2-7
大きな花火が黒い夜空にまた一つ上がった。花火が散って少しの無音が広がる間に、支配人が三條の手を皿にいざなう。
「さあ、お嬢様。どうぞ召し上がれ」
「ねえ、山田」
しかし彼女は首を振って支配人の顔を見上げた。穏やかな顔だ。もう苦悩も、悲しみも見えない。すっきりとした顔で彼女は支配人を見る。
「私だけが食べるのは寂しいわ。山田も膳子さんも、もちろん久保田も」
机の端に手を置いて、彼女はまるで女王様のように堂々と言い放つのだ。
「お祭りなんだから、みんな一緒に食べるのよ」
フライパンで作ったたこ焼きは、中はとろとろ外はカリカリ。ちょうどいい具合に仕上がった。
ソースが甘酸っぱく、マヨネーズが熱さを緩和する。
好き嫌いはあるだろうが、たこ焼きに冷たいマヨネーズは必須だな。と膳子は思う。
(……初めて作ったけど、やっぱり市販の粉は最強)
口の端についたソースをなめて、膳子は自己満足に浸った。
本物の屋台たこ焼きを食べたのはもう何年も前のことだ。
蒸し暑い夏祭りで食べたたこ焼きは、冷めていてもう少し粉っぽかった気がするが、今と同じくらい美味しかった。ぬるい夏の温度と、花火の香り、そしてソースの味。
縁日でしか味わえない、多分特別な味。
「まあ。これは唐揚げね。久保田が好きで、一度貰ったことがあったわね」
少女のような笑い声を上げて、三條が唐揚げを口に運ぶ。その声を聞いて、喉をつまらせたように久保田が胸を叩いた。
「あの時の唐揚げは、これと同じくらい固くってね」
「わ、若気の至りです。お嬢様に、私の好物をと……でも父にひどく叱られて……こんな油まみれの体に悪いものをお嬢様になんて……いや、この唐揚げが体に悪いというわけじゃないんです。美味しいですし、その、すごく、えっと、油も綺麗で」
あわあわと口を滑らせた久保田の声を聞いて、三條は淑女らしからぬ笑い声を上げる。笑いすぎて浮かんだ涙を、彼女は肩を震わせ拭うのだ。
「そう、それで私はこの子の父親を叱りつけたの。何が体に悪いものですか。私を思って持ってきたものよって。この唐揚げは、その時の味にすごく似てる」
唐揚げはわざとコロモを厚めに作った。複雑な味はつけず、塩に胡椒にニンニクだけ。
高温の油で二度、かりかりになるまで揚げた唐揚げはジャンクな味に染まって、おかずというより、おやつに近くなる。
屋台の料理なんか持って帰れば、まずくて食べられたもんじゃない。外ではそこそこの味に感じるのは、その場の空気にごまかされているからだ……などと、嫌みな学校の先生はそんなことを言って生徒にひどく嫌われていた。
しかし膳子は、ほんの少しその気持ちもわかるのだ。
同じものを食べても、思い出やその場の空気で料理の味は変わってしまう。
楽しい思い出を持つ料理を、楽しい場所で。それが一番美味しい。
(……栄養とか、うまいとかまずいとかより、そういう料理が一番健康にいい気がする)
熱々の唐揚げを口に投げ込んで、膳子はぼうっと空を見た。
花火はまもなく終わりのようで、まるで機関銃のように空を彩っているところである。
花火を上げるにはいろいろな許可や事前準備が必要なはずだ。普通なら、すぐに用意できるものではない……普通なら。
普通ではない人たちが、この屋敷周辺には多すぎる。
「支配人、すぐにおじいちゃんに、連絡したんでしょ」
りんご飴をしげしげと眺める支配人に耳打ちすれば、彼は冷めた目で膳子を見た。
「なんのことやら」
「じゃなきゃ、こんな用意すぐできるわけないですし……やるじゃないですか」
ふん。と支配人は鼻を鳴らした。
「膳と同じようなおもてなし方法を考えてしまうなんて、僕もまだまだですね」
「テーブルや什器まで用意しておいて……もし私が何も作らなかったらどうしたんです」
「作りますよ、膳ならね」
りんご飴をかりりと噛み締め、支配人は立ち上がった。
「子爵にお礼のお電話をしてきますので、膳はその間、お客様のお相手を……ああ、この飴はいいですね。ちょっとシナモンを振っても美味しいかもしれません。いくつかパターンを考えておいてください。お土産として、活用できそうだ」
褒め殺してもおだてても、支配人には甲斐というものがない。
膳子は花火の残り香を嗅いで背を伸ばす。
「私……お嬢様に何も出来ず」
その手が、背後の影にぶつかり、膳子は苦笑した。
