2-6
日が暮れ始め、西日が当たると美食倶楽部の建物はますます貫禄が出るように見えた。
熱を帯びた赤煉瓦の壁は、しんと静かなまま西を向く。100年、この建物はここにあり続けているのだ。
(ここに……宝ねえ)
赤い西日を眩しく見上げ、膳子は目を細める。
ここが犯罪予告を受けた場所だと思えば、膳子の緊張も少し高まった。
(これまで、変なこと、なかった……とは思うけど……)
しかし疑ってかかれば、奇妙なことはいくつもあった、そんな気もする。
防犯ベルが鳴ったことが数度。
深夜、玄関をノックする音が響いたのは一度や二度ではない。
もともと目立つ建物だ、イタズラをされることも多少はあるだろうと、膳子は鷹揚に構えていたし、支配人も平然としていた。
だから膳子は思っていたのだ。
この屋敷は、世界で一番安全な場所だと。
「お嬢様、こちらへ」
支配人が出てきたのは、ちょうど膳子たちが屋敷に戻ったそのタイミングである。
見張っていたのかもしれない。それくらいのタイミングで彼は涼しげにあらわれ、すっかり動揺を解いた顔で三条に手を差し伸べるのだ。
「山田、見つかった?」
「ご確認を」
膳子は支配人の顔をじっと見つめたが、彼はわざとらしい態度で膳子を無視する。
聞きたいことは山のようにあるが、その言葉を膳子は飲み込んだ。
三條と支配人がどこかへ姿を消せば、薄暗く蒸す室内に残されたのは膳子と久保田だけ。
膳子は疲れ果てたように椅子に崩れ込み、だらしなく久保田を見上げる。
今日は朝から悲しいこともあった。どうしようもない悔しさに身悶えもした。
しかしその後に訪れた驚きが、全部それを押し流してしまった。
残されたのは、ほんの少しの焦燥感と、疲れだけ。
これを癒やす方法は、ただ一つしかない。
「……ねえ、久保田さん」
「は、はいっ!?」
「お嬢様の乗る飛行機って夜何時? いつ、ここのお屋敷を出れば間に合う?」
「えっと、あの」
従順な青年はズボンを土まみれにしたまま、ぴんと背を伸ばす。
ポケットから取り出した革の手帳は立派だが使い慣れていない感がある。おそらく、父から仕事をついでそれほどたっていないのだろう。
腕に合っていない腕時計と手帳を何度も見比べ、彼は四角い顔を膳子に向ける。
「あと……あと4時間くらい……です」
(……よっしゃ)
その言葉を聞いて、膳子は腕をまくりあげた。
放り出しておいたコック服とコック帽をかぶり、キッチンに駆け込むとまずは材料の確認。
空調が壊れているせいでキッチンの暑さは地獄のようだが、冷蔵庫に異常がないことだけは救いだった。
「あの……?」
膳子が取り出したのは、タコに小麦粉、林檎に砂糖。ホットケーキミックスに、そしてウインナー。
放り出すように食材を机に並べる膳子を、久保田がぽかんと見つめる。
そんな大柄の男の背を、膳子は力強く叩く。
「久保田さんさ、暇なら手伝ってくんない?」
「な、なにを」
「恰好見てわかんない?……料理」
「料理!?」
備品のエプロンを久保田に投げつけると、彼はヒャアと情けない声を上げた。
「なぜ?」
「だって」
いつもどおりの感覚で床を踏みしめ、いつも通りコンロに火を付ける。庖丁を取り出し、まな板を並べ、食材を見つめて息を吸う。
大丈夫。膳子は腹の底に力を込めて、そう思う。
食材を前にすれば不安も疑問も、全部綺麗に流れて消えた。
今はただ、あの老女に食事を作る。それだけが膳子の使命である。
「日本最後の日に、綿あめだけじゃ可哀想でしょ」
灼熱のキッチンへようこそ。と、膳子は彼にフライパンを差し出した。
三條と支配人が奥の部屋から出てきたのは、廊下の長時計がカーンと音を立てた直後のことだ。
それは18時25分に響く鐘の音。店が休みの日でもこの音は鳴り響く。
鐘の音が聞こえると、膳子の背筋がピンと伸びる。
美食倶楽部の始まりだ。
……そして、その音とともに、扉が開いた。
レストランのホールとは逆にある大きな扉。
普段は鍵のかかっているその奥は、支配人のプライベートルームと聞いている。
そこから出てきた二人は前よりも少し、穏やかな顔をしていた。
三條の手が陶器の置物を抱きしめている。白い馬の美しい陶器のオルゴール。
それを見て、膳子はほっと息を吐いた……少なくとも彼女の宝物は、彼女自身のもとに戻ってきたのだ。
「遅くなってすみません、膳」
少しだけ角の取れた表情の支配人を、膳子は見上げる。
通りすがる瞬間、彼の体からふと煙るような香りが匂ったのだ。
……それは昨年のクリスマス、膳子が初めてここに招き入れられた時にも香った匂いだった。
それは線香の香りだ。当時、お屋敷に線香というアンバランスな香りが不思議だった。
ここには仏壇もなければ、近くに寺もない。
しかし、今となればわかる。
