3-6
事件というのは、タイミングも場面も選ばずにやってくるものらしい。
(……って書いてたミステリー小説があった気がするけど)
膳子はぴん、と背筋を伸ばして耳を澄ませる。
(あ、そっか。ここのお屋敷で見つけた本に載ってたんだ)
そして焦るとどうでもいいことを思い出す……ということもその本には書いてあった。
響く古臭い非常ベルの音は雷の音にも似ている。
(水切りの甘いコンニャクを油の中に突っ込んだみたいな音がしてる)
最新式の防犯システムを入れてるくせに、音までアンティークに聞こえるのは歴史古い屋敷の壁に反響しているせいなのか。それとも、そう感じるだけなのか。
舌打ちをこらえて、膳子は顔を上げた。
人一倍気の弱い末晴は怯えるようにきょときょとと頭を巡らせている。
「お姉ちゃん?」
「晴。こっち」
せっかくの兄弟の感動の対面だというのに、空気を読まないこと、甚だしい。
膳子は冷めたココアをわきに避けて、弟の腕を引っ張る。
「え……なに。何の音……」
末晴は怯えたように腰を半分浮かす。
膳子はちらりと手の中のスマホの画面を見た。
非常ベルなど鳴れば、まるで間近で見ていたかのように支配人から電話が入る。だというのに今日はうんともすんとも動かない。
今日はなにか用事がある、支配人は確かそんなことを言っていた。
大事なときに役に立たない人だ、と膳子は心のなかで毒舌を吐く。
「防犯サイレンの音。誰か、来たのかも」
「きたって……お客さん?」
「まあ、ある意味お客さんかな」
止めるすべを知らないサイレンは屋敷中の壁に響き渡って、反響する。天井の高いホールは特に耳に痛いほどだ。
膳子は末晴を引っ張ったまま、慌てて台所を飛び出す。その瞬間、かちり。と明かりが一瞬不安定に揺れた。
また電気系統のトラブルだ。細かい停電が二度三度続き、サイレンはそれに巻き込まれるように唐突に途切れた。
「……玄関、異常無し」
再び通電したが、もうサイレンは鳴らない。ぱちりぱちりと蛍光灯が嫌な音をたてているだけだ。
弟の手を握りしめたまま、膳子は冷たく佇む玄関を見つめる。そこには気配もなく、音もしない。
音が途切れた途端、屋敷は不気味なくらいに静かになった。
……玄関が無事ならば、誰かがどこかの窓をこじ開けたか、割ったか。最悪なのは誰かが屋敷に侵入したこと。
「とりあえず私の部屋なら安心だから、そこ」
膳子は末晴の手を引っ張り、自室に向かう……が、進みかけた足を止めた。廊下の一番奥、小さなドアが見えたのだ。
普段、そこはしっかりと閉じている。壁と同化した扉なので、一瞬見過ごしてしまいそうになるが、その奥は確か、支配人の自室があると聞いている。
見ない触れない、聞かないこと。支配人によって徹底されたルールは膳子の身に染みている。
「……お姉ちゃん?」
「うん、ちょっと待って」
膳子は抜き足差し足、そうっと扉に近づく。
普段はノブを回すだけで、サイレンが鳴る、そんな隠し部屋だ。しかし、不思議なことに……今日は数センチ、開いて見えた。
……電気キーであると、支配人はそう言っていた。ならば、先程の停電で、ここのキーが外れたのだ。
息を止めてそっと扉に指をかけ、引く。
支配人のルールは身に染みているが、それよりも好奇心が数センチ勝ったのだ。
中に顔を入れた瞬間、漂ってきたのは甘い香りだ。ここには、支配人の香水の匂いが染み付いている。
ここは確かに、支配人の隠れ場所。
秘密の香りはいつだって甘い。
「お姉ちゃん? ここが部屋?」
弟に腕をゆすられ、膳子ははっと胸を抑える。
こんなタイミングでも膳子の心を揺さぶるのだ。
壁についたスイッチを押すと、オレンジ色の光がふっと灯る。
そこは机と椅子に棚があるだけのシンプルな部屋だった。支配人の部屋らしく、綺麗に片付けられてモデルルームのような生活感のなさだ。
窓もなく、内側からかける立派な鍵がある。
「えーっと。鍵もかけられるし、窓もなし、ここにしよう……か」
膳子は言い訳めいた言葉を呟く。言い訳をすると罪悪感は少し薄れた。
「ここのほうが安心っぽいし」
……そうだ。弟を守るためである。
「晴。ここに入って鍵閉めて、姉ちゃんが良いって言うまで出てきちゃ駄目だからね。私はちょっと外見てくるから」
「お姉ちゃん、外、危ないんじゃ」
「いいから、大人の言うこと聞きなさい」
「お姉ちゃんより、俺のほうが体おっきいし」
「お姉ちゃんのほうが晴より喧嘩の要領がいいの」
無駄に図体の大きな弟の体を無理やり、椅子に座らせる。
きれいに整った机は、支配人の性格通りのものだ。きちんと整頓された机の上には、メモ帳、万年筆が定位置のように置かれている。
