2-5
ホールから立ち去る支配人の足音は普段より騒々しい……つまり、彼は怒っている。
彼は荒々しく廊下に出て、やがて小さな扉の音が響く。
廊下には扉などないはずだ。この屋敷には隠し部屋が多い……とかつて小西が語っていた言葉を思い出し、思わず立ち上がりかけた膳子だが、急いで着席して首を振る。
(君子危うきに近寄らずだし、好奇心は猫を殺すだし……)
それに今は好奇心を満たすより、この場の空気を取り繕うことが先決だった。
なんと言っても問題は何一つ解決していない。
支配人が去った後、蒸し暑い店内に残されたのは、膳子と三條と、久保田という、初対面に近い三名だ。
(あー……)
一向に姿勢を崩さない三條と久保田をみて膳子は思わず唸り声を上げた。
「あーっと、あの」
重苦しい空気は、昔から苦手だ。
「待ってる間、どこか行きます?」
だからいつも、つい面倒ごとにばかり足を突っ込んでしまう。
この重苦しい空気は別に膳子のせいではない。
放っておいてキッチンの片付けをしていてもいいはずだ。
しかし背を伸ばした三條の指の先に寂しさが停滞しているようで、膳子は思わず口を出す。
「店の中って暑いですし、どこか、涼しいところでも」
昔から膳子は、寂しがっている人を放っておけない。性別も年齢も関係ない。母からは「損な性格」と苦笑された。
その後、ぽろりと漏らした「父親そっくりだ」という言葉は、膳子の心の奥に閉じ込めてある。思えば、母から父のことを聞いたのはその一言だけだ。
しかし、うっかり漏らした母の一言を聞いてから、膳子は人助けをするのが気楽になった。
この性格、遺伝ならば仕方がない。
「日本をもう立たれるんでしょう? 行きたい所があれば……」
「お騒がせしてごめんなさいね
三條は膳子がいることに初めて気づいた顔で、やんわりと微笑む。
「どうぞ、膳子さんはご自由になさって。私はここで山田を待つわ」
そう訓練でもされているのか、暑そうな色さえ見せず三條は涼しげに立ち振る舞う。
その背中も、横顔もどこか寂しそうだ。そう見えてしまうともう堪らない。
ウドの大木のように、ただオロオロすることしかできない久保田を押しのけて、彼女の手にそっと触れる。
「支配人はこういう時意地悪なんです。たぶん、たっぷり時間をかけますよ。店にいると干上がっちゃいます。まあ外も暑いですけどね」
「そうね……もう一つだけ、日本に思い残しがあるのだけど」
三條は固く閉じた目で膳子に向けた。もう随分と老女のはずなのに、少女みたいな表情を見せる人である。
「思いのこし……ですか?」
「お祭り」
そして彼女は意外な言葉を口にした。
外に飛び出すと、そこはかすかに茜の色に染まっている。
まだ日没までは遠いが、16時を回るとほんの少しだけ空気が夜の準備を始めるのだ。8月に入ると、その空気が顕著となった。
そんな空気を楽しむように三條は日傘をそっとたたむ。蒸し暑い8月の空気を味わうように息を吸い込み、雑音さえ聞き逃すまいと耳を済ませる。
膳子が彼女の手を引いてたどり着いた場所は、坂道を下った先。先程の公園だ。
お祭りには程遠いが、ワゴンカーの屋台がいくつか出ていることを思い出したのである。
公園は日差しと汗と、甘い香りに包まれている。ベビーカステラの焼ける匂いに、綿菓子の機械からにじみ出る砂糖の香り。
「膳子さん。ここは……公園?」
まだ強い日差しが残る公園の中では、散歩をする人や写生をする人、皆が思い思いに過ごしている。
それをすり抜け、膳子は進む。三條を連れて歩くだけで、ここに涼しい風が吹くようだった。
「……お嬢様あ。どこですかあ」
涼しい三條と相反するように、悲鳴のような声が響く。公園をランニングする男性がびくりと震えてそちらを見る……それは久保田だ。
相変わらず分厚いジャケットを脱ぎもせず、ネクタイまでしっかり締めて泣きそうな声で「お嬢様」と叫ぶのだから、目立つことこの上ない。
