1-3
夜の22時ちょうどを刻むと、置かれた置き時計が再び綺麗な音を響かせた。
その音と同時に、この店は閉店となる。
相変わらず支配人は大げさに客を見送り、客達は満足そうに去って行く。
扉の向こうの道には、黒塗りの車が何台も止まっていた。
ここに訪れる客はいわゆる「そういう層」だ。と、膳子は理解している。
ハイヤーでのお出迎え。ドレスにアクセサリーは最高級品。
最高級が何たるかを知っている、トップクラスのお金持ち……あるいは悪いことをしているお金持ち。
(今日も大仰なことで)
膳子は隠し窓から廊下を覗いて、苦笑を漏らした。
そこに並ぶのは、庶民の膳子からすれば縁のない人々だ。
高級を身にまとう人々の群れは、車のエンジン音ともに消えていく。
同時に店内に流れるクラシックはピタリと止まる。
表のライトも、ホールの電気も落とされる。ワインレッドの絨毯は、夜の闇が溶け込んで濃い赤となる。
音楽も人のさざめく声も、食器の触れる音も、何もない。
全部、全部、静かだ。
アンティークを煮こごりにしたような建物に、ようやく静寂が訪れた。
その静かな音に耳を傾け、膳子は長い長いため息をつくのである。
(お疲れさまでした)
膳子はこの瞬間が好きである。
一日を振り返り、自分の作った料理を思い出す。その時間が何より好きだった。
(オムライスはとろとろで良い半熟具合だし、唐揚げも味が染み込んでサクサクだった。唐揚げのソース、やっぱりマヨネーズにニンニクのすりおろし入れたの、正解だったな。エビグラタンもアツアツのとろとろで……ああ、でもお子様ランチっていうなら、オムライスに旗でもつければよかったかも)
そして、放り出されたままになっている夕刊をぺらりとめくる。
乾いた新聞紙を怠惰にめくる時、一日が終わったな。と思えるのだ。
(……今日も平和なことで)
オショク ダンゴウ ワイロ。そして空き巣強盗。そんな不穏な見出しの間に、桜の開花予想の文字が並ぶ。
春だな、と膳子はぼんやりと思った。
「……膳」
仕事終わりの心地よい疲労感を邪魔をしたのは、支配人の冷たい声だ。
「今日も料理がギリギリでしたねえ。間に合ったからよかったものの……」
「はあ」
膳子は体を起こしながら、あくびを噛み殺す。
シンクの上、山積みの乳白色のボーンチャイナの皿が現れるのを待っている。
まだ膳子の仕事は終わりではないのだ。彼の嫌味を聞いている時間はない。
「打ち合わせの時間通りでしたけど?」
「僕の時計は狂ったことがないのが自慢なんですけどね」
支配人は壁にもたれた恰好のまま、膳子を睨む。
膳子は背が低く支配人は高い。184センチ、と聞いたことがある。60歳近い年齢でこの身長は珍しい。足も長く、いやみったらしいくらい恵まれた体格だ。
だからこんなふうに、上から睨まれるとひどく圧迫感があった。
「さあ……私は時計しないので、わかんないですね」
膳子は愛想笑いを浮かべて、そろりそろりとその場から逃げようとした。
しかし襟首を掴まれ、きゅう。と情けない声を上げてしまう。
「最初のオムライスが出るタイミング、予定より30秒遅かった。タイミングについては、事前にきちんと打ち合わせしましたよね」
「30秒なんて町の定食屋でも気にしないレベルです……まあ支配人は町の定食屋なんてご存じないでしょうけど? 一度視察を兼ねて見学に行かれてはいかがです?」
「おしゃべりは結構。僕がどれくらい冷や冷やしながら待っていたか、図太い膳には分からないようだ」
支配人の薄茶色の目が、膳子を見つめる。
感情の読めない目の色だ。こんな目をするとき、彼は大体怒っている。
だから膳子はごまかすように新聞を振ってみせた。
「それより支配人。空き巣強盗が多いらしいですよ。ほら、新聞に空き巣強盗集団が出てるって。ここも気をつけないとダメですねっ」
「……エビフライの予定がエビグラタンになってたのは、なぜでしょうねえ」
シンクの上に貼ってある今日のメニューを指で弾いて彼は目を細めた。
そして腰を曲げた膳子の襟を再び掴んで、
「逃げない」
と、いう。
この男、体格が良いだけではなく動きまで俊敏である。
「……だってあのオキャクサマ、揚げ物を出すと決まって衣を外して食べるから……だからグラタンにしました。衣がなきゃカロリー低いとでも思ってるんでしょ。グラタンなんてカロリーの爆弾なのに、あんな嬉しそうにバクバク食べて、見ました? あの顔」
意地悪く笑ってみせれば、支配人は呆れたように手を離す。
「まあ味は好評のようでしたが……でも、あなたは仕事を始めるのが遅すぎる」