……と、膳子は机の隣に置かれた棚を見て、動きを止めた。
それは繊細な金細工の模様が入ったガラス棚である。
薄い扉の中には、白いビニール袋にくるまれたものがいくつも並んでいた。
膳子は思わず、そっとガラス棚の戸を引く。ここは本来、ガラス細工や食器など、飾りを置くための棚だろう。
無粋に袋に収まったそれは、この場所に似つかわしくない。
(……グラス、手袋……)
分厚いビニールを覗き込めば、中にはもっと似つかわしくないものが詰め込まれていた。
(ハンカチ……)
それは、いつか支配人が「割れているので処理をする」と奪っていったグラスだった。
そして客の忘れ物だといっていた手袋。マダムが落としたハンカチーフ、赤い口紅がかすかに残る白い手袋……その他、たくさん。
そして、棚の奥には見覚えのある白い便箋。この屋敷に残された宝を示唆する同じ文面に、右上の通し番号、そして不自然に付けられた黒い線。
引きずり出して手に取るとずしりと重い。便箋は、神経質にナンバリングが振られていた。
(50番、33番、29番……)
まるでここは警察署の証拠保管室だ。
「……これは……」
膳子は弟の前であることも忘れて、目の前を凝視する。
便箋の上に貼られた付箋紙には、きれいな文字で一年前の日付と、人の名前が羅列されている。名前に線が引かれているものもある。それは犯人から除外、という意味だろう。
中には小西の名前もあった。常連の名前も……膳子の名前もある。
それを見て、膳子は背筋が自然に伸びた。
(犯人探し……?)
支配人の香水が染み込んだこの場所には、蓄積されたどろりと重い闇のようなものがある。
思えば、支配人は朝早くにやってきて、どこかにこもって出てこない。
薄暗く窓もないこの部屋で、支配人はここで犯人を探し続けていたのだ。
執念の香りが色濃く残っているような、そんな気がする。
(あの人、ずっと、ここでこんなことを……)
「お姉ちゃん?」
末晴に声をかけられ、膳子は悲鳴を噛み殺す。
弟が、心配そうな顔で膳子のシャツをきゅっと握りしめている。
「玄関から……音、してる……俺、見てこようか」
「晴、やっぱりここにいなさい」
「だって、お姉ちゃん!」
叫ぶ末晴をその場に残し、膳子は思い切り廊下へと駆け出した。
……肌寒い空気の中、表の玄関だけがガタガタと不気味な音をたてていた。
「夜分にすみません!」
誰だ。と叫び玄関を蹴り上げ腕を振り上げた膳子だが、秋風を浴びた瞬間その腕を下ろす羽目になる。
「……遅い時間、すんません!」
「あ、お姉さんですか!」
「なんかすげえサイレン音してたけど、大丈夫ですか!」
玄関の前に立っていたのは、どう見ても若々しい、子供の集団である。
頭は青々しい丸刈り。顔には若々しいニキビの跡。背は高いが、幼い体型。
……4名の少年たちが一斉に喋りはじめるものだから、サイレン以上のやかましさだ。
「うるさい」
思わずつぶやくと、少年たちの声がぴたりと止まる。そして互いに目配せしたあと、一人が膳子の前に進み出た。
「あの。末晴、いますか? あ、あとそこに泥棒いたから捕まえておきました」
それは一番体格のいい少年である。彼の大きな手が、小さな腕を掴んでいるのを見て、膳子は思わず飛び上がる。
「ちょっと、なにしてんの」
「だって、こいつ、窓こじ開けようとしてて……見るからに怪しいし!」
彼が掴んでいたのは、怪しい人間だ。わざとらしいくらい大きなパーカーに身を包み、顔にはサングラス、大きなマスクにハンチング帽。
しかしその体は小柄な女性……らしきもの。
男物のパーカーを纏っていても、その体型はごまかしきれない。細い、女性のラインだ。
慌てて少年の手を引き離すと、こそ泥の腕は力なく冷たい地面に崩れ落ちる。その瞬間、甘い……ローズの香りが不意に鼻に届いた。
「もしかして……あなた」
「あ、ケンちゃん!」
「末晴、やっぱここだった!」
「心配したぞ!」
膳子がこそ泥の顔を覗き込もうとした瞬間、背後から思い切り押される。振り返れば末晴が飛び出してきたところだった。
そんな末晴をみて、4人組がまたも大騒ぎ。時刻はもう24時過ぎだ。声は屋敷の壁に反響して大きく響く。先程のサイレンよりも、まだうるさい。
「あーもう。良いから全員、口閉じる!」
だから仕方なく、膳子は叫ぶ。案外しつけのよく行き届いた少年たちは、一斉に背筋を伸ばして口を閉ざした。
冷えた秋風、急に現れた弟に、招かれざる客。それを見て膳子は頭を抱える。
「とりあえず、全員中入って。話はそれから」
生まれ落ちて26年目。今年はその中でも、もっともにぎやかな誕生日となりそうだった。




