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美食倶楽部へようこそ  作者: みお(miobott)
たこ焼き、綿あめ、りんご飴。お嬢様と夏の秘密と宝物
12/34

2-3

「美食倶楽部?」

 彼が口にした美食倶楽部の響きを膳子は反復し、首をかしげる。

 聞き間違いでなければ、それは膳子の勤める会員制レストラン。毎週水曜日が定休日。つまり本日は週に一度の定休日だ。

 ……それだけではない。今日は客を店に通せない理由がある。

「それと、今日はちょっと、そのお客様は……」

「いや、しかし。その」

 そう膳子がぼかしても、男はあわあわと焦るばかりで話にならず、やがて見かねたと思われる老女が静かに一歩進み出た。

「急に声をおかけして申し訳ないわね」

 彼女は柔らかく閉じた目を膳子に向けると、かすかに微笑む。

「食事ではないわ。ご案内いただける?」

 彼女から漏れた涼し気な一言は、有無を言わせない力強い響きがあった。

 

 

(ほらね。たまーに外に出ると面倒なことになる)

 膳子は額に浮かんだ汗を拭い、青空を見上げた。

 結局、妙な押しの強さに負けた膳子は、店の方向に向かって二人を先導し始めたところである。

 美食倶楽部を経営する不思議な洋館は、この公園から坂道を登って10分ほどの場所に立っている。

 建物は坂道の高台に位置するので、尖った屋根の隅っこが青空に向かって突き出しているのが坂道からでもよく見えた。

「もう少し歩きますけど、大丈夫ですか?」

「ええ。お気遣いありがとう」

 振り返り、膳子は老女に問いかける。やはり焦っているのは隣の男ばかりだ。彼女は平然と細い顎を上に向けている。

「ここからもう、お屋敷は見えるのかしら」

「ええっと……屋根の一部だけですね」

 日差しはアスファルトを焦がしそうなほど強烈だというのに、日傘を持つ老女はまるで空調完備の場所にいるように、表情も崩さない。汗も浮かべない。

(お金持ちって特殊な訓練でも積んでるのかな?)

 だくだく流れる汗を腕で拭いながら膳子は熱いため息をついた。

 一人だけ暑がって汗を流している自分がまるでバカみたいだ。

「す、すみません。ご無理いいます。本当に申し訳なく……あの、時間がなくて、それでどうしても今日でないと……」

 ……いや、膳子以外にもうひとり、汗だくな人間がいる。

 汗だくになりながらひたすら頭を下げる男を見て、膳子はため息をぐっと飲み込んだ。

「いいですよ。どうせ店は開いてるので。見学させてくれるかはわかりませんが、うちの支配人に掛け合ってください」

 定休日でも支配人はどうせ店に現れる。そのあたりは嫌に真面目な男なのである。

 面倒な客は支配人に任せるが勝ちだ。

 またいつものような作り物めいた笑顔で追い払ってくれるだろう。

 しかし、そんな膳子の目論見は、意外な方向で崩れることとなった。


「膳、空調の工事が来るまで店にいなさいと言っておいたじゃないですか、何を勝手にウロウロと……」


 店の入り口を開けると、まるで膳子が戻るのを予知していたかのように支配人が飛び出してくる。

 相変わらずの完璧なスーツ姿に、よく磨かれた革靴が立てる音が清々しいほどだ。

 彼は膳子を見つけて文句を言いかけ……その口を自然に閉ざす。膳子の後ろに立つ人影を目にしたのだ。

 突発的な出来事に強い彼は、緩めていたネクタイを自然に締め直して胡散臭い笑顔を浮かべる。涼やかに膳子の隣に立ち、膳子に軽くにらみを入れることも忘れない。

「……ああ。お客様申し訳ありません。せっかくのお越しですが今日は定休日で、さらに空調が壊れていまして……」

 ……が、その表情は一瞬で硬直した。

 例えるなら、水に氷が張るようなそんな冷ややかな硬直である。目が、顔が、口が、ゆっくりと固まっていく。言葉を失ったように口を震わせ、そして彼は一文字に唇を結ぶ。

 愛想笑いから生まれてきたような支配人にしては珍しい挙動で、膳子は眉を寄せた。

 こと、客に対しては演技臭いくらいの態度を見せる支配人にしては珍しい。

「支配人?」

「膳、あっちに行っていなさい」

 彼は膳子を後ろに追いやると、老女の前に立つ。彼のつけている香水が強く香ったのは、緊張しているせいだろう。

 夏の温度に、その香りは甘すぎる。

「支配人、どうしたんです」

 彼は膳子の言葉も聞こえていないように老女の前で足を止めた。その膝がかすかに震えたことを膳子は見逃さなかった。

 戸惑っているのか、動きが不自然だ。

 支配人は、低い声で囁く。

「……お嬢様?」

「山田……その声は、もしかして……山田なの? まあ。ちょっと、ちょっと。顔を近くに」

 老女はふらつくように一歩、二歩。隣の男が慌てて彼女を支えるが、彼女はその介助を嫌がるように毅然と支配人の前に立つ。

 支配人は老女を前にした途端、まるで魔法にでも掛けられたように、すっと腰を落とした。

 すると彼女はまるで当然と言わんばかりに、細い手を前へ差し伸ばす。その手で、支配人の顔をそっと撫でたのだ。

 指で、掌で、手の甲で、まるで記憶を思い起こすように彼女は撫でる。そして泣きそうな、嬉しそうな声で笑うのだ。 

「まあ……お前、随分と年をとってしまったわね。出会った時は、ほんの子供だったじゃない」

「お嬢様は……変わらず」

「おべっかは結構よ。昔……あのとき、あなたはたしか10歳を超えたくらいだったかしら、私は20歳。あれからもう50年近く。私もすっかり変わってしまったわ」

 彼女はそう言って、明るく笑う。

 しかし、支配人の顔はにこりとも歪まない。愛想笑いもベタベタに甘い口調もその口からは一言も漏れない。

 支配人の体からは、苦みを帯びた香りが広がる……それは緊張と……嫌悪。

 支配人が誰かを「本気で」嫌っているのを見るのは、はじめてのことである。



(愛想笑いのまま生まれてきたような、あの支配人がねえ……)