「私、お客様のお顔見てから動く方がやる気になりますし」
「心構えのことを言ってるのです。お客様を迎えるのが僕の仕事なら、あなたは料理を作るのが仕事のはず」
膳子は皺の走った支配人の鼻の頭をぼうっと見上げる。続いて狭いキッチンを、くるりと見渡す。
磨かれたシンクに綺麗な料理道具。大きな冷蔵庫。食器棚の中、美術館のように並ぶ高級食器の数々。
……ここが膳子の職場である。
フレンチレストランならもう少しコンロの数がほしいところだが、この店なら十分。
この店で提供されるものは、名前に反して庶民的だ。
ハンバーグにオムライス、焼きそばにお好み焼き。時に筑前煮におにぎり、なんてこともある。
この店で出てくる料理は、よく言えば家庭料理。俗に言えば庶民の味。
お金持ちや成金様の面々が、食べたくても食べられない。「食べたい」なんて口にも出せない。
公然とは口にできない、密かに隠れて「庶民の味」を楽しみたい。
『庶民の味をレストランでいただける』、それがこの店のコンセプトだった。
仮面舞踏会のような恰好は滑稽で悪趣味だが、出てくる料理はどれも健全なものばかり。
紳士淑女による紹介式の会員制レストランであり、一日の来客数も最大10名までと絞られている。
だからこそ、膳子一人でキッチンは充分にまかなえる。
「仕事はしてますよ。ちゃんとね。味は悪くなかった。おいしかったでしょ? 私の作る料理はおいしいんですから、ちゃんと褒めてください」
膳子は胸を張って支配人を見上げる。彼は困ったように肩をすくめ、そして膳子の肩を軽く叩いた。
「確かに味はおいしい。手際もいい。さすがは高級料亭の元板前ですねえ。僕はずいぶん有能な子を拾ったようだ」
「あーっと……そういえば」
洗い物の山に向かい合ったまま、膳子は支配人を見上げる。
「そういえば?」
「……そういえば今日のお客さんに、若い女の人がいましたね」
「若い女性?」
「ほら、綺麗な女の人ですよ」
キッチンの小窓から覗き見したホールの中、膳子はちょっと珍しい人間を見かけたのである。
きらきら輝くホールのちょうど中央。
高級そうなスーツを着こなした男の隣に、ほっそりとした女性が座っていたのだ。
「顔はよく見えませんでしたけど、どう見てもあれ、20代前半か……下手すると10代じゃないですか?」
「なぜそう思います」
「今日のお客様。あの人達ともうひとりのオバサマ以外は常連さんでしょ。今日は嗅いだことのない甘い……あれはローズかな。若い子好みの匂いがしたんです。男性の匂いじゃないし、あのオバサマは支配人が手を取っただけで支配人に匂いが移るくらい、強烈な高級ブランドの香水の香りがしましたし」
膳子は皿をスポンジの泡でそっと撫でながら、言う。
最初はこんな高級皿、料理を盛るだけでも恐ろしかった。触れただけで法外な値段をふっかけられるのではないか、そんな恐怖におびえていた。
しかしここに勤めて数ヶ月。ようやく皿の扱いにも慣れてきた。
「だから、あの珍しい匂い……あの子の香水じゃないですか? じゃあ若い子だなって」
「ほう。あなたは鼻が利くんでしたね」
「匂いに敏感と言ってください。料理人のスキルの一つですよ」
彼女の隣に座る男は恰幅がよく、髪は真っ白で皮膚も弛んでいた。
父と娘……下手すると孫と祖父でも通る年の差である。しかし、二人の距離感は明らかに夫婦としてのそれだった。
「ちょっとこの店の客にしては珍しいな、と」
「珍しい……とは、お言葉ですね、膳」
「いえ、あの。この店ってジジババ……じゃなくって、貫禄のある人が昔懐かしいご飯を食べに来るお店かと思ってましたので」
「あのお若いマダムは銀行頭取の奥様ですよ……あ、膳。そのグラスは洗わなくて結構。少し古くなってますので……捨てましょう」
机の上に乗せられたグラスの一つをつまみ上げ、支配人が首を傾げる。
「膳。そのマダムに、気になることでも?」
長いその指を眺めながら、膳子は冷たい台に顎を乗せた。
桜の開花予想が出たところでまだまだ季節は冬に近く、おそらく今が一番寒い頃。
こんな肌寒い空気の中、年の離れた夫とともに庶民飯を食べる若い妻の心中を膳子は思う。
彼女は震える指でオムライスを食べていた。
唐揚げも、おそるおそる食べていた。仮面で目が隠されているので表情は掴めないが、どこかぎこちなく不自然な空気だった。
「政略結婚かなあ……」
膳子はぼんやりと、つぶやく。若い娘が年寄りと結婚するなど、それくらいしか浮かばない。
そして年寄と結婚する見返りといえば、おいしい食事と豪奢な生活だろう。
……少なくとも、奇妙な恰好でオムライスを食べるために結婚したわけではないはずだ。
