4-3
「よかったぁああ」
「膳ちゃあん」
扉が開いた瞬間、膳子の耳に突き刺さったのはそんな叫び声の二重奏である。
「うわっ眩し!」
目を焼くような眩しさに膳子は思わず顔をかばう。
ホールの電飾はコウコウと輝き、地面や壁に乱反射している。そして白い光が膳子の目を突き刺したのだ。
薄暗い金庫室から出てきてすぐの目には拷問すぎる。
「お爺ちゃん!?……に……えっと」
扉の前に立つ福福しい影は、小西だ。
そして、その隣。もう一つ、背の高いその影は……。
「お久しぶりでございます、久保田でございます!」
しゃきん、と音がしそうな勢いで、体を90度に曲げたのは黒いスーツをまとった男。
「みなさま、ご無事でなによりでございます!」
爆音のような声も、その姿勢も覚えている……三條の執事である。
「膳ちゃん、膳ちゃん、怪我ない? 大丈夫だった? ひどいねえ、誰が閉じ込めたんだろうね、おじいちゃんがね、きっと犯人を見つけてあげるからね」
小西が金庫室に駆け込み、膳子の手を握った。
冬の温度を吸い込んだように冷たい手だ。
唐突なる救出劇に膳子は言葉を失った。その横で珍しく顔を真っ青にした支配人が飛び起きる。
「子爵様!?」
小西はよほど急いでここまで来たのだろう。寝間着の上にガウン、さらにその上にコート、マフラーをぐるぐる巻き。という恰好で、靴さえ履いていない。
それを見て、支配人が頭を抱える。
「朝で良いと……メールには書かせていただきましたが……」
「何言ってるの駄目に決まってるじゃない!」
まるで聞かん坊の子供を叱りつけるように、小西の目がきりりと上がる。
「メール見てね、すぐに運転手を起こして飛んできたの。そしたらこの人が、玄関の前でウロウロしてて」
小西が指差したのは、相変わらず90度に腰を曲げ続けている久保田だ。
彼の後ろには巨大なスーツケースが転がっている。おそらく焦って落としたのだろう。まだコロコロと、キャスターが回っていた。
「お屋敷の玄関は開いてるし、声をかけても誰もいないし、窓は壊れてるし……だからこの人と一緒に勝手に上がらせて貰ったんだけど……」
小西が太い眉をぎゅっと下げ、久保田は泣きそうな顔で膳子をみる。
「ぶ、不作法かとは思ったのですが、私がここに付いたとき、なにか……妙な方々がお屋敷から飛び出されて……もしや泥棒かと……そ、そうしたら、金庫の前に血、血が……」
彼はふるえる指で地面を指さす。
白い床には、派手に血が飛び散っていた。
駆け込んでこれを最初に目にすれば、膳子でも焦るに違いない。
「も、もし死体になってたら、どうしようって、わ……私、こわくて」
「それでここの扉、無理矢理こじ開けたんですか? 扉の暗証番号は子爵様にまだお伝えしていなかったはず……」
支配人が金庫の隣に立つ。その扉には、模様のような凹凸があり彼がそれに触れると、小さな音を立てて蓋が開いた。
中にあるのは、いかにも電子的なキーボードだ。
故障していないか何度も確認し、支配人は首をかしげる。
「たしか、5分くらい前に扉のキーが解除されるような音がしましたが……子爵様や久保田くんが開けられたのではなく?」
「いえ……扉、もう開いてましたけど……?」
「……っ! そういえば店は!?」
ぽかんと目を丸める久保田を押しのけ、支配人は一気に駆け出す。彼はホールの真ん中で足を止め、ぐるりと見渡す。
「膳、ホールは?」
支配人に言われるまでもない。膳子も立ち上がり、ホールに置かれた椅子と机を一つずつ触れて、軽く動かし、覗き込む。
テーブルセットは全部で10。
椅子も机も盗まれず壊されていないことに、ひとまずは安堵する。
「……一部倒れてますが、概ね無事です」
金庫室に近い机だけが一つ、横倒しになっていた。そのせいで、上に乗せておいたフォークなどのカトラリーが地面に落ちている……犯人がぶつかったのか、わざと落としたか。
そして床に落ちたテーブルクロスが踏みつけられ、黒い足跡が残っている。
(やっぱり犯人は素人か……)
白いテーブルクロスに残る足跡を見て、膳子は目を細めた。
今どき、ズブの素人でもこんな失態はおかさない。
なにもかもが複雑怪奇で、喉の奥に引っかかりを覚える。それは夏、三條から屋敷で起こっている事件を聞いて以来、ずっと続いている違和感である。
