3-8
「ああ、膳……いつからこの店は深夜営業を?」
玄関の扉が開き、革靴の音が高らかに響く。
「事前に言ってくださらないと、もてなしができないじゃないですか」
キザっぽいポーズの支配人がホールを覗き込んだのは、深夜3時半を過ぎた頃のことである。
「遅いお越しですね。これ本当の泥棒だったら私今頃、死体で転がされてますよ」
今更ジタバタしても始まらない。膳子は胸を張って支配人を出迎える。
今、ホールの床にだらしなく転がっているのは、少年たちである。彼らは子供らしい勢いでカレーをがっつくと、満足したように床に寝転がってしまった。止める間もない。
実際、子供というのはどこででも眠れるものである。膳子にも身に覚えがある。
余っている毛布を取り出して彼らにかけて、うつらうつらと船をこぐ琴原を膳子のベッドに案内した……そのタイミングで支配人が戻ったのだ。
「今夜は用事があると言ったでしょう。終わって通知を見て飛んできたんですよ……それにあなたが倒されるもんですか。もし泥棒が入っていたら、転がってるのは泥棒の死体でしょう」
支配人はホールを見渡して、物言いたげに膳子を見る。
「さて、膳」
ホールにはカレーの詰まった鍋に、すっかり空っぽになった皿。スプーン、コップ……そして眠る子どもたち。
どこから説明するべきか。と、迷う膳子だったが、その前に支配人がふと動いた。
彼が見たのは、机の上の鍋だ。ぬるくなった鍋には、まだ半分ほどのカレーが残っている。
支配人は手袋を脱ぎ、じっと鍋を見る。匂いをかぎ、混ぜる。
ふんわりと、カレーが香る。カレーの匂いだけは特別だ。悲しいときも苦しいときも、この匂いに人は惹かれる。
「懐かしいな」
ふと、支配人が微笑んだ。その顔を、膳子は覚えている。
「膳のカレーだ」
11ヶ月前の雨の日、支配人はワゴンカレーを無言で食べた。あの時と同じ顔だ。
「これ、私の月に一度のお楽しみの夜食カレーなんですよね。野菜の屑だとか豚の脂だとか鶏皮だとか……色々取っておいて、月に一回、ひそかにカレーを作るんです」
「そんなことしてたんですか」
「だめですか?」
「そういうときは呼びなさい」
支配人はこうみえて、健啖家だ。彼は自然な動作で空いた椅子に座ると、じっと膳子を見る。
サーブされる直前の、客の顔をして。
だから膳子もすべての説明を飲み込んで、コンロに火をともす。
「御飯の量は?」
「大盛りで」
支配人はすまし顔のまま、机を指先で叩く。
「では、お願いできますか?」
やっぱり今宵はお客様が多すぎる、と膳子は苦笑を押し隠した。
「……で。膳は何をどこまで知りました?」
支配人は、眠る子供たちをちらりと横目に眺めてそんなことをいう。
膳子が今宵の経緯を語り終えるまでに、2杯のカレーをぺろりと平らげた支配人である。ぎりぎり一人分しか残らなかった特製カレーを恨めしげに見つめ、膳子はため息を漏らす。
それと同時に、末晴の寝言がきらびやかなホールに響いた。
綺麗な机と椅子の合間に転がる子どもたちは不思議な光景だ。電気を半分落としたホールは、金庫だけがきらきらと輝いていた。
「……私も、何をどこまで知っているのか自信がありません」
深い皿にご飯とカレーをよそって、大きく一口。炒めて冷凍した野菜は香ばしく、とろりと深みのある味が口の中いっぱいに広がる。
肉なんてかけら程度しか入っていないというのに、豚油の香りが鼻を抜けて幸せのため息を漏らす。ラー油のぴりりとした重い辛さがいいアクセントになっていた。
ひどい一日だが、カレーに救われた、そんな気がする。
「ここじゃあれですから、場所を変えましょう。支配人」
膳子はカレーを平らげると廊下に出た。秋の明け方、廊下は恐ろしく冷え込む。
ここに初めてきた12月、室内が凍りついているのではないかと思うくらい冷え込んでいたことを思い出す。
