3-2
18時25分、いつものように時計が音をたてると、美食倶楽部は仰々しくオープンする。
食事を作ってしまえば、あとはしばらく待機時間だ。膳子はホールの見える小窓に近づき、さりげなく覗き込む。
自然に、あくまでも自然に。
(今日も……怪しい人間はなし……か)
ふ、と膳子は息を吐いた。
三條から話を聞いて以降、どうも神経が過敏になっている。
目の前にひろがる美食倶楽部の白いホールは、相変わらず一風変わった紳士淑女の社交場だ。
立派な机に、飾りみたいな巨大な金庫。輝くようなカラトリー。
そんな店の中を賑やかすのは、ローズの香りをまとわせた若奥様に、常連客。
一度は追い払われた例のボンボン集団も、今度はおとなしそうな女性を連れてやってくるようになったし、あの怪しい初老の客はすっかり姿を見せない。
あれ以来、誰も大きな問題は起こしていない。
それが当たり前の姿ではあるものの、この静かさが不思議に不気味なのだ。
嵐の前の静けさ、という言葉を嫌でも思い出す。
そして、これまでの職場でも何かが起きるときには一度、静けさがあった……そんなことを思い出すのだ。
「膳。何を見てるんですか?」
客を眺める膳子の隣に、支配人が音もなく滑り込む。
彼は客同士が盛り上がれば支配人はそれ以上、出過ぎたマネはしない……そんな「よくできたオーナー」の顔を崩さない。そのくせ、一秒だって客から目を離さない。
彼はかつて執事だった、と膳子は噂に聞いている。執事というのはそこまで執拗に客を見るものなのか……彼の目線には少々、獣めいた執拗さがあるようだ。
「支配人も……」
膳子と同じ目的で客を見ているのですか。そう言いかけた言葉を飲み込んで、膳子はごまかすように首を振った。
「何見てるって……そりゃあお客さんの顔ですよ。料理人にとっては、お客さんの喜ぶ顔が一番のご褒美なもので。そのご褒美を、いただいてます」
とっさに口からでまかせを吐ける、それも膳子の得意の一つ。ただし嘘には本当のことを数割混ぜておく。
実際、目の前で美味しそうに舌鼓を打つお客様。それは確かに膳子にとっては喜びの一つだ。
「相変わらずいい賑わいっぷりですね、支配人」
「ええ、おかげさまで」
今日も平和な一日が終わろうとしている。膳子の料理は相変わらず好評で美麗な室内に似合わない味噌の香りが店内に充満していた。
「ああ……膳。久々にカレーもいいかもしれないですね」
支配人は客から一歩離れると、愛想笑いは消え失せて石膏みたいな冷たい表情となっている。
どちらかといえば、こちらの表情のほうが彼の本質なのだろう。
彼の目元に刻まれた皺や整った容姿からは彼の過去は探れない。
(ずっとただの洋館だったのに、昨年、いきなりレストランとして開店……ねえ)
膳子は広いホールを見ながら、小窓に顎を置く。
美しい什器、机、テーブルクロス。全てが完璧。もともと、ここが最初からレストランだったかのようだ。
しかしここは最初は「伯爵様のお屋敷」だ。
伯爵様がなくなって、この店はいきなり華やかなレストランに姿を変えた。
……なぜ彼はここをいきなり、レストランに改築してしまったのか。
外から見れば、彼は恩義ある伯爵様を裏切って屋敷を乗っ取った極悪人だ。金に困っているように見えないのも怪しい。
(でもなあ……金を横取りして、やることがレストラン? しかも儲けも出ない?)
膳子は頬肉を壁に押し付けながら小さく唸る。
(レストランに見えるだけで実はなにか悪い取引に使われてる、とか……いやいや、それなら私を住ませたりしないだろうし)
見上げて盗み見ても彼は涼しい顔。恐るべきこの仮面を崩すのは、簡単なことではなさそうだ。
「聞いてますか。膳。あなた、カレー得意でしょう?」
「あ、あー……えっと、カレーですか。あいにくそんな気分ではなくて」
支配人にいきなり顔を覗き込まれても、膳子は動じず首を振った。膳子もポーカーフェイスは得意な方だ。
この厚い顔の皮で膳子は25年、生きてきた。
「作るのにちょーっと時間がかかるんですよね」
涼しい顔でメニュー表をはじく。
後一週間、カレーの予定は入っていなかった。
「三週間後とかでもいいですかね」
「まったく、あなたの気分でメニューを決めるのではないんですけどね……ああ、あと戸締まりも気をつけなさい。最近、電気系統の調子が悪くて……」
ぱちり、と一瞬キッチンの電気が落ちて、また付く。その音を聞いて支配人は肩をすくめた。
「いかんせん、古い建物なので。空調が壊れたと思ったら次はこれです。週末に業者を呼んでますので、それまで持てばいいですが」
「大正時代……でしたっけ、ここってもともと家だったんでしょう?」
「それが、なにか?」
店の奥、キラキラ輝く客の奥に鎮座するのは巨大な金庫だ。銀行によくある、壁と一体化した……巨大なもの。
それを指差して膳子は笑ってみせる。
「あの金庫とか、フェイクと思ってましたけど……実は大金が眠っていたりして」
「膳」
しかし支配人は笑わない。目を細めて膳子を睨む。
「約束は?」
「……聞かない、問わない、探らない」
両手を上に上げた膳子を見て、よろしい。と、支配人は小さく肩を鳴らす。
「さて、と」
……そろそろ、店の音楽が切り替わる。耳馴染みの良いクラシックが流れ始めるとデザートの時間だ。
「あなたも仕事に戻って。それと子爵様からの個別注文です。卵のサンドイッチのテイクアウトです」
「おじいちゃん、ここに来ればいいのに」
「お忙しいんだそうですよ」
一時期は入院だ死ぬだなどと大騒ぎしていた小西も、相変わらずの常連へと舞い戻った。しかし最近は忙しいのか息子にでも叱られたのか、勝手口から現れて膳子に夜食をねだることもなくなった。
しかし姿を見せないほうが逆に安心かもしれない……と、膳子は思う。
もし泥棒と小西がこんなところで鉢合わせすれば、きっと面倒なことになる。
鉢合わせ、は膳子にも起こり得ることだ。
(……もし、泥棒がキッチンに来たら……どこに逃げるか、考えておかないと)
膳子はつるつるとした壁を撫でながら、そんなことを思う。あの手紙にはこのキッチンの間取りも書かれていた。壁の素材も、色も、そんな細かいことまで。
(せめて、その宝の場所ってのがわかれば……って、やめたやめた。どうせ私には関係ないんだし)
ふん。と鼻を鳴らして膳子は首を振る。どうにも三條と出会った夏以降、悪い癖が出ようとしている。おせっかい、という名の悪い癖が。
そのたびに膳子はその気持ちを抑え込むことになる。
「膳。壁を撫でてないで、早くデザートの用意を」
「はいはい」
「膳、はいは一回だけです。今夜僕は用事があるので、お客様をお見送りしたらすぐに出ます。くれぐれも、戸締まりを忘れないように」
「は……はい」
「よくできました」
何事もなかったような顔で支配人は客の元へと向かっていく。すでにその顔には、いつもの胡散臭い笑顔が浮かんでいた。