3-1
膳子の朝は時計の音とともに始まる。
それは、この屋敷に来てからの癖のようなものだった。
(あーよく寝た)
膳子はベッドの上で伸びをして、枕元の時計を見る。
……時刻は早朝6時25分。
時計を半眼で見つめ、膳子は目を思い切りこすった。
前の晩、どれだけ遅くに寝てもこの時間にはきっちりと目が覚める。
「よっし、よく寝た!」
しかし、たとえ睡眠時間が1時間でも、よく寝た。と膳子は思うようにしていた。
病は気からというが、元気も気から。なんでも思い込みが一番だ。
ご親切にも膳子を毎朝律儀に起こしてくれるのは、玄関に置かれた大きな置き時計。
夕刻に音を響かせるあの時計は、長針と短針が目的の時間に揃えば音が鳴る。
夕刻だけでなく、朝の6時25分にも同じ音を立てるのである。
おかげで、すっかりこの時間に起きるのも慣れてしまった。
(最近は冷えてきたなあ)
膳子は足の指でふくらはぎをかきむしり、朝一番のシャワーを浴びる。
屋敷の地下に作られたバスルームはいかにも年代物らしく、小洒落た猫脚の湯船がついているが一度も使ったことはない。
壊してしまったときの賠償額を考えると、華奢な湯船に浸かる気は失せてしまう。
湯船だけでなく銅色のシャワーヘッドもアンティーク風で、膳子の人生にはなかったものだ。
この屋敷にはトイレに風呂に部屋にキッチン。生活に必要なものは一通り揃っているが、どれもこれもオシャレにすぎる。
(最初はすぐ慣れると思ったけど、案外慣れないんだなあ)
水滴の向こうに見える眩しく白いバスタブを見つめながらシャワーを手早く済ますと、膳子は全裸にタオルを巻き付けただけの恰好で新聞を取りに行く。
素足でぺたぺた大理石の床の上を歩くのは背徳感があって心地いいし、支配人に見つかればどやされるというスリルもまた楽しい。
こんなに立派な洋館でも、ひとり暮らしならこんなものだった。
夏に膳子を悩ませた屋敷の空調は、実質、3日程度で見事に修繕された。
エアコンの冷風と電気のありがたさを堪能したのも、たった数週間程度のこと。9月に入って10月も過ぎ、季節はすっかり秋めいてきた。
広い部屋のせいで空気はすうすうと右から左に抜けていく。まだ水滴のついた腕をなでながら、膳子は大きなあくびを漏らした。
(そろそろ店で味噌汁でも出そうか……豚汁とか。えっと今日は……そうめんだったかな。それなら味を味噌にかえて……あったかい煮麺にするとか……)
身支度を整えながら、考えるのは店のことだ。
トーストを焼いて軽い食事済ませると、山のように届く新聞と週刊誌のチェック。
今日も平和だ。変わったネタといえば、警察署のポストに盗品の返却相次ぐ……という、ニュースくらいだろう。
膳子は一度めくったページをもう一度戻す。
(美術品、貴金属……盗まれたものが郵送や宅配で戻ってくる?)
淡々と書かれた文面を読んで、膳子は、苦笑を漏らした。
「近年まれに見る平和なニュース……ねえ」
それを平和なニュースと言い放っていいか、どうか。
中には盗まれたことさえ気づいていない人も多数いた、と記事は呆れた調子で閉じていた。
世の中には随分と金が余っているものだ、と膳子は呆れ返る。
実際、膳子の勤めるここ、美食倶楽部もそんな金持ちたちが多くやってくる。
いつも目仮面で顔を隠したあの人もこの人も、泥棒が入っても気づかないに違いない。
常連客の顔を一人二人と思いうかべながら、膳子はため息をついた。
(……平和、ね)
熱いコーヒーを飲みながら膳子は週刊誌の柔らかい紙を指で弾く。
実際、この店はいつでも平和だ。
夏に三條が爆弾を落として以降、例の手紙についての進展はほぼなかった。
……ただ、三條の言葉を裏付けるように、数回の奇妙な事件が起きた。
(泥棒……未遂は二回ほど。でもどっちも大きな損害なし)
膳子は裏口の方向を見つめて、目を細める。
泥棒なのかどうなのか、夏から今までにかけて、窓が割られたことが1度あった。
あとは裏口の鍵をこじ開けようとした形跡が一回だけ。
いずれも閉店直後のことだ。しかし大音量のセキュリティ音が鳴り響き、現場に駆けつけたときにはもう誰もいなかった。
防犯カメラには犯人らしき人物の背中が映っていた。しかしうまく顔は隠されている。カメラの場所を理解して動いている、そんな動きだった。
泥棒未遂事件で分かったことといえば、「この屋敷は案外セキュリティがしっかりしている」ということだ。
繊細な飾りのついた窓は薄く見えるが、簡単には開けられないし、割れば大きな音が響く。閑静な住宅街なので、その警報音は辺り一面に響き渡る。
並の精神を持っているなら、誰でも逃げ出すだろう。
泥棒、強盗、宝物。自分の人生から遠いと思っていたそれらは数ヶ月前、三條の登場によってぐっと身近なものとなった。
(今後も何も無ければいいけど)
不安をぐっと飲み下し、膳子は濡れた頭を乱雑に拭く。
何かが起きてほしくないのは、この店に潰れられては困るからだ。きっとそれだけだ。
(違う違う。働き口に愛着は持たない)
ぐっと息を飲み、膳子は宙を睨む。
ここで働くのは金のためだ。一日も早く弟を迎えるために。
職場に愛着を持っても、どうせいつか離れる時がくる。
……もう、なんども膳子はその喪失を味わっているのだ。
「よしっ」
膳子は重くなった気持ちを払い、立ち上がる。タオルを振って、深呼吸。
やがて支配人が朝の8時過ぎにやってくる。
そして何やかんやとあら捜しをして膳子に一つ二つの嫌みを言ってくるのはいつものこと。
それをかわして買い出し、下準備、モロモロこなせばあっという間に、仕事の時間になっていた。