4-7
「おっと……?」
視界がぐにゃりと揺れて足が崩れる。
ほらみたことか。と、せせら笑う支配人の幻想が浮かんだ気がする。
「わ、わ、わ」
怪我をするよりそちらの方が深刻に屈辱だ……と、膳子は着慣れないドレスの袖をばたつかせる。
「何をしている」
……と、情けなくもがく膳子の腕を、誰かの冷たい手がしっかりと握りしめた。
枯れ木のような手が意外なほどの力で膳子の体を引っ張り上げて、キッチンの中に押し込んだ。
薄暗いキッチンの隅、意外に丁寧な手付きが膳子を椅子に座らせた。
膳子の前に長身が立ちふさがる……そして、その男は苛立つように杖で床を叩いた。
「重心を前に寄せすぎだ。全体にかけるようにしろ。大股で歩くのもだめだ。小さめの歩幅で。それくらいこなさなければ、淑女のマネごとはできんぞ」
「……そりゃまあ、急ごしらえだったもので」
半分脱げかけたハイヒールを指先でつまみあげ、膳子は彼を見上げる。
「ああ。金庫室の扉を開けてくれたのは、あなたでしたか」
体の線は細いくせに背が高いため、圧迫感がある。圧迫感は、目つきの鋭さのせいもあるかもしれないが。
「ねえ、伯爵様の弟さん」
膳子の目の前に、嫌みな老紳士……すなわち、伯爵様の弟が立っていた。
人は見えている一面がそのすべてではない……今日だけで痛いほど感じるようになったことである。
いらだちを隠しもせずに膳子に向かい合う男を見て、膳子は再度思う。
初めて彼を見たのは、春のことだ。確か彼はこの店に訪れて、支配人に体よく追い払われていた。
彼から声を掛けられたのは夏。煽るような言い様につられ、その時は思わず喧嘩腰になった。
しかし秋には気づいてしまった。
彼はお屋敷の主人である伯爵様の弟だということを。
「伯爵様……お兄さんからこのお屋敷以外の財産を受け継いだ、弟さん」
膳子は雑誌に書かれていた文字を思い出す。
兄から財産のほぼすべてを相続したくせに、執拗にこの屋敷をかぎ回っている。屋敷を継いだ支配人憎しの行動とそう思っていたが……。
彼は白い眉を不機嫌そうに歪ませる。
「なぜ私の正体が?」
「なにぶん、勘がいい小娘なもので」
不快感を隠しもしない男に向かって、膳子は嫌みな言葉を放つ。と、彼は苦虫でも噛み潰すような顔で膳子を見た。
「私が金庫室を開けたという証拠は? 理由もないだろう。私がおまえたちの探す犯人かもしれんぞ」
不機嫌だが、けして下品な顔はしていない……それもそのはずだ。身分だけなら美食倶楽部の客より相当上である。
「金持ちは喧嘩しないでしょ。あなたはここを見張っていて……助けてくれた」
「……偶然だ」
苦笑する膳子をみて、彼はあきらめたようにため息をついた。
「明日……もう今日だが……この屋敷に人を大量に呼び寄せる。そんなバカげたことをすると聞いて、何度も止めたがあの男は人の話を全く聞かん。だから昨晩、もう一回説得しようと来てみれば」
「……私たちがいなかった」
「散々探して、ようやく金庫の前で」
ぐったりと疲れたように彼は続ける。
「響くいびきが聞こえてね」
見つめられ、膳子は素知らぬ顔をする。弟たちにさんざん文句を言われた膳子のいびきも、時には案外役に立つ。
「これまでどこに籠もっていたんです? おじいちゃんが屋敷中、歩き回っていたのに。秋のときも思いましたけど、逃げ足は早いんですね」
「隠れるところなどいくらでも知ってる。この屋敷は、壁の裏のことまで全部わかっている」
彼は冷たい目で膳子を睨んだ。
こんな冷たい顔だが、週刊誌に載っていた伯爵の顔によく似ている。伯爵から笑顔をさっ引いて、もう少し苦労性を重ねさせると、きっとこんな顔になるのだろう。
「半年近く顔なじみでしたが、こうしてようやくしっかりお話ができるというわけですね」
膳子は足を組み、どっかりと椅子に座った。ドレスの裾がさっと広がり、扇のように揺れる。
乱雑に動くことを見越したデザインなのか、この薄暗いキッチンによく映えた。
膳子はキッチンの引き出しに隠しておいた、件の手紙を一枚取り出す。
