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エレナが総合室に異動して一ヶ月が経った。
今日も朝礼から仕事が始まる。
総合室の会議用兼応接用のテーブルを囲んだ職員たちを室長のジョンが見渡した。
「おはよう。具合の悪い者はいないか? 本日の俺の予定は、これから室長会議に出席、昼食はこの部屋で済ませたい。その後は書類仕事に入る。用事がある者は昼以降に声をかけてくれ」
総合室の職員は個人で抱えている仕事が多いため、その日の予定を口頭で報告することになっていた。
ジョンに顔を向けられたサムがゆっくり頷く。
「調子はいつも通り。儂はこの後、アイリーン様の護衛騎士が迎えに来ることになっておる。昼食はケイトリンの部屋で取り、王宮内を散策後、休憩にはここに戻る予定じゃ。エレナちゃん、王都で話題の焼き菓子を手に入れたので、これを昼後の休憩に皆で食べられるよう準備してもらえんかの?」
「まあ、いつもありがとうございます! 承知しましたわ」
ノートに二人の予定を書き込んでいたエレナは、差し出された箱を受け取り、パッと顔を明るくさせた。そして、そっとサムの手元の持ち手付きのかごを見る。蓋が開けられたそこには、小さな黒い前足と頭がにょきりと飛び出していた。
ふふっ、自分も朝礼に参加しているつもりなのかしら。今まで生き物に触れる機会がなかったけど、こんなに可愛いと感じる日が来るとは思わなかったなぁ。
エレナは、かごの中からじっと室長を見つめる黒い亀を見て、そっと微笑んだ。
半月ほど前、第二王女アイリーンの可愛がる白い亀が脱走したと、総合室に依頼が来た。数日後、サムが中庭でたまたま白い亀を保護したときに一緒にいたのが、この黒い亀である。
元の中庭に返そうとしたが、ボスポラス海国固有の亀ではないことがわかったため、生態系を乱す恐れがあるのでひとまず総合室預かりとなったのだった。
「……クロはこれからサムと同行、カメリーンと昼食を共にする。その後、宰相との懇談が終わったサムと合流し、王宮内を散策。休憩時間に総合室で軽食を取る、ということでいいな?」
視線を感じたからだろう、ジョンが律儀に黒い亀に確認を取った。すると、新しく総合室の居候となった黒い亀改めクロの首が、ゆっくりと縦に振られるではないか。
そんな二人のやり取りに和んでいるのはエレナだけで、他の面々は彼女に気付かれないよう視線を交わし合った。
黒い亀だから「クロ」と名付けたのはエレナである。彼女が試しに名前を呼んだ途端、クロはひっくり返るくらい暴れた。その後、戸惑うエレナの手に頭をすり付け、静かに涙を見せたものだから、クロもただの亀ではないと警戒したのだ。
何故なら、王女が可愛がる白い亀のカメリーンは、海神に仕える精霊の子なのである。
片言で会話ができるので、カメリーンが心ないメイドの仕業で窓から南の中庭に落下してしまったこと、それから海鳥に狙われたり空腹に襲われたり、大変な思いをしたことがわかった。そんな窮地をこの黒い亀に助けられたらしい。
サムが目線を下げて、黒い亀に声をかける。
「クロ、はぐれるでないぞ」
「また頷いていますわ。ふふっ、物語だったら言葉のわかる動物が出てきたりしますけど、現実ではありえませんものねぇ。でもかわいらしいです」
ニコニコと笑うエレナは、精霊の存在もクロの特異性も、何も気付いていない。自覚のない「危機回避能力」を持っている彼女は、無意識のうちに面倒事を避けているようなのだ。
エレナは、クロをただの人懐こい亀で、他の職員たちも面白がって話しかけているのだと思っているが、実際は違う。会話ができる精霊の子カメリーンの前例を鑑みて、意志疎通が可能だと予測した。
言葉がわからないのかしゃべれないのかわからないが、ひとまず積極的に話しかけたり、ローラの子供たちの学習本を何冊かクロに見せた。段々と理解力が上がったようで、こちらの話を聞く素振りまで見せ始めたのだった。
「朝礼を続けますよぉ。ルーカス、元気です! 今日は月に一度の国王陛下とジブラルタル家当主の会談がありますので、当主のご子息の護衛に入ります。うーん、昼後の休憩には戻れるかなぁ。戻れないときはエレナさんに伝わるよう連絡しますねぇ」
ジョンに目線で促されたルーカスが朗らかに答える。次にローラが口を開いた。
「体調はまあまあよ。これから昼食と夕食の下拵えで厨房に入るわ。お昼はあちらで済ませてから、退勤まで経理室と財務室の合同会議に参加。休憩にはここへ戻るわ。エレナ、ここまで大丈夫? もっとゆっくり話したほうがいいかしら?」
「皆さんいつも聞き取りやすく話してくださるので、予定はしっかり書けましたわ。ありがとうございます」
「エレナくん、君の予定は?」
「そうですね、これから部屋の掃除を念入りに行って、ジョン室長の昼食を取りに食堂へ向かいます。昼食後は、返却期限が近い本が何冊かたまっているので資料室へ戻しに行くのと、いい天気なのでクロさんの水槽を洗って、後は各部署に書類を届けに行きます。他にも私に出来ることがあれば、何でもお申し付けくださいね」
ローラの気遣いにエレナは微笑み、自分の予定を告げる。
総合室は「左遷先」「閑職」「くせ者揃い」と噂されているが、それがいかに根も葉もないかエレナは異動してすぐに知った。職員たちはあたたかくエレナを迎えてくれたし、無理なことを押し付けたりもされない。どんな仕事にも揶揄される職務にも誇りを持って取り組んでいる。ただ、「くせ者揃い」というのは、当たっていたが。
総合室の本来の業務は、国王直下の監査機関なのだ。
カメリーン行方不明騒動後、エレナが仕事に慣れてきたところで打ち明けられた。抜き打ち調査に入ることもあるので、表向きは行き場のない雑務をこなす総合室として機能していることを教えてもらった。
まさか夜な夜な空想していたことが、本当だったなんて! 小説の中みたいな秘密機関の一員に、平凡なメイドでしかない私も加わらせてもらっているなんて信じられないわ。一層仕事に励まないとね!
趣味が読書で密偵活劇物語が好きなエレナは、自分の妄想が当たっていたことに興奮しすぎて、話を聞いた夜はなかなか寝付けなかった。総合室の職員たちが仕事を円滑に進められるよう助力は惜しまず、メイドの職を邁進しようと決意する。
地味で平凡だと自称しているエレナ。自身の能力の解明も兼ねての総合室異動になったことには、やはり気付かないのであった。