(去年のクリスマスは……一周忌か……)
支配人の主であり、三條の婚約者。
伯爵様という男は一昨年のクリスマスに亡くなったという。それならば、昨年のクリスマスはちょうどその一周忌。
同じ匂いを身にまとう三條と支配人を追いかけ、膳子はコック帽を外した。
「三條さん、時間あります?」
「……なぜ?」
「いくつか……簡単なお料理を作ってみたんですけど」
キッチンは今、複雑な匂いで充満していた。油、マヨネーズ、ケチャップ、砂糖。甘酸っぱいりんごの香り。
そんな香りにくるまれて、今頃久保田が必死に料理を盛り付けているはずだ。
支配人は鼻を動かし、諦めたようにため息をつく。一瞬、彼の目元が優しく下がり……彼はそれをすぐに隠した。
「そうですね……お嬢様。せっかくですので、どうぞ。うちのオーナーシェフが腕をふるいましたので」
膳。と、支配人は膳子を見つめて顎で庭の方を指す。
「外に出ましょう。テラスにテーブルがございます。中は暑いものですから」
裏の勝手口を抜ければ、そこには小さな庭がある。海を見下ろせるプライベートガーデンだ。
そこには春や秋にだけ利用する木のテーブルが用意されているが、今日はすでにその用意が整えていた。
白いテーブルクロス、銀の食器に大きなグラス。
まるで料理ができることを見越していたような用意周到さ。
膳子は慌てて、できたばかりの料理を運ぶ。
……と、支配人が目を細くする。
「膳、これは?」
「たこ焼き、アメリカンドッグ、りんご飴と……本格的な屋台の味とはいきませんけど。あとでかき氷もお持ちします……夏祭りの、屋台の味」
机にずらりと並ぶのは、お祭りメニューの数々だ。それを見て、支配人の目が丸くなり、細くなる。
「膳」
彼は慌てたように膳子の腕を引き、ささやいた。
「うちにはたこ焼き器など、なかったはずですが?」
「卵焼き用のフライパン、あるでしょ。あれで焼いたんですよ。熱が入れば一緒です」
膳子はささやき返し、ニヤリと笑った。
たこ焼きは一番簡単だ。
市販のたこ焼き粉を水で溶き、卵焼きフライパンに流し込む。均等にタコを放り込み、一口サイズにカット、上からソースとマヨネーズ、青のりに鰹節を山盛りかければ完成だ。
そしてウインナーにホットケーキミックスを絡めて、爪楊枝に挿し高温の油で揚げれば一口アメリカンドッグ。
ついでに唐揚げとポテトも揚げて、ちょっと洒落た紙コップに差し込んだ。
林檎も一口大に切り、鉄板で溶かした砂糖の上でからめれば、一口サイズのりんご飴。
りんごのシャーベットと氷をミキサーにかけて作ったかき氷は、冷凍庫の中で静かに出番を待っている。
それを披露すれば、支配人は調子が出てきたように顎を手で擦る。
「……僕は時々、膳の野性味に感心しますよ」
「嫌みですか?」
「褒め言葉です……さ、お客様が席につきますよ」
「まあ、すてき。外にテーブルがあるのね」
やがて、粉まみれになった久保田が三條の手を支え、椅子に座らせた。
「気持ちがいい……せっかくのお料理が見えないのだけが残念ね」
彼女が言う通り、風が少し出てきたようだ。
庭のライトに光を灯せば、テーブルの上に並ぶ料理に深い影が生まる。
生ぬるい空気と、少しだけ涼しい風、白い光……なるほど、この色彩と香りはお祭りの空気によく似ている。
「ああ、これが夏祭りの香りなのかしら……」
しかし本当の夏祭りは、その目で見えなければ少しだけ寂しい。
久保田がしゅんと肩を落としたその時。
「ではお嬢様。このような趣向はいかがでしょうか。どうぞ、私の声のする方向を見てください」
支配人がふと立ち上がり……手をのばした。
三條が不思議そうに首を傾げ、顔を上げる。膳子も久保田もつられて、支配人の指差す方角を見上げていた。
それは海の方角、西方の広い空。
夕日が夜の色に押し流されて、紺色と群青色が混じり合う、宵の色合。線上に残った夕日の色だけが、眩く輝く。
その空を、彼は指差す。
「小西子爵からの、贈り物です」
その瞬間、ひゅるる、とどこからか音が聞こえた。
それは懐かしい夏の音。
空を見れば、赤黒いその場所にまっすぐ白い筋が走る。
と思えば、すぐさま空に大輪の花が咲いた。
どどど、と地面を震わせるような音に、赤や青に緑の色彩。それは夜空を彩る大きな花火なのだ。
一発、二発。花火が上がるたびに屋敷の壁が様々な色に染まる。
すぐ近くであげられているのか、かすかに焦げたような香りと灰色の煙が辺りに充満する。
三條はぽかんと、空を見つめ……やがてその目の端にかすかに涙が浮かんだ。
「まあ……光が見えるわ。なんて綺麗」
「お嬢様」
支配人がゆっくりと彼女の前に膝を折り、彼女の手をしっかりと握りしめる。
そして、静かに口を開いた。
「美食倶楽部へ、ようこそ」