……忍び込んできた犯人は明らかな素人。
しかし裏で手紙を送った犯人は、慎重かつ大胆。
(どっちの犯人像も、違和感があるんだよなあ)
「膳、邪魔です」
室内を見て呻く膳子を支配人が押しのける。
彼は乱れた髪を直すことも忘れてあちこち飛び回り、確認していた。壊れていないか、なくなっていないか。
それは執事として当然の心配だろう。
しかしそれよりも……。
(すっかり美食倶楽部の支配人の顔、なんだよなあ)
吹き出しそうになる顔を叩き、膳子は眉をきゅっと上げる。
「膳、音響室は?」
「鍵、閉まってますから大丈夫です」
「キッチンは……」
支配人は年齢を思わせない俊敏さで、キッチンに駆け込んでいく。
「支配人」
……目的を達したら店、閉めるって言ったくせに。
追いかけながら膳子は思わず漏れそうな言葉を必死に飲み込んだ。
「膳……」
キッチンにたどり着いた膳子は、小さく息を呑んだ。
たった数時間前、このキッチンには美味しい香りの筑前煮と、混ぜご飯のための焼き鮭、ハンバーグだねが用意してあったはずである。
それが今、大半がひっくり返された姿でそこにある。
コンロに足をかけて上の棚を覗こうとしたのか、コンロの上の鍋は床に落ちて筑前煮が飛散。
机の下にある床下収納庫を秘密の扉とでも勘違いしたのか、机は蹴り飛ばされ、上に乗っていたハンバーグだね入りのボウルは哀れな姿で床に転がっている。
「……食事を床に落とすなんて許せない」
無残に床に落ちた料理を見つめて、膳子はぎりりと歯を食いしばった。
「犯人が見つかったら、一人頭三発殴ります。ハンバーグと、焼き鮭と、筑前煮の分です」
「うち一発は僕に譲ってください……で、膳、食材は?」
膳子は冷蔵庫を覗き、床下の収納庫の扉を開く。
幸いなことに肉に野菜、乾物などは荒らされていなかった。
「大丈夫です。床に落とされた分は少し買い足さないとですが……その前に掃除して、片付けしないとキッチンが使い物にならないですね」
「ひどい……泥棒が入ったの?」
おずおず、と小西が膳子に声をかける。久保田はキッチンの惨状をみて、しゅんと肩を落とした。
「お屋敷から飛び出してきた人が犯人だったんでしょうか……私が捕まえておけばよかったですね」
散らかったキッチンは、人を暗い気持ちにさせるのだ。
小西も久保田も寂しい顔で、その惨状を見つめる……そしてもう一人、支配人も。
「……彼らは目的を達したんでしょうか」
あちこちを探っていた支配人がようやく足を止め、長い溜息をついた。
「それとも見つからず逃げた? どっちにしても、あれだけ大胆なことをして……もう一度来てくれるかどうか」
膳子は金庫室に閉じ込められていた時刻を逆算し、唸る。
時刻はまだ明け方にもなっていない。だというのに、犯人は久保田が来る前に逃げ出している。
目的のものを見つけて逃げ出したか、彼らの中でなにか不測の事態が起きたかだ。
支配人は細い肩をすとんと落とし、力なく椅子にへたりこむ。
「1年にわたって罠を仕掛けて……こんな茶番劇まで用意して。犯人を待ち受けていたというのに」
「支配人」
膳子は拳を握りしめた。支配人の落胆が膳子に伝わる。
彼は伯爵様の死後、犯人逮捕にすべてをかけてきたのだ。
手紙をばらまいた犯人を見つけ出すのは困難だ。だがこれを信じて泥棒に入り込むバカがいれば、黒幕の姿がわかるかもしれない。
それは細い細い、頼りない蜘蛛の糸レベルの繋がりだ。しかし、それが唯一の繋がりでもある。
その繋がりはいま、ここで断ち切れた。
「どうしちゃったの。二人とも……泥棒さん、逃がしたのが悔しいの?」
小西が気遣うように支配人と膳子の顔を覗き込む。
「でもまた来るんじゃない?」
のんきな小西の声に、支配人と膳子、二人が同時に顔をあげた。
「おじいちゃん?」
「ここのお屋敷ってね、いーっぱい、隠し扉があるじゃない? それね、開け方にこつがあるのね。一生懸命開けようとした跡はあったけど……今調べたら一個も開いてなくってね」
小西は相変わらず布袋様のような笑みを浮かべ、膳子たちを廊下に誘い出した。
「昔ね、伯爵様は言ってたの」
彼は何もない壁を撫でる。