可愛そうに、と膳子は思う。
「お客様の背景を探るような真似はやめなさい、はしたない」
お客様には絶対に見せないあきれ顔を顔に浮かべて、支配人はコートを羽織った。
「この店は勘ぐりは御法度ですよ」
彼が袖を通すのは、どこぞのブランド品。コートだけじゃない、腕時計だって靴だって完璧だ。
それにこの建物の管理費も安くは無いはずである。膳子へ支払われる給与だって破格だった。
膳子は支配人の背をまぶしく眺めながら、棚に積まれている野菜をなでる。
(綺麗で新鮮な、たまねぎにじゃがいもに、にんじん……)
メニューの割に食材も良い物がそろえられている。
食材の仕入れは昔なじみの店に任せているそうだが、金額はけしてケチらない。
そのくせ、店の料金は格安だった。
初めて料金表を見たとき、膳子はひっくり返るかと思った。
それを支配人に伝えても「フレンチや高級中華料理じゃないんですから」と、しれっと返したものである。
どのような収入源がこの美食倶楽部を支えているのか。
それとも支配人が悪い稼業でもしているのか。
膳子には分からないことばかりだ。秘密主義者の支配人は、膳子にプライベートの追求を許してくれない。
(言っても、まだ出会って三ヵ月だしな……)
膳子は冷蔵庫に下げられたカレンダーを横目に見つめてため息をつく。
膳子が支配人に……この美食倶楽部に雇われたのは、三ヶ月前の12月。クリスマス直前のこと。
新規開店の店です。と、支配人が語ったとおり、膳子がここに来た時、キッチンも道具もピカピカだった。
(しかもオープンは私の入った翌日、なんて今から思うと怪しいにも程がある)
予定していたシェフが逃げたのか、事故でもあったのか、このピカピカ眩しいキッチンにはコックどころか従業員一人居なかった。
呆然とする膳子に向かって支配人は「明日がオープン日なので、早速仕込みをお願いします」と、言い放ったのである。
キッチンは膳子。
ホールは支配人。
役割分担はシンプルすぎる。
事情を聞く間もなく慌ただしく深夜までリハーサルをこなし、翌日すぐに仕事がはじまった。
豪奢な内装をみて肝を潰した膳子だったが、提供する料理が全て家庭料理であると聞いて胸をなで下ろしたものだった。
唐揚げにハンバーグ。キャベツのサラダにお味噌汁。全部膳子の得意とするものだ。
膳子には弟妹が多い。彼ら彼女らの腹を満たしてきたのはいつも膳子の作るそんな食事だった。
「膳。今日はもう休んでいいですよ。明日のメニューはちゃんと頭にたたき込んでおくこと」
「ふぁ……はいっ」
欠伸を噛み殺し、慌てて膳子は背を正す。
ずれかけたコック帽を直す間に、支配人はすでに鞄とステッキを握り締めていた。
「支配人、もうお帰りですか?」
「ええ」
「ついでに送りましょうか?」
「結構」
黒の中折れハットを頭に乗せて、支配人は口髭を撫でる。
「そうやって、膳はすぐに僕のことを探ろうとする」
「ばれましたか。でも、ほら、ついでなので」
「ついでもなにも。あなたの家はここでしょう」
細い肩をすくめて、彼はステッキを振りながら背を向けた。
ステッキがキッチンの壁を叩く。そのむこうに10畳ほどの洋室があり、そこが今のところ膳子の家なのだ。
仕事とともに、膳子はこの男から家も与えられた。しかも支配人は毎晩どこかに帰っていくのだから、随分信用されたものである。
「戸締まりはお願いします」
「はいは……はい」
「で、膳。残りの約束は?」
「……他の部屋を探らないこと、金庫を開けないこと、夜中に不用意に窓を開けない、玄関を開けないこと」
「はい。結構です」
「金庫たって、あんなの飾りでしょう?」
膳子はレストランの一番奥にある金庫の扉を思い出しながら呟く。
それは銀行の地下金庫のような、壁にめり込んだタイプの金庫である。
周囲は青錆に変色しているが、もとは銀だったのだろう。
丸いレバーのような取っ手がついていて扉はいかにも分厚く、奇妙な威圧感で客席の真ん前に設置されている。
だから膳子は、ただのフェイクの扉だと……そう思っている。
「さて、どうでしょうね」
にこりと、珍しく支配人がほほえみを浮かべた。これ以上聞かれたくないとき、彼は必ず完璧な微笑みを浮かべる。
この笑顔で何人くらいの女性を虜にしたのだろう、と膳子は渋い顔で考えた。
(女泣かせとか、裏で名前ついてそう……)
しかし支配人は膳子の目線に気づくこと無く、帽子を手に取り軽く会釈。
「では、おやすみなさい」
「はぁい。おやすみなさい」
去り際まで完璧な角度で、彼は建物の闇に隠れていった。