳子は息を吸い込み、扉に滑り込む。

 ……心地いいくらいの闇が、一気に膳子を包み込んだ。

 

 

 ここは迷路だぞ。と、そういった静路の言葉が痛いほどに膳子の中に響き渡る。

(なるほどこれは閉所恐怖症とか暗所恐怖症じゃ絶対無理だわ)

 天井は高いが左右は人一人分の横幅しかない。床はきしみ、壁はしっとり濡れている。

 壁は押すとかすかにたわんだ。崩れるかもしれない……膳子はそっと手を離す。

 その光源のなさといえば信じられないくらいで、真っ暗で手の先も見えないほどだ。スマホの光で地図を照らし、膳子は鼻を動かす。

「……教えてよ、伯爵様」

 こうなってしまえば視力など、なんの意味もない。目を閉じていても、香りが見える。

 例えるなら、薄桃色の柔らかな道だ。伯爵様はなんともおしゃれな贈り物をしてくれた。

「こっちの扉の鍵を閉めて、代わりにこっちを開ける」

 静路の記してくれた地図の通り扉の鍵を締め、別の扉を開ける。

「で……こっちの道に入れば先回りできる、と」 

 別の扉を開けてまっすぐ進めば、香りが後ろに流れていった。

 膳子は男たちをわざと追い越し、時に待ち、彼らを一つの場所へと誘導する。

(……おっと)

 耳をすませば、男たちの足音と不安そうなささやき声がすぐ近くに聞こえ、膳子は慌てて手近な扉に飛び込んだ。

 扉の向こう、いくつもの足音が通り過ぎていく。一度ノブを回されたが、膳子が鍵を閉める方が一瞬早かった。

 

「本当にここであってんのか」

「ここのはずだ」

「どこだよ、真っ暗で……」

「さっきから変な音が……」


 そんな声だけが、扉の前で響き、遠ざかっていく。足音は1つ、2つ、3つ、4つ……そしてあと一つ。

「ほら! やっぱり変な音がするって」

 一人が泣きそうな声をあげる。黙れ、と一人が怒鳴り、その声が余計に彼らを焦らせたらしい。

 どたばたと、焦るように駆け抜ける音が響く。一人がパニックになれば、それはあっという間に伝染する。

 彼らはすっかり迷路に翻弄されていた。

 それはそのはずだ。扉は多く、廊下の道のりは難解。

 戻ろうとしても先程通った場所に扉が現れ、戻れない。

 結果、今自分がどこにいるのかもわからない。

「もうやだよ……帰ろうよ」

「ばかっ。ここで戻ってどうすんだよ。絶対何か隠してるなら、ここだって。他の場所、無かっただろ!?」

「でも……」

 彼らが焦れば焦るほど、香りに苦いものがまじり始める。香りが強くなるほど、膳子は優位にたてる。

(あと一息)

 地図を見つめ、膳子は頷いた。彼らが通り過ぎた後の扉にしっかり鍵を閉める。

 さらに先回りして、そちらの鍵も閉める。

「だめだ、ここも鍵が閉まってる!」

「そっちは来た方だから、違う、こっちだ」

「さっき入ってきた扉、閉まってる!」

「気のせいだ、こっちだよ、こっち」

 焦る声はますます大きい。

 ……彼らは気づきもしないだろう。

(もう、すすめる道は一本だけだよ、ばーか) 

 膳子は心の中で舌を出す。そして最後の扉をそっと開いて扉の横に立った。

 やがて廊下の向こうに白い光が揺れるのが見えた。

 低い声と足音と……匂いが一段ときつくなる。

 膳子は拳に力を込めて、息を吸い込む。スマホについっと指を動かし、久保田に最後のメールを送った。

 どこかでスマホの震える音が響き、男たちは足を止める。

「おい、だれか今、スマホ鳴らなかったか……?」


「お客様、お席をお間違えではないですか?」


「え?」

 男たちは突然かけられた声に、驚いて身を固める。

 懐中電灯の光が膳子の足元に差し向けられる……やがてその光は暗がりに膳子の姿を浮かび上がらせた。

 彼らには見えただろう。にやりと笑って腕を組む、シェフの姿が。

 案外幼い顔の男たちが目を丸くする。何かを叫ぶ。

 全員の視線が膳子に釘付けになった瞬間、大柄な何かが男たちの背を思い切り押した。

 狭い廊下で後ろから押されたら、どうなるのかなど自明の理。

「……お席にご案内しますね」

 よろめいた男の腕を引き、膳子は開けておいた扉に押し込む。1人、2人、3人。そして。

「お前誰だっ」

「おっと」

 最後の一人は骨がある。膳子の手を振り払おうともがく……が、それだけだ。膳子の手はがっつりと、彼の腕を掴んだまま。

「こちとら毎日毎日重い食材と重い包丁持ってるんですよ、筋力舐めないでください」

 そうして膳子は最後の一人の背中を、思い切り扉の向こうに蹴り飛ばした。

 そこにあるのは小さな部屋だ……唯一の、どこにも抜けられない狭い部屋。

 そして唯一、外から鍵をかけられる秘密の部屋。

 ごん、と派手な音が聞こえたのは男たちが団子になって転んだのだろう。

 急いで鍵をかけようとして、手が震える。ぎゅっと拳を握りしめ、冷たいロックを掴んで右にまわす。

 かちゃん、と音が響き、同時にノブが激しく回った。扉の向こうから何かを叫ぶ声が聞こえる。

 ……が、もう扉は開かない。

「一丁上がり」

 膳子は長い息を吐く。こんなに冷えているのに、一気に汗が噴き出した。

 さらに心臓がうるさいほどに跳ね回る。

 しかし膳子はそれを押し隠し、スマホのライトを前に向けた。大きく深呼吸をして、笑顔をつくる。

「久保田さんも、おつかれ。さ、帰ろうか」

 膳子さあん、と情けない久保田の泣き声だけが真っ暗闇に響き渡った。

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