そんな冷え冷えとした廊下の奥。壁紙に擬態した壁、膳子はそこを指差す。
「そこの扉が開いてました。私に見せたいのかと思って、入っちゃいましたけど」
「安全装置が外れたんですね」
支配人は、薄く開いた扉をそっと押した。
中に入るとやはり、香水の残り香と……支配人の活動の痕跡。
「……で、ここに入って初めて知りました。支配人も手紙のこと、探ってるんだって」
「膳。手紙のことは、どこで?」
「三條のお嬢様から」
その名前を出すと、支配人の頬のあたりがかすかに揺れる。が、それだけだ。ポーカーフェイスがお得意な支配人を驚かせるには、この程度では全然足りない。
「なるほど? それで僕に内緒で色々調べていた……と」
「この屋敷が狙われているらしい。差出人は不明らしい。私が聞いたのはそれだけです。そもそも情報量が少なすぎますし」
ガラスの棚に詰まっているのは、支配人の努力の結果だ。膳子は到底、ここまでたどり着けてもいない。
「素人探偵じゃ、この屋敷が伯爵様の持ち物だったというくらいしかわかりません。変わり者の伯爵様が数年前に亡くなったことと、その財産も権利も弟に譲られていたこと。残されたのはこの建物くらい。せいぜいインターネットで拾える情報くらいしか出てきませんし、そもそもネットには手紙のことなんてどこにも載ってない。お手上げです」
椅子に浅く腰を落とし、膳子は手を挙げる。
「支配人。一人より二人のほうが、考えがまとまると思いますけど?」
「あまり時間がないもので、相棒は必要ありません」
「時間がないならなおのこと、腹を割って話し合いませんか、支配人。秘密はなしにして」
気難しく眉を寄せる支配人の顔を覗き込み、膳子はにやりと笑った。
「支配人が何をして、何を探っているのか……誕生日プレゼント代わりに教えてくれませんか。私、今日、誕生日なんですよね」
支配人は椅子に腰を落として足を組んだまま。やがて迷うように手袋の端を軽く噛む。
「膳だって僕に黙ってたことがあったじゃないですか」
「そんなこと……」
「弟さん……ご兄弟がいるなんて、知りませんでした。あなたの戸籍には載っていなかったようですがね。あなたのお母様の戸籍まで調べるべきでしたか?」
支配人の目線は、扉を越えて廊下を抜け、その向こう。ホールに向けられる。そこには、眠る弟がいるのだ。可愛くて仕方のない、膳子の、大事な……。
苦い味を飲み込む。言われてみれば、膳子にだって秘密はあるのだ。秘密を聞くなら秘密を差し出さなければ、フェアではない。
腕を広げ、膳子は息を吐く。
「父親の違う弟と妹がいます。あの子は……今の所の末っ子です。でも、それは母の貞操観念で、私の問題じゃないです。勝手に戸籍を覗かないでください」
「このような状況ですので、致し方なく……まず味方を疑うのがセオリーでしょう?」
彼はガラスの棚の奥から便箋を取り出す。その数、10枚。更に机の引き出しから、束になった便箋……そしてかばんからも、数枚の便箋が現れる。
今宵彼はなにか用事がある、といっていた。用事があると言ってはよく姿を消す人だった。
魔法のように便箋を取り出す彼の細長い指先を見つめ、膳子は息を飲んだ。なんと秘密主義なボスもあったものだ。
「あと数枚ここに……」
膳子は後ろポケットにねじ込んであった白い便箋を掴んで支配人に見せつける。琴原から預かったものである。
しかし琴原の名前を出すのはどうにも気が引ける。膳子はごまかすように咳払いをしてみせた。
「えっと。今日、窓の外に放り出されてて……犯人が戻しに来たんじゃないですかね」
……が、彼は目を細めただけだ。
「それはフェイクですよ」
「フェイク?」
支配人は膳子の持つ便箋を破り捨て、肩をすくめる。
「ミステリー小説によくあるでしょう。犯人をおびき出す餌。僕が作りました。引っかかったのは小物でしたけどね」