 膳子は熱せられた玄関に肩を預けたまま、腕を組む。隣には、おろおろ顔の青年が立つばかり。

 二人はまるで会話を聞かれるのを嫌うように、自然に膳子と男から距離をとった。

 老女は支配人に何かを語り、支配人は短く返す。

 膳子と男を気にするようにこちらを横目で見つめ、支配人は首を振る。老女は支配人の手を取り、何かをささやく。

(楽しそうなご歓談ってわけじゃなさそう)

 やがて支配人は義務的な口調と態度で老女の手を取り、店に足を踏みいれた。

 彼女はまるで何かを思い出すように息を吸い込み、手袋を取って壁に手を触れる。

 懐かしむように、愛おしむように。

 そんな彼女の些細な動きさえ気に入らないのか、支配人の顔がどんどんと薄暗く染まっていく。

(何なんですか……って聞くのは簡単だけど)   

 パッと見は穏やかな風景だが、薄ら寒い空気に膳子は震える。君子危うきに近寄らずだ。こういうときは、近づかないに限る。

(雑誌、読むふりしとこ)

 玄関先には新聞と週刊誌が山積みにされていた。喫茶店でもないというのに、この店には毎朝、毎夕、数社分の新聞と週刊誌が届くのだ。

 客に出すわけではない。すべて支配人用である。

 しかし支配人はそれをいつも斜め読みして捨ててしまうので、その回収とゴミ出しも膳子の仕事だった。

 ニュースに興味のかけらもなかった膳子だが、気づくと読むようになってた。無駄に文字数の多い新聞や週刊誌は、時間つぶしにちょうどいい。

(汚職の政治家、一家離散……)

 ゴシップに特化した週刊誌にはそんな文字が踊っている。春先に汚職がバレた政治家一家が、いよいよ一家離散の危機にあるという。

 離散の文字を見ると膳子の胸が締め付けられるようだ。

 どんな家庭でも、バラバラになるのは苦しくて悲しいに決まっている。

「……」

 しんみりとなった膳子に反して、支配人と女性は相変わらず丁寧な言葉での応酬を繰り返していた。

 空調が壊れて蒸し暑いはずの店内が、妙に寒々しい温度に染まる。

 その中で青年だけは姿勢も崩さずそこにいた。

 膳子が全てを無視して週刊誌を読んでいても、目の前の二人が冷たい応酬を繰り返しても微動だにせず、まるで壁になったように姿勢良く立ち尽くすのだ。

 なかなかの精神構造だな、と膳子は感心した。

「あの人、あなたの家族? それとも上司?」

「まさか。とんでもないです」

 隣の青年を見上げて尋ねれば、彼は太い眉をきりっと天に向ける。

 顔は悪くない。犬系というのか、ほのぼのと可愛らしい顔だ。しかし性格の実直さが顔に滲み出している。

「私は三條様の執事の久保田と申します」

「また執事か……」

 膳子は飽き飽きとしたように、思わずつぶやいていた。

 支配人がここの屋敷の執事だった、と聞いたのは数ヶ月前、春先のこと。

 そしてまた執事だ。この店で働くようになってからというもの、これまで触れ合ったことのない世界がこんなにも軽々と目の前に現れる。

(そんなに今の日本に執事がいるもんかねえ……)

「主人は今夜の便で日本を立たれる予定なのですが、最後にどうしても行きたい場所がある……と、そうおっしゃられて。それで無理を申し上げました。あっ。申し遅れました、私、こういうものでございます」

 青年は再び腰をきっちり90度折り曲げて膳子に名刺を差し出た。筆記体の社名と、よく分からない肩書の横には久保田大輔と刻まれている。

 名刺は高そうな紙質で、膳子は辟易と眉を寄せた。

「お店、今日は定休日だからご飯作れないけど……」

「主人は……ここに忘れ物があった……と、そう仰られて」

「道を聞くのに声をかけたのがこのお店のシェフだったなんて、よくできた偶然ね。まるでここの主人が引き合わせてくれたみたい」

 三條と名乗るその老女は、背筋を伸ばしたまま膳子に顔を向ける。

「不躾だったわね。お休みの日に押しかけてしまうなんて」

 白い髪も皮膚に入ったしわも老女のそれだが、声には張りがあり、鋭い。声を聞くだけで、膳子の背筋が伸びる。

 この人は、無自覚に人の上に立つ人間だ。生まれの血がそうさせたのか、それとも生まれた先で身についたものかは分からないが。

「本当は来るつもりはなかったの。このお屋敷には思い出が多すぎるから」

「お嬢様」

「よして頂戴。もうそんな年齢でもないわ」

 彼女は支配人の声を制するとそっと壁に近づく。

 そして壁に掘られた彫刻に額を押し付ける。真っ白な指先で、壁の温度と湿度を探るように撫で、誰かに囁くように何事かをつぶやいた。

 そして口元に小さな微笑みを浮かべるのだ。 

「私、ここの伯爵様の婚約者だったのよ」

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