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「君」
だらしなくベンチに沈み込んでいた膳子は、最初その声に気づかなかった。
「そこの君」
二度呼ばれて、膳子はようやくそれが雑踏の音ではなく、自分に向けられた声だ……と気がつくことになる。
「はい?」
膳子はベビーカステラの袋を握りしめたまま、体勢を整え直した。
いつの間にそこにいたのか。膳子の目の前に立っていたのは背の高い老人だ。年は80は軽く超えているだろう。杖を手にしているが、体は矍鑠としている。おじいさん、などとは軽く呼べない空気である。
何より影に隠れた目付きが鋭い。口はへの字に折れ曲がり、小さな眼鏡の奥は、膳子を遠慮なく睨みつけてくる。
「えっと、どちらさまでしょう」
最初に膳子が考えたのは『母がまた面倒事でも起こしたのか』だ。
母の好みは面倒なことに、金持ち連中だ。
既婚者に手を出さないことだけは救いだが、母は到底結ばれるはずもない御曹司にばかり目をつける。
そしてまるでロミオとジュリエットのように大仰に騒ぐので、だいたい最後は相手の親が顔を出す。親戚や上司まで顔を出し、望まぬ恋を終わらせようと躍起になる。
そんな演劇のような騒がしさから母を引っこ抜くのが、高校生までの膳子の仕事だった。
しかし目の前にいるこの男、母の恋人にしては年が行き過ぎているので、その父親か……それとも母の好みが変わって、最近は後妻業でもはじめたか。
「母のことなら……」
先走りかけた膳子の声は、男の視線で尻窄みとなる。
「庖川膳子」
男が想像よりも矍鑠とした声で、膳子の名前を読み上げたのである。
「私はもう、母とは関係ない……」
「あの屋敷に潜り込んで何が目的だ」
「……は?」
ぞっとするような冷たい視線にさらされて、膳子の脳みそがフル回転した。
膳子は勉強は不得意だったが、人の顔を覚えるのは得意だ。一度見た顔は覚えている。
特に、目立つ人間であれば、なおのこと。
膳子の背が自然と真っ直ぐになる。だらしない足を立て直し、背を伸ばせば腹の底に力が蘇った。
汗がすっと引き、暑さにとろけていた目が鋭くとがる。
「潜り込むなんて人聞きの悪い。私はちゃんと雇われてまっとうに働いてますよ」
膳子はわざと、ゆっくり言葉を吐いた。
「先日は私の料理を食べていただくことができずに残念でした」
……戦うときには腹に力を入れろ。と、教えてくれたのもまた、母である。
「ねえ、お客様」
きゃあ、と楽しそうな声を上げて小さな子供がシャボン玉を振り回した。
夏の日差しを浴びて七色に光るシャボン玉が夏空へ消えていく。そんな穏やかな風景が嘘のように、目の前の男からは冷気しか感じない。
この男は、以前……春の始まりの頃に美食倶楽部へ訪れた客のはずだ。
仮面をつけず、不機嫌な顔もむき出しのままやってきた彼は支配人に追い払われ、それから一度もあの店に顔を出していない。
この暑い季節に古いタイプのスリーピーススーツ。この恰好はから分かることは、熱された路上を歩く必要のない人物、ということだ。
「威勢だけはいい女だ」
「よく褒められます。それに私があの店に働くことになった経緯は支配人にお尋ねください」
男は額に汗さえ浮かべずに、膳子を憎々しげに睨む。
「君の目的に興味もないが、君だって面倒事は嫌いだろうし、もし君が面倒を起こせば」
男は諦めたように言葉を飲み込む。そしてぐ、っと膳子に顔を寄せた。
ちょっと目を引くほどに背の高い男だ。
「弟さんに迷惑がかかるだろう?」
男から漏れた冷たい言葉と同時に、子供の大きな鳴き声が響く。
つい振り返ると、小さな子供がころんだ瞬間だった。
先程までシャボン玉を持って駆けていた子である。慌てて親が子供に駆け寄って、火が付いたように泣く子供を抱き上げる。その小さな手からシャボン玉の緑の容器が転がって、地面に虹色の泡を作る。
風が吹き、その泡が一斉に宙を舞った。
そんな一瞬に気を取られている間に。
「ちょっと……っ」
男は姿を消していた。
シャボン玉で反射した光が目を焼く。目をこすっている間に男の姿はかき消えて、膳子は慌てて立ち上がった。
「ちょっと、弟って……」
「あのう」
駆け出そうとした瞬間、膳子は鉄板みたいな壁にぶつかる。
「は!?」
敵意むき出しに顔を上げれば、目の前に立っていたのは先程の男とはまったく異なる男だ。膳子に全力でぶつかられてたたらを踏み、あわあわと転けそうになっている。
「す、すみませんっ」
そのくせ、反射的に謝るのだ。謝りグセのある男だな、と膳子は直感する。
目を白黒させ、足元もおぼつかないその姿を見ているうちに、膳子の全身から怒気がぬけた。
先程の男は姿を消した。もともと長く膳子と話をする気もなかったのだろう。公園をぐるりと見渡しても、背の高いスーツ姿は見当たらない。
……先程の男は、消えてしまった。
苦い味を飲み込んで膳子は小さく舌打ちをする。
あの手の男が姿を隠せば、膳子では到底見つけられない。不快だが、これ以上の深追いは不可能だ。
頬を両手で叩き、膳子は拳を振り下ろす。目の前の男は怯えるように数歩、退いた。
「……あーっと。こっちこそ失礼。あの、さっき、変質者っぽい人がいたから」
「変質者!?」
「違う違う、あなたじゃなくって」
目の前にいるのは、身長はやけに高いが、泣きそうな顔をしている男だ。
立派なスーツをまとって高そうな靴を履いてはいるが、どこか『着さされている感』が拭えない。年齢はきっと、膳子とそう変わらないだろう。
夏仕立てのスーツだが、ジャケットまでしっかり着込んでいれば暑いに決まっている。
だいたいスーツなんてものは室内にしか向いていない。どんな優秀な営業マンだって、外に出ればジャケットくらいは脱ぐ。しかし彼は首筋まできっちりネクタイを締め、ジャケットのボタンさえ緩めていない。生真面目な性格というよりも……。
(……職種のせいかな)
膳子は目を細めて男と、その背後を見る。
彼の後ろにほっそりとした老女が一人、立っていた。
しゃんとした背筋と品のいいブラウスとロングスカート。手にはフレレースの黒い日傘。細い日傘を掴む手には、日傘とおそろいの透ける手袋がつけられている。
目を覆う濃い色の眼鏡の奥の瞳はきゅっと閉じられていて、その目のしわさえ上品に見えた。
彼は老女を守るように立っている。ガードマンか、運転手か。
膳子がここ半年、よく目にするようになった『金持ち相手の職業』。そんな人種に、彼はよく似ている。
「あの、ご休憩中、申し訳ございません」
馬鹿丁寧な言葉とともに彼は体を90度に曲げると、膳子に1枚の紙を差し向ける。
そこには達筆な文字で住所が描かれていた。
「お店を探しているのです。洋館の中にある……美食倶楽部というお店を」
彼は偶然にも、膳子のよく知る名前を口にした。