「あら。久保田はいつまでたっても子供みたいね。あの子は迷子になるとあんなふうに叫ぶのよ」
三條はくすくすと、上品に笑う。
「可愛そうだけど、ここは遠慮してもらいましょうね、膳子さん。女二人の秘密の時間にあれはちょっと無粋だわ」
道の途中、久保田を撒こう、といい出したのは三條である。
彼女は膳子の耳にそっと「女二人で話がしたい」と囁いたのだ。
そんな我儘なお嬢様のお願いを叶えるために膳子は喜んで手を貸した。
久保田は、とろくて純粋だ。道を曲がって、影に身を潜めてしまえば「大切なお嬢様」の姿をすぐに見失う。若葉印の執事なのだろう。
「せっかく話をするなら、お祭り気分を楽しめる場所にすると一石二鳥でしょう? 本格的な夏祭りってわけにはいかないですけど、屋台がいくつか出てるので、お祭り気分を味わえるかなって」
「伯爵様とお別れする前、夏のお祭りにご一緒しましょうと、そんなお話をしたことがあるの」
彼女はほつれた横髪を気にするように、そっと指でかきあげる。
「その前に私が婚約破棄をしてしまったものだから、行けずじまい。花火をね、一緒に見るはずだったの。一人で行っても良かったのに、この年になるまで、花火も縁日も行かなかったの。だって、伯爵様を思い出すから」
膳子に手を引かれ、三條はにこにこと微笑んでいる。二人きりになると、まるで幼い少女のような人だった。
「こっちへ」
膳子は彼女の肩をそっと木陰に隠す。
木陰から響き渡る蝉の声も珍しいのか、彼女はきょろきょろと首を回した。
「蝉の声。まあ、公園だとこんなに大きく聞こえるのね。久保田の声のように大きな声」
本物の久保田の声はますます大きく、すぐ近くの道を駆け抜けていく。しかし息を潜めていると、その声は遠ざかっていった。
「あら、もう見つかっちゃった?」
「まだです。探してますけど……ここなら見えないから、どうぞ」
「まあ。なんだかすごく悪いことをしているみたい」
くすくすと、三條は笑ってベンチに座る。
「こんな年でお嬢様なんておかしいでしょう。私、結婚をしなかったものだから。久保田の父が私のことを最期までお嬢様と呼んでいたの。そのせいで、あの子も今でもずっとお嬢様。私のことなんて放って、好きなところに就職しなさいって言って含めたのだけどね、変に生真面目で困るわ」
淡い色のサングラスが赤い夕日の中で輝いていた。
どんな時でも姿勢の正しい人である。どこか寂しそうに、彼女はじっと虚空を見つめる。それは美食倶楽部のある方角だ。
「先程は、助け舟を出してくれてありがとう。本当はね、山田にあの手紙を渡すことだけが目的だったの。でもお屋敷の中に入って……懐かしい香りや感触に包まれて……すっかり忘れてたはずのオルゴールのことを思い出した。思い出したらたまらなくなって、あんな我儘を」
「あの……」
車のクラクション、蝉の声。交じる土の香りと、酸っぱい夏の香り。
夏の最中はこんなにも暑いくせに、どことなく怠惰で寂しい。老女のお嬢様があまりに切なくみえて、膳子は思わず声をかける。
「せっかくなので……なにか食べたいものは? といっても夏祭りの屋台ほど数はないですけど」
「そうね。ああ、あれを食べてみたいわ。りんご飴。でも大きくて食べにくいって伯爵様はそう言ってた。あとはカルメ焼きとか……綿あめとか……私ね、たこ焼きも一銭焼も、なにも食べたことがないの」
ぱっと、彼女は顔を輝かせる。それを見て、膳子は勢いよく屋台へとかけだした。目指すのは、大きな風船が揺れる屋台。
赤や緑の塊がぷらりとつられたそこは、綿菓子の屋台だ。適当に指差したその柄は、弟が大好きだった戦隊ヒーローの柄である。
膳子は袋をもぎ取り、雲のような塊を取り出す。三條の手にそっと割り箸を握らせると彼女はその軽さに驚くように首を傾げた。
「これは?」
「お口にあうかどうか……綿あめですけど」
初めて聞いた名前のように、三條は言葉を繰り返し……恐る恐る口にする。そして嬉しそうに小さく震えるのだ。