「残念ですが、ここまでくれば今回の私達の計画は止められません」
数百回は目にした文面と地図。白い便箋を机に広げて、膳子はそれを叩く。
「そして開店まで時間もないので手短にいきましょう。手紙ご存じですよね。何なら届いてるはずです」
「こんな阿呆な手紙がきたのは、兄が亡くなってすぐのときだ」
彼は憎々しげに吐き捨てる。
「周りに聞いてみれば、あちこちに届いている。山田……あの男は、最初はこの屋敷を手放して隠居するなどと殊勝なことを言っていたが、手紙の存在を知って、急に態度をかえた。警察に行くよう、何度も説得したが……」
きっと支配人は彼の言葉をすげなく断ったのだろう、と膳子は思う。
膳子だってそうするはずだ。信じられるのは己の腕だけである。
「さらに気づけばこんな店を。馬鹿らしい。危ないだけだ。何を考えているのか……」
外から大勢の話し声が聞こえてくる。まるで波のように響く人々の声だ。普段静かな場所なので、その声はよけいに大きく聞こえる。
嫌な声ではない。
楽しみでわくわくと……店のオープンを今か今かと待ち受けている。そんな声。
男は声に驚くように、小窓を見つめた。
「で。あなたはそれを遠巻きに見守っていたと。そんな時に身元も怪しい私が店に入って、私のことを疑ってかかったと……まあ、分からなくもないですが」
膳子はべたべたと化粧の施された顔を撫でる。昔から表情筋が固い方なので、怪しまれても仕方がないとため息をつく。
「……で、私の疑いは晴れました?」
「まだ半分ほどだ」
「……あなたの言ってることも、間違いじゃなかった。私、ここを利用しようとしてたんです。お金をためて弟を助けないといけなかったから」
ぽつん、と水が水道管から垂れて銀のシンクに弾ける。
最近、水道管の締りがゆるい。修理して貰わないと……と考えて、膳子はとたんに寂しくなった。
この捕り物が終われば、店は閉まるのである。
(私の職は……多分大丈夫だけど)
膳子の人生はきっとこの先、問題ないはずだ。
人脈だけは無駄に多そうな支配人が、どこか良い店を紹介してくれる……危なくない、まっとうな、そんな職を。
そしてそこで膳子はまっとうに働き、貯金をためて、弟を迎える。計画通りだ。なんの問題もない。膳子の願いはきっと成就する。
(……でも、この屋敷は?)
壁に触れ、膳子は寂しさを飲み込む。
この屋敷と過ごせる時間は、刻一刻短くなっている。
誰がここの持ち主になるにせよ、今よりずっとお高くとまった、冷たい施設になるはずだ。
水道はなおしてもらえるだろう。しかし、伯爵様の空気を残すこの雰囲気は、消えてしまうに違いない。
それを伯爵様は望んでいるのだろうか。この屋敷は望んでいるのだろうか。
何より、支配人はそれを望んでいるのだろうか。
「でも、ここを助けたいのは本当の気持ちなんです。気に入らないと思うけど、今は私たちに任せてください。この……1日だけ」
お願い。と、手を合わせると、彼は驚くように目を丸めた。
「いま、外にばからしいほど客が来てるが、今回の計画は何なんだ?」
わ、と外で声が響いた。開店30分前に合図の風船を飛ばす、と支配人は数日前に言い出した……この馬鹿騒ぎの開幕が犯人に見えるように。
支配人は口にはしなかったが、空にいる伯爵へのメッセージでもあったのだろう。
今から、支配人は最後の勝負をかける。
その風船が飛んだのだ。
「ええと、今日の計画は……」
今日の計画を膳子聞いた男が不機嫌そうに白い眉を寄せた。
客を大量に屋敷に入れて、犯人を泳がせて捕まえる。
ばからしい。と、男の顔はそう物語っている。警察に任せた方がいい、と彼は繰り返し呟いた。
膳子だって、この店に入る前なら支配人を止めたに違いない。
しかし今は支配人の気持ちがよくわかるのだ。
……ここにバリケードテープの黄色と黒は似合わない。
「……勝算は? いや、勝算なんてあるわけないだろう、そんな馬鹿げた話」
男は頭を抱え、ため息をつく。
「五分五分……よりもちょっと悪いくらいですね」
「犯人がどこに現れるかわかっているのか。それに手紙を出した人間が泥棒とは限らんのだぞ」
