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朝礼は続く。
全員の予定を把握したところで、室長のジョンは手元の紙を見ながら口を開いた。
「現在総合室で預かっている案件は、半年前から西の中庭で時折聞こえる、謎の唸り声の正体を明かせ、というものだ」
「当初は野犬が入り込んだのかって、夜間の警備を強めていましたけど、月に一度くらいの割合でしか聞こえないし、特に被害があったわけでもないので、うちに流れてきたやつですねぇ」
「そうだな。これが唸り声を聞いた者のリストだ。ルーカス、明日以降で構わないから話を聞いてきてほしい」
「わかりましたぁ!」
童顔で人懐こいルーカスは王宮内の各部署に知り合いがいることから、聞き込みを主に任されている。本人は優男の外見なので、相手に威圧感を与えずに懐に入れるからだ。
ルーさんのご実家が、英雄の一族ジブラルタル家の傍流なのは知っていたけど、一族の中でもかなりの武人で、当主のディアナ様とも懇意だなんて。穏やかで話しやすくて頭の回転も早くて、納得の凄腕諜報員ね。
「サム、散策の際に野犬の痕跡があったら知らせてくれ」
「ふむ、気にかけておこう」
神妙な顔で頷くサムは、前々宰相で、現在の国王陛下の教育係だったそうだ。監査機関だと隠すために、各部署の仕事の効率化を兼ねて雑務をまとめて処理するこの総合室を創立したらしい。エレナは日向ぼっこをしている好好爺のイメージしかなかったので、とても驚いた。
今の宰相のユアン様と昼食を共にしたり、クロをカメリーンに会わせるためにアイリーン様の元へ行ったり、各部署の長に会いに行ったり……今まで散歩好きのおじいちゃまだと思っていてごめんなさい!
「ローラは、王宮内の女性職員たちへの注意喚起を頼む」
「わかったわ」
女性職員の代表を務めるローラが頷く。彼女は王宮に勤めて二十年以上、様々な部署を渡り歩いてきたベテランだ。誰に対しても物怖じしない性格と確かな仕事力から、とても信頼が厚い。
数字に強くて、財務室と経理室で数年ずつ働いた経緯から、仲の悪い二つの部署間の会議で冷静に意見を言える人物としてかなり重宝されているって、ジョン室長がおっしゃっていたわ。非常勤じゃなければ、今頃どこかの部署の室長を勤めていたって。美人で仕事ができて家族仲が良くて、本当に憧れる!
「エレナくん、気が付いたことがあれば、いつでも、何でも、俺に教えてほしい」
「はい! 承知しました」
「……では全員、仕事に取りかかろう」
じっと自分を見つめる上司に気付き、エレナはにっこりと笑った。ジョンは少し口ごもった後、早口に朝礼を切り上げ、解散となった。
心なしかしょんぼりと肩を下げるジョンや、彼の背中をバシッと強めに叩くローラ、それを見て苦笑いするサムとルーカスを見送り、総合室にはエレナ一人。ノートの内容を覚えながら、先程出ていった人物のことを思い返す。
ジョン室長、どうして落ち込んでいたのかしら。たまに、総合室の皆さんが室長を慰めているような素振りを見せるのも、何でだかわからないのよね。こういうところは、総合室に来てまだ一ヶ月くらいだと、さすがに察することはできないなぁ。
総合室が極秘の監査機関であることを知った後、職員たちは改めて自分たちの正体を明かした。エレナは自分が信頼されてきたのかと嬉しくなったが、まだ何か隠していることがあるような気がして仕方がなかった。
そう、彼女は気付いていなかった。
自分の「危機回避能力」のこともだが、ジョンの熱い視線の行く先が自分であるということを。
ひとまず掃除に取りかかろうと、ノートをパタリと閉じて、エレナは立ち上がった。
ツヤツヤと磨きあげられた木の床や窓ガラスを見渡して、エレナは満足げにささやかな胸を張った。
「よしっ、部屋の掃除はこれで大丈夫ね! モップを掃除室に返しながら、ジョン室長の昼食を食堂へ取りに行こうっと」
誰もいない部屋で、つい一人言がこぼれる。雑巾とモップとバケツを持って総合室から出た。
今日もいい天気だ。緑豊かな中庭が目に入る。
掃除室へ向かう道すがら、朝礼で話題になった謎の唸り声についてエレナは考え始めた。
うーん、いくら鬱蒼としている植え込みが多いとはいえ、野犬の隠れる場所は限られるよね。おなかも空くだろうから、食料を求めて姿を現したときに誰かに見られてもおかしくないし。それに、毎日聞こえる訳じゃなくて一ヶ月に一回くらいっていうのも気になる。聞こえる日に共通点はないのかしら。
気分はすっかり名探偵だ。推理小説も好むエレナは謎解きに夢中のあまり、さして遠くもない掃除室を通り過ぎてしまったのだった。