「ミステリー小説なんて読むんですか?」
「ここの主人が大層お好きで、つられて何冊か」
机の上に並んだ便箋は、書かれている内容に反して美しく白い。
内容といえば同じ文面、通し番号。支配人はこれを穴が空くほど見たに違いない。憎々しげに便箋を睨み彼はため息を抑える。
「事情のありそうなあなたなら、妙な勘ぐりを起こさないと、そう思ってたんですけどね」
「……支配人、いつからこのことを?」
「最初から」
支配人の声は低い。
言いながら、引き出しの奥から一枚、クリアファイルを取り出す。中に収まっていたのは、便箋だ。それには001/100の刻印が刻まれている。
「最初の一枚目です。伯爵の葬式を終えてしばらくしたあと……屋敷の中で見つけました」
支配人は手慣れた様子で便箋を並べる。
詳細にこの店の地図が描かれ、なかには宝が眠るという文面つき。
ファンタジーの世界であれば宝の地図として、冒険に色を添えてくれる存在になるのだろうが、現代で実践すればただの不法侵入だ。
「それで店を? 危ないじゃないですか。警察に通報でもなんでもして、見張ってもらうか……」
「何時来るかわからない、こんな子供だましの手紙を見せて、パトロールを依頼するんですか? 一応相談しましたが、ここを手放して国に管理を任せろと、それだけですよ。それに、泥棒なんて正直、どうでもいい」
支配人は細い目で、膳子を見る。それだけで膳子には彼の言いたいことが分かった。
問題はこの手紙につられて入ってくる泥棒ではない。
「誰がこれを作ったか……です」
支配人は手紙を指で弾く。
「それと犯人はなぜ、わざわざ郵送なんてしたのでしょうね。この手紙が届いた方々はいずれも上流階級ですので、誰もこんな下品なこと信用しません。そんなこと、わかりきってます」
差出人リストに書かれた名前は、膳子でも知っているほどの高額納税者に、政治家、有名人。
支配人はそれを指でなぞる。
「……ただ数を配れば一人くらい、興味を持ってここの屋敷に被害を与える人間が出るかもしれない。犯人はそれを楽しみに待ってる。いるかいないか分からない、何時来るかも分からない。そんな泥棒に僕はいつまで怯えなければならないんです?」
屋敷の門を閉ざして最高の警備をつける。それくらいのこと、支配人にならできたはずだ。24時間365日、見張り続ける。それも可能だろう。
しかし、気力はいつか尽きる。ひたすら続け待ち続けるだけというのは、精神をえぐる。
(伯爵が……亡くなってこの店ができるまで、一年)
膳子は支配人の冷たい横顔を見つめて、考える。
膳子がここに招かれたのは、支配人の一周忌のすぐあとのことだ。支配人が001の手紙を見つけたのは葬式のあと、と言っていた。
ならば彼は一年、耐えたのだ。じっと巣穴にこもる獣のように、ここで敵を待ち続け……そして心が折れた。
「差出人は、きっと屋敷を見張っている。泥棒が目的なのか、この屋敷を荒らすのが目的なのか、それとも僕を困らせたいだけか、それは不明ですが……なら、もっと見やすくするために、お招きすればいい」
……内にこもって怯えるくらいなら、こちらから打って出るほうがいい。なるほど、膳子が彼の立場でも同じことをしただろう。
「で、支配人はこんな奇天烈な店を? 内容は庶民派、什器は高級、で。シェフは私みたいな、よくわかりもしない人間を雇って?」
そもそも、お屋敷でレストランを……それも、ふざけたような店をやること自体、似合わない。
最初から不思議だったのだ。
なぜ、支配人がこんな素っ頓狂な店を始めたのか。
「店の内容は何だって良かったんですよ。それに什器は主人の趣味です」
支配人の切れ長の目が、膳子を見る。
「シェフはいい人間が見つからなかっただけです。この屋敷と縁遠く、偶然出会えるシェフ……と考えると、なかなか、いないでしょう?」