「だから泥棒を捕まえるしかないんです。泥棒が手紙の差出人をゲロる……失礼、差出人について知ってることを祈るだけ。大半の部屋には鍵をかけました。かけてないのは一つ。私達を襲った男たちが目星をつけたと思われる扉です」
膳子は手紙に描かれたマップ、その一つを指さした。
それは、今朝、小西が見つけた壁の扉。
マップには、その先は描かれていない。扉だけだ。ほかの部屋は隠し部屋までしっかり描かれているというのに、その扉の向こうだけ空虚になっている。
「おそらく、この部屋」
「部屋……?」
内ポケットからルーペを取り出し、男は手紙をじっと見つめる。そして呆然と、つぶやいた。
「……ここは部屋ではない。迷路の入り口だ」
彼はあわてたようにポケットから万年筆を出すと、手紙の上に線をひく。
それは目を見張るほど美しい黒の線。
新しく描きたされたのは、壁の扉の向こうの詳細地図だ。
扉を開けると、目の前には廊下が現れる。前には進めず、進行方向は右か左かどちらかだけ。
「部屋ではない。扉を開けると、人がすれ違えないほどの狭い廊下に出る」
つまりこの扉の向こうは、廊下の真ん中だ。
「廊下はこう、続く」
彼は見た目以上の力強さで紙に線を付け足した。
廊下は、台所や大広間の壁の裏へ続く。時々大きくカーブするのはその手前に部屋があるからだろう。
「ここの壁、薄いと思ったら、奥に廊下があったんですね」
「ありの巣みたいな大迷路だよ、この裏は」
廊下の所々に扉があり、中に入ればもう一度廊下だ。一部の廊下はくるりと歩かされて最初の地点まで戻される。
「なんですかこれ……」
「英国のガーデン迷路みたいなものだ。それを屋敷の中に……正確には壁の裏側に再現した」
自慢そうに胸を張る男を見て、頭がおかしい、と膳子は失礼ながらそう思った。
「外から見て大きな建物なのに、中にはいると案外狭いなって思って……なるほど」
膳子は椅子に深く腰を落として額をおさえる。
「これじゃ屋敷の半分が迷路じゃないですか」
「なんだ。あの男からそんなことも聞いてないのか。この屋敷にはいろんなからくりがあることを」
とん、と彼はマップを叩いた。
「迷路の最終地点は、金庫室の裏。泥棒連中が扉の中に入れば入り口と最終地点の鍵を閉め、あとは警察を呼べばいい。逮捕の理由は山ほどあるだろう。入り口と出口。両方から追いつめればどこかで挟み撃ちできる。それでそいつらをじっくり叩けばいい」
「仮に」
書き足されたマップを見つめ、膳子は目を細める。ややこしい迷路だが、一本道ではない。中でぐるぐる渦巻のようになっている。
うまくやれば、中に入った人間のあとを追いかけ……先回りもできそうだ。
「……警察を呼びつける前に……“誰か”がこの中で泥棒を捕まえてふんじばっておく。なんてことをする場合、どうすれば?」
「は?」
仮にですよ。と、膳子はわざとほほえんでみせる。彼はしばらく迷うような顔を見せたが、やがてため息とともに万年筆を握り直した。
「……仮に……もし、泥棒たちの後を追いかけ、相手に気づかれずに先回りするという器用な真似が、その“誰か”にできるなら……可能だ」
「追いかけてどうするんです?」
「後を追いかけながら、時に先回りして、余計な扉をしめていく。やることは単純だが難しい。相手の場所を把握しなければできないことだ」
彼はいくつかの扉に×をつけた。
「で?」
「最終的に、この部屋に誘導する」
そして、一つの四角いマークを描く。
それは金庫室の少し先だ。
「ここは狭い小部屋で、出入り口は一つだけ。兄が……いつか泥棒が来ればここに追い込むのだといって、鍵を外からかけられるようにしてある。例えば左右から敵を追い詰めてここに追い立てて、外から鍵をかければ……」
「閉じ込めることができる」
膳子はマップを見て、呻いた。弟妹が多いので遊園地の迷路には通ったことがある。これまで見たどんな迷路より、これはずいぶんとややこしい。
「……ただこの通り迷路だ。真正面から鉢合う可能性もある。殴られでもすれば、助けは呼べない。力技で部屋に閉じ込めるのは……難しい仕事だ。まず無理だ」
