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美食倶楽部へようこそ  作者: みお(miobott)
泥棒騒ぎに膳子特製秋風カレー
21/34

3-5

 夜の秋風にさらされる弟の幼い顔は、膳子をぐっと切なくさせる。

 膳子は玄関扉のレリーフを掴んだまま、数秒間だけ言葉を失った。


「あんた、どうして」

 15歳の弟……末晴だが、すでにこの春の健康診断では身長180センチを超えたという。

 しかし体を縮こませる癖があるので、膳子よりもずっと小さく見える。

 彼はこれまで以上にぐっと身を縮めて、秋風吹き付ける玄関の前に立っていた。格好と言えば制服のままで、膝のあたりに砂がついている。

「……お姉ちゃん」

 末晴は掠れた声でそう呟いた。

 顔は真っ青で手の先が小さく震えている。太い眉がきゅっと下がってまるで迷子の子犬だ。

 唇は噛み締めすぎて青くなっている。

「……あ……もう……うん……」

 安堵と怒りと喜びと、色んな感情が一気に湧き上がると、言葉が混線するのだ。そんなことを膳子はこの瞬間に知ってしまう。

 この感情を言葉一つであらわすのは難しすぎる。

「いいから、来なさい」

 仕方なく膳子は弟の冷たい手を掴むと屋敷の中に引っ張り込んだ。

 夜露で濡れた肩にタオルを乗せて、動こうともしない弟を無理矢理に台所に押し込む。

「お、お姉ちゃん」

「ん」

「あの、俺、あの」

 ……やかんに水を、それをコンロに。大きなカップに、真っ黒なココアと砂糖を。

 チチチ、と言う音とともにコンロに火がつくと、膳子の心がふっと軽くなる。どれだけ心が乱れても、キッチンの輝く道具を見つめてコンロの火を見ると心が軽くなる。

 ここは膳子の城である。あの夏の日、三條はそういった……膳子さん、キッチンはあなたのお城ね。

 ここに来れば何もかもが安心で怖いことなんて何もない。キッチンには、そんな魔法がある。

「俺……っ」

「今は何も言わなくていいから、ちょっとまってて」

 膳子は湧いた湯をカップに少しだけ落とし、ココアを練る。

 少しのお湯だけでは、ココアの粉はぐっと重い。それをこらえて混ぜるうちに、ココアはきれいな黒色に照り始める。

 これが合図だ。

(……ん、今)