二人の出会いから、今でおよそ10ヵ月だ。出会った日を思い返せば、いつでも冷たい雨の香りが鼻をくすぐる。
「偶然、あの日、あなたを見つけました。最初、気づいたのはカレーの匂いです。雨だったので匂いがよく広がったんでしょうね」
人生が大きく変わるのは、多分本当に些細な一瞬なのだろう。その時は人生の転機に立っているなど気づきもしない。
冷たい雨、うるさいサイレン、絶望と、屈辱と。
その瞬間の膳子を見つけ出したのは支配人だ。
「あなたのカレーを食べて、いける。と思いました。家庭料理レストランは噂になる。人が呼べる」
そして、支配人の心を決めさせたのは膳子のカレーだ。
あの雨の日、支配人の背中を眺めながら坂道を上がった。あれからまだ、1年も経っていない。
「……正直、店の内容はなんでもよかったんです。会員制にすることと顔を隠すことは必須でしたけどね。膳がここに来たから、家庭料理になった。それだけです。思った以上の反響に、驚きましたが」
膳子は思わず目を丸くする。思わぬカウンターパンチを食らったように、膳子は頭を押さえた。
「適当過ぎないですか、支配人……じゃあ最近、小西のおじいちゃんを遠ざけたのは?」
「あの人はそうそうにリストから外してます。ただ、あの人は……善意で口を滑らすじゃないですか。あなたが妙な勘ぐりを持ち始めそうだったので、遠ざかっていただいただけです」
ちらりと、支配人は膳子を見る。
「膳はなぜ、このことを調べようと?」
「人生設計のためです」
膳子は便箋を一枚、一枚、丁寧に並べる。それを支配人が覗き込む。
「人生?」
「ここ、泥棒に荒らされて営業停止にされると、私、明日から職と家を失ってしまうので。私ね、お金をためて弟を引き取りたいんですよ」
「弟さんを?」
「母が少々やんちゃで兄弟が多くて……で、末の弟が叔母の家に。引き取って、育てたい」
「……そのためには、生活を安定させなければいけない。というわけですか……正直、膳のことは少しだけ疑ったこともありました。あなたは欲深そうなのに、その欲求の本質が見えなかったので」
カレーをたっぷり食べたせいだろうか。支配人の態度に棘がなく、空気が柔らかい。
膳子のカレーには、そんな力がある。
「意外と地味な欲求でしょう? まあ……あと、少しの好奇心も」
「なるほど、好奇心は猫を殺すという格言もありますが」
「三人寄れば文殊の知恵という言葉もありますよね。ここには二人しかいませんが……現場百遍ともいいますし、まず二人で考えてみませんか、支配人」
常に高級品に触れている支配人では気づかないだろうが、便箋はいい紙質だ。閉じられた封には、赤い蝋の刻印まで押されている。ただのこそ泥にしては手が込みすぎている。
貧乏人やそのあたりの庶民が作った手紙ではないだろう。
「何度便箋を見ても同じですよ。僕はもう何十回も見てます。便箋の出どころも探りましたがはっきりとせず……」
「私としてはここの線が気になるんです」
膳子は手紙を覗き込み、便箋に刻まれた謎の線を指でなぞる。
それは印刷ではない。黒いインクで描かれているようで、指でさすると凹凸を感じる。
一枚一枚、違う線。
「それには規則性はないですよ。でもまずは便箋を順番通りに並べる所から……」
膳子は支配人と頭をくっつけるようにして、呻く。
普段は必要以上の人との接触を嫌う支配人が膳子との距離に気づかない。秋らしいひやりとした温度はやがて人肌の生ぬるいものに変わり……。
「……朝ですね」
支配人がふと顔を上げた瞬間、かーん。と、廊下から激しい時計の音が響く。目の下にくまを作った支配人が顔をしかめた。
「徹夜なんて柄にもないことをしてしまいました」
「年ですから無理なさらず」
「膳こそ、無理をすると肌にきますよ」
膳子の言葉に、支配人が素早く嫌みで返す。
目の前に広がった便箋にはまだまだ謎が多い。