赤色の壁紙が貼られたなんてことない、壁だ。しかし足元には幾度も蹴ったような跡が残っている。壁には爪を立てたような跡も。
「ここをね……」
小西は地面に座り込み、壁を三度、叩く。
……何もない壁がカタリと動き、まるで魔法のように薄い扉が出現した。
「開きそうで開かない扉、よそからは見えない扉。どれも魅力的でしょう?」
小西は満足そうに胸を張り、にまりと微笑む。
「すごく魅力的だから、開けそこなった泥棒はきっと二度来るよって」
支配人は小西を押し退け、扉の向こうをのぞき込んだ。
そこは真っ暗で……狭い部屋である。
カビの香りと、埃のにおい。数年分の年月が閉じ込められたにおいだ。
膳子はくらくらする頭を押さえる。どうにも金持ちの考えることはよくわからない。
「……こんな部屋がまだいっぱいあるってこと?」
「そうよ。ここはハズレの部屋って呼んでたの。ほら、どん詰まりで何もないでしょ。でもほかの部屋に繋がる部屋とか、暖炉から奥にいける部屋なんかもあってね。昔はねえ、クリスマスとか誕生日にね、色んな部屋にお菓子を隠して、みんなで探検ごっこをしたんだよ」
「子爵様。それは本当ですか」
支配人の白い額にほどけた前髪がはらりと落ちる。
恰好を気遣う彼にしては珍しい。
「お前だってお部屋いっぱいあるのはよく知ってるでしょ? 一緒に探検したじゃない」
「泥棒は二度来る、のほうです」
しかし支配人の目はらんらんと輝いて、まるで獣のようだ。
……まだ、彼の目はあきらめていない。
「そうねえ……」
小西はきょろきょろとあたりを探ると、廊下の一角で足を止める。
「久保田くん、これなんだとおもう?」
「テープ……にみえます」
「推理小説でありがちだよね。テープとか髪の毛とめておいて、誰かが開けないか確認するの。犯人のマーキング」
小西の横に並んで腰を落とせば、彼の言う通り、壁には不自然な位置にテープが貼られている。
他の場所より、ここが一番足跡の数が多い。
「ここにも隠し扉があるって、なんで泥棒さんわかったんだろうね」
……開けようとしたが、開かなかった。テープに触れ、膳子は支配人を見上げる。
「膳」
支配人の視線が交錯し、やがて同時に頷いた。
「……もう一回、来る」
同時に言葉を放ち、膳子は勢いよく立ち上がる。
「ぜんっぜん、終わってないですよ、支配人」
「片付けをして、料理の準備です。間に合いますね、膳」
「了解です……が、支配人。腹が減っては戦はできぬです」
ぴん、と手を挙げ膳子は支配人を見た。怒りと焦りと全てがごちゃまぜとなって、最後に襲ってきたのは空腹である。
同じく空腹だったと思われる支配人も、その感覚を思い出したように忌々しく呻く。
「膳、何か作りなさい」
「無理だって言ってるでしょ。この惨状で。ああ、そうだ夜鳴きそばかってきます」
「よなき……?」
時計はカチコチ音を立てて進む。すでに時刻は4時半だ。のんびりしていると、昼の用意に間に合わない。
膳子は皆の回答を待たず、屋敷を飛び出す。真冬の痛いくらいの風が膳子の顔を殴りつけ、体の芯が一気に冷えた。
冬の空気は特別だ。空気や風が容赦なく人の体に突き刺さる。この時刻は海の方から風が吹き上げ、潮っ気の混じった空気が余計に冷たい。
しかし気にせず、膳子は駆ける、駆ける。
振り返れば赤レンガの建物は、いつものようにそこにあった。
12月の明け方。まだ光もない闇に照らされたその中では、支配人が血を流しているしキッチンはぐちゃぐちゃ。ホールだって荒らされた。
それでも、勝てる。膳子はなぜかそんな気がする。
「大丈夫、守ってあげるから」
膳子が駆け出したのは坂の下、公園のそば。
公園入口の隅っこに今時珍しいリヤカー式の屋台を見つけて、膳子は全速力ですがりつく。
「よかった! 間に合った」
表に釣った赤ちょうちんはもう光が落ちているが、油の染みた暖簾の向こうにはまだオレンジ色の照明が灯っている。
使い込まれた寸胴鍋には煮詰まった黒い色が揺れ、隣の大きな鍋には濁った湯がグツグツと沸いていた。
黄色の中華麺がザルに打ち上げられ、冬の空気に揺れている。いち、に、さん……と残りの麺の数を数えて膳子はにまりと笑う。
「おじさん、夜鳴きそば、4つ!」
脂っこい湯気の向こう、馴染みのおじさんが歯欠けの笑顔を見せてくれた。




