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美食倶楽部へようこそ  作者: みお(miobott)
たこ焼き、綿あめ、りんご飴。お嬢様と夏の秘密と宝物
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2-4

「……もちろん、『元』がつきますけどね」

 冷たい紅茶を口に含み、彼女がそう微笑んだのは、膳子が大急ぎでレストランの一角を片付けた後のことだ。

 熱気でくらくらするキッチンでアイスティだけを急いでこしらえたものの、氷はどんどんと溶けて紅茶は息をするごとに薄まっていく。

 しかし彼女は平然と紅茶を飲む……これは本物のお嬢様だ。

「娘時代、病気で目を患って、こちらから婚約を解消したの。それから50年近く、ずっと疎遠だったのだけれど」

「葬式のお知らせは、差し上げたはずですが?」

 支配人の声は低い。普段なら機嫌が悪くても、ほうじ茶に砂糖を一粒落として渡せば彼の機嫌はすぐにおさまる。

 しかし、今はその大好物の茶に手を出すことなく椅子に腰を下ろしたまま。足を組んで、じっと三條を見つめているのだ。

 まるで吐き捨てるかのような適当な物言いも、彼にしては珍しかった。

「まさか今更になってのご弔問とは」

「……そうね。今更顔を出せる立場ではないわ。でも探してもらいたいものがあって、恥を忍んで、きたの」

 三條は細長い指で紅茶のグラスにふれる。年老いても白くて綺麗な指先だ。お嬢様の指先だ、と膳子は思う。

「探してほしいのは、伯爵様にいただいたオルゴール。白馬の美しいモチーフ……ネジを回すとその白馬が走って、音楽が流れるの。婚約解消をした際に、意地を張って置いていってしまったのよ。私、今日、日本を立つのだけれど。その前に思い出の品をどうしても手に入れたくて」

「もう、ございませんよ」

 つん、と支配人の声が響く。生ぬるいはずの室内が妙に涼やかだ。久保田だけがオロオロと支配人と三條を見つめている。

「そうかしら?」

「見つかればお送りします。宛先をお書きください。すぐペンの用意をしますので」

 支配人の声は低く、言葉には棘がある。珍しいことだ。どれほどのクレーマー相手でも、彼の鉄面皮は崩れたことがないというのに。

 三條という女性も肝が太いのか、そう訓練されているのか。微動だにせず紅茶を飲む。溶けかけた氷のからん、と揺れる音だけが優雅に響いた。

「あの、支配人……この方は」

 耐え難い空気に膳子が声を出せば、支配人の細長い目がぴくりと動く。

 膳子の姿がようやく目に入った、という顔だ。こんな表情も珍しかった。

 彼は舌打ちでもしそうな顔で、長い溜息をつく。そして気持ちを落ち着かせるように、ネクタイを締めた。

 手首のカフスをくるりと回し、やがて支配人は膳子を睨んだ。

「膳、まだそこにいたんですか……この方は古い僕の知り合いで……三條様と。お前はキッチンでも片付けていなさい」

「山田。お前には小手先みたいな言い訳じゃ通用しないわねえ」

 ふ、と三條が微笑む。そして彼女は白い指先で小さなかばんを探り、中から白い封筒を取り出した。

「ここに来た目的はもう一つあるわ。昨日、棚の後ろからこんな手紙が出てきたので、見せにきたのよ。久保田に郵送の押印を見てもらったのだけど、ちょうど……伯爵様の亡くなった直後になってるでしょう? 届いていたのに気づかず、うっかり落としていたのね、先日、引っ越しのときに見つけたの」

「私が見落としてました……」

 久保田がしゅん、と肩を落とすが誰も彼に構うことはない。支配人が腰を浮かして手紙を受け取る。

「拝見しても?」

「点字よ」

「嗜んでおります。お嬢様がこの家にお嫁にこられると……そう思って勉強しましたから」

 見ないほうがいいと分かっていても、膳子の視線が思わずそちらを向く。少し背伸びしても膳子から見えたのはただの白い紙だ。小さく盛り上がってみえるのは、点字だろう。

 支配人は手袋を脱いで、指を紙に這わせる。

 かちこちと、廊下の時計の音だけが高く響く。

 何分間、そうしていたのか……突然、支配人の匂いが強くなった。

 それは緊張か、それとも怒りか悲しみか。わからないが、彼の感情が揺れ動いたことだけは確かだった。

 彼の額から汗が一筋、垂れた。

「日本にはもう戻ってはこないから、ここに来るのは本当に最後。オルゴールの話も本当よ。飛行機の時間が来るまで、探してもいいかしら」

「お手紙の件はありがとうございます。しかし……オルゴールはもう、今更でしょう。そもそも、そんな古いものが残っているかどうか……代わりに似たものを探してお送りします」

「支配人」

 耐えきれず、膳子は思わず立ち上がっていた。ぬるりと嫌な汗が流れるのは、空調のせいか、この場の空気のせいか。

 割って入れる空気ではなかったが、考えるより先に声が出ていた。

 昔から膳子は、場の空気を読むのは苦手である。

 同時に、場の空気を壊すのは得意である。

 思ったことを、口の中に閉じ込めておく方法を、膳子は知らない。

 その辺りは、母の血なのだ。

 母は恋をすればまっすぐだった。母と違って膳子は恋を知らない。その代わりに、困っている人を見過ごせない。

「何があったのか、私は何も知りませんし、知りたいとも思わないですけど」

 ぐっと、膳子は足を踏み出す。

「その言い方はないでしょう、支配人」

「膳、あなたは何も知らないのだから」

 支配人の目が膳子を睨む。それはいつものふざけたような表情ではない。本気で怒っている、そんな顔だ。目つきが鋭くなり、唇が頑なだ。

 それを見て、膳子は再び腹に力を入れた。

「知らないから、言うんです」

 膳子は支配人の袖を掴む。

 脳裏に浮かんだのは、今日会った弟の顔である。

 あんな大きな図体をしている癖に、捨てられたおもちゃを思って泣きそうな顔をしていた。

 同じものではだめなのだ。

 思い出のおもちゃでなければ、だめなのだ。

 おもちゃが無くなったのが悲しいのではない。思い出が無くなったのが悲しいのだ。

「……思い出の品は、その人だけのものです」

 弟の思い出の品は、もう二度と戻っては来ない。しかしこの三條の思い出は、まだここにあるかもしれない……まだ、望みはある。

「絶対、絶対、後悔します」

 膳子の目を、支配人がじっと見つめる。やがて、ふっと息を吐いた。

「……探してみましょう。少しご猶予いただいても?」

 諦めたようなそんな表情で、支配人は膳子の手を軽く叩く。

「支配人、お手伝いしましょうか」

「結構。膳は掃除でもしていてください」

 相変わらず秘密主義の彼は、ジャケットを脱いで腕をまくると、音もなくいずこかへ消えてしまった。

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