ああでもない、こうでもないと話し合ったが、決め手に欠ける。有象無象、はっきりとしない話ばかり広がって、犯人像はまた遠ざかってしまった。
分かったことと言えば、ここにある手紙は99枚。便箋の上に書かれた通し番号のお尻は100だ。100という数字が嘘でないなら、足りないものは1枚だけ。
支配人が屋敷で見つけた1枚を覗く98枚は届け先が判明している。皆、口を揃えて「差出人は不明である」と語ったという。
皆、これをただの冗談と思い放置していた。もしくは早々に支配人に相談に来た人ばかり。
「なので一旦、回収できたものについては放念しましょう。手紙を知らないまま忘れてる人があと1名……」
抜けているナンバーは奇しくも13番。
「忘れている……もしくは、泥棒に入るつもりで隠し持っているか……それとも、差出人自体が持っているのか」
机に広がった便箋を見つめ、膳子は唸る。
「支配人、こうなれば、いっそのこと泥棒に入ってもらうのが一番いいんじゃないですか。100枚も手紙を作って送った差出人はきっと近くで見てるでしょうから、一網打尽にすればいい」
膳子はあくびを漏らしつつ、思い切り伸びをした。
「せめて、お宝ってのが何でどこにあるのか分かれば良いんですけど。そしたらそこを見張ってればいいし……支配人、この屋敷には高級品があるみたいですけど……一番高いのは? ほら、換金性があるというか、絵画とか宝石とか……壁に黄金が埋まってるとか」
「無いですよ。遺言のとおり、資産価値のあるものはほとんど売って、寄付しましたし……今残っているものは古いばかりの家具や、あえていうなら什器ですかね。とはいえ、市販されてるものですしどれも二束三文ですが。そもそも、伯爵様は金儲けに興味がなかった」
支配人は懐かしむように、目を細めた。
膳子に対応する時の顔でも、客の前で見せる胡散臭い顔でもない……膳子も見たことない、切ない顔。何かを思い出すような、そんな顔。
「そうですね……」
支配人は、ほろりと小さく呟いた。
「……敢えて言うなら、伯爵様自身が、この屋敷での宝です」
伯爵とはどんな人物だったのか、膳子は考える。
優しい顔立ちで、時計の横に立っていた。背の高い男。今、膳子は白黒でしか彼のことを知らない。
しかし支配人の脳裏には、生きていた頃の伯爵の姿が今も残っているのだろう。
今、膳子は弟に会おうと思えば、いつでも会える。誕生日には離れた家族からメールが入る。それは生きているからだ。生きて、まだ存在しているからだ。
「……支配人、伯爵様に、いつ出会ったんですか」
「今日のところはここまでですね」
膳子の言葉をふいにかわして、支配人は便箋を片付ける。
「膳も多少、話がわかるようですし。また何かの参考にさせていただきます」
クラシックな鍵で机の引き出しを閉じると、彼はあくびを噛み殺して立ちあがった。
「膳、僕と子どもたちに食事を……あと、あなたの部屋にいる、可愛らしいお客人にも」
お見通し、という顔で彼は膳子を見る。
「あの若奥様が手紙を盗んだことくらい、とうに知ってました。戻ってくるのは意外でしたけどね」
「黙ってたんですか。意地が悪い」
「まあ収穫もありましたよ。今日の膳の態度を見てあなたが犯人じゃないことがはっきりしました。あなたは嘘が下手すぎる」
ふざけたように肩をすくめ、そして膳子の頭をむちゃくちゃに撫でる。
「僕はシャワーを浴びてきますので、その間に、熱いコーヒーをお願いします。砂糖とミルクはたっぷりで」
残されたのは甘い香りと、いまだ解けない謎。すっかり冬めいた室内に取り残されて、膳子は目頭をぐっと押さえる。
支配人に一歩近づいたと思えば、するりと逃げられる。
(仕事と住処を失いたくないだけ……のはずだけど)
徹夜の朝は目の奥がずん、と痛い。
(まーた余計なことに足ツッコんじゃった)