「お宝ってやつ、ここにあると思ってましたが」
「あるものか。もうずいぶん前に閉じたきりだ。泥棒もおそらく、この地図に先が書かれていないのでここにあたりをつけたんだろう。ただの迷路だよ……ここの全てを知ってるのは私と兄しか……だからこの地図にも書かれていないんだろう」
案外子供っぽい顔をして、彼は薄くほほえむ。
「元々ここは、別荘のような場所でね。兄と私が父にねだってこんな改造を。しかしいつも兄のほうが先に迷路を抜けるんだ。私はそれが悔しくてね」
「勝てました?」
「そのために私も計画をたてた。腹立たしいが今、君が思いついたのと同じ計画だ。兄のベルトに絹糸を結んでね。兄の進む方向を探して、先回りして脅かして、部屋に閉じ込めて、その隙に迷路を抜けてやろうと……」
彼はマップを見つめ、愛おしそうに指でさする。
きい、とどこかで音が聞こえた。それは時々聞こえる謎の音だ。
古い屋敷なのでどこかがきしんでいるのだ。もしくは屋敷にありがちな幽霊現象だろう……などと勝手にそう思っていた。
しかし実際は、そうではない。
壁の向こうに、迷路があったのだ。すきま風が、扉を揺らしているのだ。
「結局、私が糸に絡まって転んで怪我をして、それでこの扉は壁紙で止められた。しかし計画は完璧だったんだ。糸以外で、もし相手を追いかける方法があれば……」
悔しがるような男の顔を見て、膳子は立ち上がる。迷路マップをつかんでドレスの袖に隠し、ハイヒールをはく。
「じゃあ、私がその積年の恨み晴らしてあげますよ」
……そろそろ時間だ。
伸びをする膳子を見上げ、男は訝しげに眉を寄せた。
「なぜ君は、関係ないここを助けようと?」
「困ってる人がいると、助けたくなる性分で」
外では久保田が膳子を呼ぶ声が響いている。足音が近づいてくる。
伯爵弟は渋々、といった顔で立ち上がった。
「面倒なことだな」
「面倒なことです」
彼はゆっくりとキッチンの扉からどこかへ向かう。言わないだけで、もっとあちこちに隠れる場所があるのに違いない。
その姿がどこかへ隠れる直前、膳子は彼に声をかけた。
「そうだ。あなたの名前は?」
名前を聞いたことに深い意味はない。確か伯爵の名前は五条灘瑞路だった。と膳子は思い出したのだ。
立ち止まった彼は、珍しく優しい顔で膳子を見る。
「……静路。五条灘、静路」
それは伯爵の名前から、柔らかさをさっ引いて思慮深さを足したような名前だった。
「遅いですよ、膳」
玄関に繋がるロビーにたどり着けば、完璧に用意を調えた支配人が苛立ちを押さえるように立っている。
その隣には、久保田と小西も並んでいた。
膳子は急いで駆け寄り、支配人の服を掴む。
「支配人、一つお願いが」
膳子は背をのばし、支配人に耳打ちした。
そして久保田も手招く。
「あと、久保田さんにも後でお願いが」
「私も?」
「膳子、これをどうするんですか」
膳子のお願いを聞いて支配人がもってきたのは手のひらに収まる程度の小瓶。
小瓶に鼻を近づけ、膳子はニヤリと笑う。
これは、この屋敷と最高に相性のいい……甘い香りの香水小瓶だ。
「これで犯人を追い詰めます……おっと、もう時間がないですね。説明は、あとで」
分厚い扉の向こうには開店を待ちわびる客の声が、波のように揺れている。楽しみを凝縮したような声だ。
静路の言う“馬鹿なこと”をしなければ、聞くことのできなかった奇跡の声だ。
「また悪巧みを思いついたようですね。それはあとで……さあ。時間ですよ」
「膳ちゃん、真ん中に」
支配人が膳子の右手を掴み、小西が左手を掴んだ。
今日は色々な人に掴まれる日だ。
しかし、今日だけではない。
これまでも、高校生の膳子を拾い上げた店のオーナー、お店の女の子たち、そして支配人。膳子は様々な手に掴まれてここまで来た。
ならば、今度は膳子が誰かの手を掴み、誰かを引き上げる番である。
「……開店です」
支配人の声とともに、重い扉が開く。
真っ青な青空の下、白い息を吐き出す大勢のお客様が、そこにいた。