「……すごい。しゃりっとしてふわふわで……甘くって。綿あめ? まるでシルクみたい。まあ……目で見られたらどんなに良かったでしょう」
柔らかい綿あめは、彼女の顔を明るく照らした。先程までの苦悩の顔は消えて、子供のままの顔になる。
「まあ私ったら、こんな美味しいものを食べずにずっといたのね」
「どこでだって美味しいものには出会えますよ」
赤い口紅が綿あめにかすり、夕日に染まる雲のようだ。
無邪気に綿あめを食べる三條を見つめ、膳子は切なくなる。
先程の話を思い返してみれば、別れを告げたのは彼女からのようだ。自分の目が悪くなったので、婚約を破棄した……自分から身を引いた。
もし彼女が身を引かなければ、もし伯爵様が彼女の手を離さなければ。
この顔を見るのは膳子ではなく、伯爵様だったはずだ。
「えっと……あの……あのお屋敷は伯爵様……と、今の支配人が?」
じりじりと暮れる夕日を眺めながら、膳子はつぶやく。
「暮らしていたんですか?」
「後は住み込みのメイドが数名ね。伯爵様といっても、もちろんそんな爵位なんてものはなくなってしまった後だけど……みんな通称で伯爵様と呼んでいたわね」
綿あめを余すことなく食べ終えて、彼女はつぶやく。
「結局、あの人も私も最後まで一人きりだった。お互い、意地の張り合いね」
お嬢様、お嬢様。と走り回る久保田の声が公園内に響く。
しかし三條は気にするそぶりもなく、空を見上げた。まるで見えているように、そこに広がる夏の雲に手を伸ばすのだ。
「……伯爵様が生きていた頃は、近くに住んでいるだけで張り合いがあったけど、一昨年に亡くなってからはまるでだめね。気落ちしてしまって……それで海外に暮らす姪っ子が自分のところへ来ないかと、声をかけてくれて……」
「え、一昨年に亡くなった……?」
「まあ、山田から何も聞いてないの? 昔はあんなにおしゃべりな子だったのに」
三條から漏れる言葉のすべては、膳子からすれば初耳のことばかりだ。
おしゃべりな支配人というのも、どうにもこうにもピンとこない。
「支配人は口が重くて」
山田という名前も、初耳だ。思えば膳子はあの店のことも支配人のことも、何一つ知らないのである。
とはいえ、膳子だって脛に傷持つ人間だ。
支配人を探れば、膳子も探られる。
お互いの領域には立ち入らない。そんな線を引いた付き合いをしてきた。
膳子が知っていいのは、キッチンと玄関と自分にあてがわれた部屋の中だけである。
「伯爵様が亡くなったのは一昨年のクリスマスの頃。素直にお葬式に行けばよかったのに、結局意地を張って、名代を立てたの。きっとあの子は、今でもそのことを怒ってる。伯爵が大好きな子だったから」
三條の乾いた手が、膳子の手をゆっくりと握った。
「ねえ、膳子さん……いつからあそこに?」
「去年のクリスマスの頃です。危ないところを支配人に助けられて、それであそこでシェフを。拾われたといいますか……」
「そう。あの子が、拾ったの……」
彼女はしばらく悩むように口を閉ざし……やがて鞄から白い紙を取り出す。
「これ……うちで見つかった手紙。点字だったものを久保田に書き起こしてもらったわ。山田に見せようと思ったのだけど、あの子には必要なかったから、あなたに差し上げるわ」
「良いんですか?」
恐る恐る受け取り、中を覗く。流れるような綺麗な字だ。あたりは薄暗いが、黒のはっきりとした文字は、暗くてもよく見えた。
「え、これ」
数行、目で追って膳子は固まる。
最後まで読み切って理解が追いつかず、もう一度読む。裏をひっくり返し、紙を手でなぞり……そして三條を見つめた。
「……犯罪予告?」
「うちだけじゃないわ。あちこちに配られてるみたい。この地図も人によって違うみたいね。ツテを頼って回収したつもりだけど、まだまだあるの。悪い冗談だと思うし、もちろん誰も本気にしていないわ」