 それを見極めると、膳子は慎重に牛乳を混ぜ入れてレンジで軽く温めた。

 ちん、と軽い音をたててレンジが止まる。熱々のカップを引っ張り出して、もう一度だけかき混ぜれば、冷たい空気に甘い湿度が広がった。

「甘いほうがいいでしょ?」

 湯気を上げるココアの上から乗せるのは、膳子が夜食用に隠しておいたマシュマロだ。

 赤に青に黄色にピンク。カラフルなマシュマロは、熱いココアに触れてじゅわりととろける。

 幼い頃、弟はココアが好きだった。これだけあれば泣いていても笑顔が浮かんだ。そのはずだ。

「はい、これ」

「……」

 ココアの上に、弟の情けない顔が映る。

 どうも今日は、ココアのおまじないも効かないらしい。

「……どうしたの」

 弟の目元が赤いのを見て、膳子は拳を握りしめた。

 弟は何でも我慢してしまうタイプだ。こんなに図体が大きくても、彼は主張ができない。

 彼と違って、他の弟妹は自己主張の強いタイプだった。食事の時でも喧嘩の時でも、この末晴だけはおとなしかった。

 ……手間がかかるだけ、可愛さもひとしおである。

 膳子はわざと音を立てて椅子に座り、弟の大きな背を叩く。

「ほら。姉ちゃんに、いってみな」

「学校で……俺……ひと……人、殴っちゃって、それで」

 ココアが彼の口をゆるくしたのか、ゆっくりと弟の声が洩れた。

 震えるような声だ。室内が静かなので、余計に声の震えが目立つ。

 コップを何度も握り直し、顔を赤くして彼は呟いた。

「相手、怪我、しなかったけど……でも学校、もし停学とか、なったら、俺、叔母さんに迷惑……」

「……学校から帰って、どこにいってた?」

「外……頭冷やそうと思って……でも……叔母さん見たら怖くなって、それで」

 末晴は生真面目で、融通がきかない。きっと彼の父親もそうだったに違いない。

 しかし母は、末晴の父のそんなところが好きだったのだろう。

 子供だけ山のようにこしらえて、膳子が高校になるのを見計らうように姿をくらました母。未だに膳子は彼女のことを全く理解できない。

 しかし、時折思い出す記憶は楽しい過去ばかり。そんな時、母が優しい目で末晴を見つめていたことも思い出す。

 皆、この優しい末っ子が好きだった。

「晴。おなかすいてる?」

「……ん」

「夜鳴きそばが近くに来るけど……」

 膳子は腰を浮かす。最近、この近辺に夜鳴きそばのワゴンカーが来るのだ。

「あったかいラーメン、買ってきてあげよっか」

「……」

 膳子は末晴の遠慮がちな目線に気づいて足を止める。

 家族とは不思議なもので、顔を見るだけで何が言いたいのかわかってしまう。たとえ、何年離れていても。

 子犬のような濡れた目を見て、膳子は思わず吹き出した。

 お姉ちゃんのご飯が食べたい。その幼い目は、そう訴えている。

「……うん。分かった。なにか作ってあげる。でも、どうしてこの場所わかったの」

「前、前……に、名刺くれたから、それ」

 彼が制服のポケットから引っ張り出したのは、支配人が作ってくれた名刺だった。

「お小遣い……ためてたから、タクシー」

「高いのに」

「だって俺、ほかにいくとこ……なくて」

 名刺を握りしめたまま、弟は肩を落とす。

「……行くところなんて、ないから」

 社会人なら名刺を持てと言って、支配人に無理矢理渡された名刺だ。

 しかし渡す相手なんて誰もいない。結局、渡したのは弟だけだ。こんなことで役に立つなんて、と膳子はため息をつく。

「じゃあ、待ってて。先におばさんに連絡するから」

 そしてポケットの中にねじ込まれたままのスマホを耳に当てる。1コールで目的の人にはつながった。

「……あ、おばさん?」

 ずっと電話を前に、待っていたのだろう。膳子が事情を説明するその言葉を、叔母は息を詰めて聞いている。やがて、電話の向こうから叔母の安堵の息が聞こえた。

 ……彼女はいい人なのだ。

(いっそ、悪い人で……末晴をいじめてくれたらなあ)

 膳子は叔母の柔らかい声を聞きながら、ため息を飲みこむ。

(そしたら、殴ってでも……取り返すのに)