呆然と立ち尽くしているのは、久保田だ。エプロンをしたにも関わらず彼のスーツは白い粉まみれ。
そんなことにも気づかない顔で、彼は三條をせつなそうに見つめている。
「結局、皆さんに助けて……いただいて」
「公園でずっとお嬢様のこと、探してたじゃない。すごいと思うよ」
そう言えば彼は子供のように真っ赤になる。
(支配人もこれくらい可愛げがあれば良いんだけど)
やがて……空が暗くなった。名残のような小さな花火が舞った後、音が静まり夜が再び始まる。
空には花火の煙だけがかすかに残るばかりだ。
「とても美味しかったわ。それに楽しかった」
かき氷の最後のひとくちを噛み締めたあと、三條が上品に微笑む。
「そういえば、あなたのお名前は、どのような漢字を書くの? 善いのぜん? それとも自然のぜん?」
「庖川膳子……名字は庖丁のほう。名前は御膳の膳。変わった名前でしょう?」
彼女は見えない目で、膳子をじっと見つめた。
「少し、触るわね。私にとっては手と指が、目のようなものなの」
彼女はそっと手を伸ばし、膳子の顔にふれる、首に、腰に、肩に、まるでピアノを奏でるような軽やかさで彼女の指が膳子に触れた。
「面白いお名前ね。腕にも力があって、料理人にぴったり」
「料理人にしかなれないような名前でしょう。母親が冗談半分でつけたんです」
「庖には台所という意味もあるの。なら、ここの台所はあなたの城だし、このお料理はあなたの子どもたちのようなもの」
三條は見えないはずの目でテーブルを見渡す。
真っ白な皿は全てジノリだ。綺麗に食べ尽くして空っぽになったその皿は、料理が乗っていたときよりもキラキラと美しく輝いて見える。
きょうの料理もどれも完璧だった。
料理をしている間に弟のことを少しだけ忘れ、悲しみも少しだけ癒えた……なるほど台所は戦場であり膳子の城なのかもしれない。
三條が冷たい手で、膳子の指を握る。
逆の手で、オルゴールのネジをゆっくりと回した……聞こえてきたのは、聞き覚えのある古い映画音楽。
中の機械が少し狂っているのか、音は歪みながらゆっくりと響く。
「あの人がここにいれば、楽しかったでしょうね。意地なんてはらず、会いに行けばよかった。謝る機会なんてそれこそ何度もあった。謝ってあの手を握りしめて……はしたないなんて、思わずに」
「三條さん?」
「ねえ。膳子さん。大切な人に意地に張るのはおよしなさいね。後悔は、一生続くわ」
久保田が遠くで、三條の名を呼ぶ。迎えの車が来た、というのだ。気づけばもう夜も深く、そろそろ出なければ飛行機に間に合わない。
「ねえ膳子さん……必ず、この場所を守って」
三條は名残惜しげに立ち上がると、膳子の耳にそっとささやく。
「あの人と私と……山田の想い出の、最後の思い出の場所なの」
その言葉はまるで祭りのあとの静けさのように、ずしりと膳子の体にのしかかった。
片付けが終わる頃には時計の長針が深夜を指す。
「では膳、今日はお疲れ様でした。空調が切れて暑いですが、戸締まりはするように」
年代物の扇風機を引っ張り出して膳子の前に置くと、支配人は生真面目な顔で言う。
「なんですかこの古い扇風機」
「無いよりマシでしょう。部屋を探ってたら出てきました。壊れてはいませんが、強にすると蓋が外れるようなので注意して」
今日のことなど何もなかった顔だ。いつもどおりの平日が終わった顔で、彼は姿勢も正しく姿見を覗いて襟を整えた。
「僕は帰ります」
どれだけ遅くなっても支配人は必ずどこかへ帰っていく。今日もまた、暑苦しいというのに帽子にジャケット、手にはステッキ。
「支配人、ここって……あの、どういう場所なんですか?」
答えてはもらえないと予感しながら、膳子は尋ねる。
秘密を探れば自分のことも探られる……思わず口にした言葉を、膳子は少しだけ後悔した。
「もう忘れたんですか?」
しかし支配人は嫌な顔も浮かべず膳子の頭をぽん、と叩く。
「レストラン、美食倶楽部ですよ。みなさんに、美味しいお料理を提供する」
白々しく言い放ち彼は背を向けた。ステッキを指揮棒のように軽くふり、動揺も見せずに扉を開ける。
「膳。金庫を覗かないように。それに空調の工事は明日になったので、僕も朝にはもう一度来ますが……。何度もいいますが、鍵だけはしっかりと」
言うだけ言って、支配人は夜の闇に吸い込まれる。
重い扉の音だけが、広い屋敷の中に静かに広がった。