膳子は息を呑んで、もう一度白い便箋を見つめる。流暢な文字で書かれたそれは、馬鹿らしい犯罪予告だ。
「伯爵様のお屋敷に……宝が隠されてる?」
膳子は二度三度、文字を追う。しかしそこにはやはり、同じことしか書かれていない。
今は美食倶楽部となったあの屋敷の中に膨大な宝が隠されている。それがどこかは分からないが、見つけた人の人生を明るく照らすような、そんな宝が……。
そんな文面だけなら、ただの子供だましで済んだだろう。
問題なのは、手紙の裏に建物の見取り図が描かれていることだ。
「見取り図……」
「この地図、思った以上に正確なの。指でなぞった感じだけですけどね」
膳子は思わずその線を指でなぞる。指先に伝わってくるのはインクのザラリとした感触だけ。しかし膳子ですら知らない道や廊下が描かれている。
ロビーの中央、大時計の後ろにある部屋。
トイレの横からすり抜ける廊下。
地下室、外からは見えないバルコニー。
「あのお屋敷には隠し扉や仕掛け迷路がたくさんあるの……全部理解してるのは伯爵と山田と……屋敷に関わる人間だけのはず。私だって全部は知らない。それが見取り図に描かれている……」
さらにセキュリティの弱い箇所、裏口から室内に侵入する方法。そんなことまで記されているのをみて、膳子の背が冷える。
宝が真実であるかどうかは置いておくとして、見取り図はあまりにも詳細すぎる。
遊園地のアトラクションならともかく、実在の建物でやるにはハイリスクだ。これがお金持ちの遊びとは、到底思えない。
右上に刻まれているのは、2/100という謎の数字だった。少なくともこれが100枚はある、ということだろうか。それともフェイクか。
(隅っこに……変な線もある)
膳子はそっと手紙の端っこに指を這わせる。左下になぞの黒い線が描かれているのだ。それはコの字型の線。偶然というには作為的な線である。
「それだけじゃないのよ……できる限り、回収はしましたけどね」
三條は小さな鞄の口をぱちりと開いて、膳子にささやく。
「この手紙、どこまで広まっているかわからないし……もし本気にする人がいたら?」
彼女が取り出したのは、十数枚の白い封筒だ。それは彼女が「回収した」という他の手紙だろう。いずれにも同じ内容が書かれ、それぞれ98/100、77/100、44/100などの数字も刻まれていた。
さらに手紙の端々に残る黒い線。コの字型があればただの線もあり、矢印のような跡にも見える。これが何をさすのか、それともただの意味のない引っ掛けか。
「この線、なんなんでしょうね……」
膳子は目を薄めてじっと見つめるが、そのインクの跡は何も示してはくれなかった。
「これが引っ越しの最中に見つかって、そりゃもうびっくりしたわ。知り合いに聞いたら、知り合いの家にも来ていると……それからは必死にかき集めてかき集めて……悲しむ暇もないくらい。すぐに久保田にお屋敷のことを探らせたら山田がちゃんと守っているって言うでしょう。だから安心していたの。でも最近になって調べたら、あの子、防犯対策をするどころか、開放してレストランにしているのだもの。びっくりして……あの屋敷が荒らされたらどうしようって」
それで、お屋敷に足を運んだの。と、彼女は肩をすくめてみせる。
「……私ね、ずっと伯爵様が大好きだったわ。一緒に夏祭りに行けばよかった。一緒に……花火を見ればよかった」
薄暗くなった空を見上げて、彼女は手を差し伸ばした。ちょうどそこには、細い月が浮かんでいる。
「……内緒よ」
「お嬢様あ」
彼女の小さな声がかすれて聞こえたその直後、大きな影が木陰を揺らす。
「やっと……見つけた……」
立っていたのはスーツごと汗だくになった、久保田の姿。
今にも泣きそうな久保田の声を聞き、三條は先程までのことなどなかったように立ち上がる。
「女二人の秘密のお話はおしまい。じゃあ、そろそろ戻りましょう。山田が待っているかもしれないわ」
その声は、空元気のように響いた。