 そんな暗いことを考えると、膳子の気持ちは重くなる。

「……はい、終わり」

 電話を切ると、末晴が今にも泣きそうな顔で小さくなっているのが見えた。

 膳子はスマホを器用にくるりと回してポケットに押し込むと、弟の頭を軽くつつく。

「もう。やっちゃったもんは仕方ないでしょ。姉ちゃんもいっしょに謝りにいってやるから、今日はもう忘れな。んで、今日はここ、泊まっていいよ」

「え、いいの。だってお店の人とか」

「夜はお姉ちゃん一人だから。で、何食べたい?」

「か……カレー。お姉ちゃんのカレー」

 時計はもう23時55分。ここでカレーという言葉が出てくるのが男子高生らしい、と膳子は苦笑する。

「その前に。手、見せてみな」

 かち、かち、かち。と、大時計の音が響いている。それに冷蔵庫の低い音も。

 この時間、いつもならもっと静かだ。そんな中で弟と二人向かい合うなんて夢のようだった。

「殴ったって?」

「喧嘩、俺、別に加わるつもりじゃなくって」

 恐る恐る差し出された末晴の手は大きい。拳の所が赤くなっている。

 この大きな手で殴られた人間は、相当痛かったはずだ。しかし膳子としては弟の掌の痛々しさのほうが胸に詰まるのだ。

「誰? 殴った相手」

「他の学校で……名前知らない。友達が、一方的に殴られてて、危なかったから、それで」

 かくかくと、弟の手が震える。元来、気の弱い子である。

 しかし、人を助けるためなら飛び出していく。そんな子だった。そんなところだけ、膳子や母に似てるのだ。

「お姉ちゃんとか……お母さんみたいに、ちゃんと、俺、殴れなくて」

「きちんと殴れなくていいの。姉ちゃんや母さんのマネすんのやめときなって」

 呟いて、弟の手をぽんと撫でる。すると彼の体から力が抜けたようだ。

「力の使いから知らないと、骨折ることだってあるんだからね。晴。今度もし喧嘩があるなら姉ちゃん呼びな」

 ふにゃりと、まるで崩れるように彼は笑う。

「どうした、ニヤニヤして」

「はるって呼ぶの……お姉ちゃんだけだから」

 笑った顔は、母に似ていた。他の弟妹もだ。きっと膳子も。

 笑顔だけは、母の遺伝子が強い兄弟だった。

「本当はさ、末っこの男で末男って名前つけようとしたんだよ、あの馬鹿母。これで打ち止めだつって、本当人の人生何だと思ってんのか……」

 市役所の一角で、母がつけようとしたあまりの名前に、膳子が待ったをかけた。

 早く名前を決めなければ末男で出生届を出すぞと脅す母の頭の向こう、驚くほど美しい青空が広がっていた。だから、膳子は言ったのだ。

「……末晴」

 つまり末晴は、膳子が名付けたようなものである。膳子が10歳の時にやってきたこの小さな命は、こんなに大きく優しく立派に成長した。きっと名付けが良かったからだ、と膳子はそう思っている。

「あ……お姉ちゃん」

 かちりと、時計の音が響いた。

 それは末晴の腕時計だ。数年前にプレゼントしたその時計が12時を刻んだ音がする。

 時計を見て、末晴はぱっと顔を上げる。

 幼い頃から変わらない真剣な顔で彼は膳子をまっすぐに見る。

「お誕生日、おめでとう」

 途端、冷たい台所が急に暖かくなった……そんな気がした。

「……去年も一昨年もずっと、お姉ちゃん仕事忙しくて直接、祝えなかったから」

 膳子は慌ててポケットからスマホを引っこ抜き、その黒い画面を見る。

 11月19日。

 まるで膳子が見たことを感知したように、スマホが震え、弟妹たちからのメールが届く。

 お姉ちゃん、お誕生日おめでとう。

 また遊ぼうね。

 おめでとう、おめでとう……若者らしく、きらきらな絵文字や動画と一緒に。

 やや遅れて、今や居場所さえ不明な母からの「地獄の一里塚通過、おめでとう」などと嫌みな一文。これは年に一度の、彼女の生存報告。

 ……そうだ今日は、膳子の誕生日だ。

「うっそ……忘れてた」

「今年は、芽郁とか哲也より一番はやくにお祝い言えた。プレゼント、買ってこれなかったけど」

 にこりと、末晴が久々に晴れやかな笑顔を浮かべる。その名前の通りに。

「馬鹿」

 すっかり忘れていた……ここ数年、弟妹からのメールで気がつく。そんな誕生日。

 確か去年はワゴンカレーで警察とおいかけっこをしていた。だからメールにさえ気づかず、数日後にようやく自分が年をとったことに気づいたのだ。

 今年は、弟が、目の前にいる。

「あんたが来てくれるのが一番のプレゼントだよ」

 思わず涙がこぼれそうになるのをぐっと飲み込んで、膳子は末晴の頭をもみくちゃにかき回す。

 ぎゅっと抱きしめようとした、その瞬間。


「……まって。非常ベル」


 不快なサイレンが、屋敷中にとどろき渡った。

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