子供の頃から母にいくどもバカにされていた。
母曰く、膳子は余計なことに首を突っ込みたがる。
困った人を見ると、放っておけない。
そうでなければ母なんて、いの一番に捨てている。膳子のような性格で良かっただろう、と幾度母と言い合いになったかわからない。
(放っておいてもよかったんだけど、こんな部屋見たら、仕方ないでしょ)
残された支配人の部屋に残るのは、執念と過去への執着だ。
机の上、飾りのようなコルクボードにはいくつもの写真がピン留めされている。屋敷の外観、置き時計の写真……その奥に、1枚の写真が隠れている。
それは一人の男性の写真だ。この屋敷を前にして微笑んでいる。
(伯爵様だ)
膳子は息を呑み、そっとその写真を手前に引き出した。
週刊誌に載っていた写真より少しばかり年を重ねている。が、週刊誌の写真よりもずっと明るく、楽しそうな笑顔である。
支配人が守りたがっている、唯一の人物。
(支配人はこの屋敷を守りたいんじゃなくて……この屋敷の思い出を守りたいんだ)
屋敷には、膳子の知らない思い出が詰まっているに違いない。それを汚されるのを、彼は嫌っている。
彼の右隣に立つのは若い頃の小西だろう。丸顔は今も昔も変わらない。無邪気な顔で笑顔を浮かべるその顔に、膳子は思わず苦笑した。
「……ん?」
ふと写真の左隣を見て、膳子は目を細める。
「ああ……」
伯爵の左隣に、少し遠慮がちな顔で立っているのは……すらりと背の高い、整った顔の男だった。
その顔には見覚えがある。週刊誌に、モノクロで掲載されていた……それは伯爵の弟。
週刊誌の写真では少し、不鮮明だった。カラーではっきり刻まれた顔を見て、膳子は長い溜息をつく。
「弟さん、だったのか」
かつん、と杖が地面を叩く音が聞こえた気がする。
それは、この秋だけですでに3回、膳子に接触してきたあの男。
切なく屋敷を見上げていた横顔を膳子は思い出す。
「なんでみんな、口にしないかなあ」
膳子は机に突っ伏した。支配人と伯爵様の弟、きっと話し合いなどしていないに違いない。事情はわからないが、互いに嫌い合っている。そんな空気はよく分かる。
(きっと、ふたりとも伯爵様のことが大好きなんだ)
はたから見れば、それもよく分かる。気づいていないのは二人だけ。
つまりは二人とも、この屋敷を守ろうとして暗躍し、そしてややこしい事になっている。
それを解きほぐせるのは、きっと伯爵だけだ。しかし、もう彼はここにはいない。
(……伯爵様、か。去年一周忌なら、今年……っていうか来月は三回忌……)
支配人は時間がない、と言っていた。
伯爵が亡くなったのは、一昨年の12月だ。ならば今年にやってくる、三回忌をなにかの区切りにしているのではないか、と膳子は考える。
(支配人と……この人は、それまでに終わらせようと……)
これまで湧いたことのない好奇心の裏側に、少しだけ苦い切なさが広がったのは、冬のような温度のせいかもしれないが。
「お姉ちゃーん。どこー? 朝ごはん、俺が作っても良い?」
「俺も作ります」
「オーブン使っていいっすかあ」
どこからか、弟の声が響き、膳子の感傷はどこかに吹き飛んだ。続いて聞こえたのは、がやがやと、子どもたちの起きる音である。
反響する音の向こうで、キッチンの扉を開ける音が響いた。
「はいはーい。待ってて、コンロの付け方難しいから! さわんないで。朝ごはんつくったげるから!」
膳子は急いで立ち上がり、もう一度だけ伯爵の写真を見る。その人が、どんな人物なのか膳子は知らない。
彼の死後にばらまかれた謎の手紙は、優しい笑顔には似つかわしくない。
だから支配人も彼の弟も、必死に犯人を探すのだ。伯爵様の尊厳を守るために。
(あなたも、一緒に朝ご飯、食べられたら良かったのにね)
写真の中の伯爵が、少し、微笑んだように見えた。




