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「エレナじゃない。何かあった?」


 食堂のガラス扉を布巾で磨いていた背の高い女性が、エレナを見て目を丸くしている。


「ローラさん、お疲れさまです! えっと、洗濯室の帰りに、いい香りに誘われてここに来てしまいました」

「まあ、よく利く鼻を持ってるじゃないの。今ね、料理長が試食でパイナップルケーキを焼いているのよ」


 誤魔化すエレナに、ローラが目元の笑い皺を深めた。彼女も総合室の職員で、食堂と掛け持ち勤務をしている。


 昔は美人伯爵令嬢として有名だったそうで、目鼻立ちのはっきりした気の強そうな顔は、成人した息子を含めた五人の子持ちとは見えないほど若々しい。多少ふっくらしているものの、ナイスバディーは健在だ。


 コック服の胸元がとても苦しそうで、自分のぺったんこのものと見比べる……それはともかく。


「わあ、うちの母がよく作ってくれて、私の大好物なんです」

「そうなのね。忙しい時間帯は終わったし、あたしもそろそろ総合室に戻るから、おやつ用にもらってくるわ」

「いいんですか! 楽しみです!」

「じゃあ着替えてから行くから、また後でね」

「はい!」


 ローラはひとつにまとめた燃えるように豊かな赤髪を揺らして食堂の中へ戻った。

 そのキビキビとした後ろ姿を見送り、エレナは中庭を見ながら思案する。


 中庭か……そういえば、幽霊が出るって総合室に依頼が入っていたっけ。でも、ここを突っ切ったほうが総合室へ早く戻れるし、幽霊は夜しか出ないし、大丈夫よね。それに、太陽の光を浴びて、今からでももう少しマシな肌色になれるかもしれないもの。


 エレナは自分の胸や手足を見て、ほんの少し気落ちした。病から解放されただけでも幸運で素晴らしいことなのに、それ以上多く求めたら贅沢というものだ。


 それなのに。もし、ローラさんのような理想的な女性だったら、素敵な人と恋愛ができたのかもしれない、なんて。


 ボスポラス海国は元々漁師や船乗りが集まる港町が大きくなったもので、心身ともに健康的で小麦色の肌を持つことが良しとされた。男性は頑丈な体で明るい性格、女性はグラマラス体型で働き者が好まれる。


 病持ちだったため縁談の話はなく、顔立ちも平凡で色白の小柄な娘では、異性に好かれるわけがない。

 家族は無理に働かなくていいと優しいが、エレナの病を完治させるための十年間分の費用とたくさんの書物代は、家計を逼迫させていた。

 なまっていた体に二年間かけて人並みの体力をつけ、城仕えのメイド職を見つけたのが二十歳の頃。仕送りもできるようになり、今ではすっかり仕事が生き甲斐だ。


 それでも、たまに考えてしまう。本で読んだ、恋に恋するとはどんな状態なのか。愛に振り回されるのは楽しいのか辛いのか。


 ローラはボスポラス王家や英雄の一族であるジブラルタル家に嫁いでもおかしくないほどの名家出身だったが、現在の夫である格下の貴族と恋に落ち、実家から勘当同然で一緒になった。五人の子宝にも恵まれたけど、家計を助けるためにこうして働きに出てるのよ、とニカッとわらう彼女はとても美しかった。


 自分は、ドキドキする恋愛も、子を持つ喜びも、何も知らずに人生が終わるだろう。エレナはそれが少し、残念でならなかった。


 本音をささやかな胸に隠しながら、ほとんど自然のままにされた原色豊かな花々や木々の間を急ぐ。時折すれ違うメイドたちに会釈をすると、エレナの灰色のスカーフを見て、皆一様に励ましのような視線を向けてきた。総合室勤務というだけで痛ましく思われるが、そうではないと言いたくても守秘義務があるために言えず、何とも歯がゆい。


 こうなったら私が辞めずに明るく仕事を続けて、総合室が噂とは違うんだって、証明するしかないわね。あら、またあんなところで……。


 意気込むエレナの前に、噂など全く気にしていない人物の姿が。風に飛ばされてきたのか、黄色い花びらがその肩や髪に乗っている。


「サムさん、せめてお部屋の中でお昼寝しませんか?」


 エレナは苦笑しながら、ベンチでこくりこくりと船をこいでいるふさふさの総白髪と白髭の老人に優しく声をかけた。


 彼の名前はサム、総合室どころか城内でも最古参、「長老」とも呼ばれていた。先々代国王の時代からの重臣らしく、総合室を設立した人物でもある。

 現役時代を知るのは各部署の長やベテランの職員くらい。今では城内を散策しているか、総合室に置かれたご愛用のロッキングチェアでまどろむ、おだやかでお茶目なおじいちゃまである。


 物語だと、温厚な人が実は裏の実力者っていうのが定番だけど。異動前に掃除室のメイド長から、サムさんにくれぐれも粗相のないようにって真顔で言われたのも、気になるのよねぇ。


 名前を呼ばれたサムはピクリと反応し、ぐぐっと腕を伸ばすと、胸元のポケットに入れていた丸眼鏡をかけ、ぱちくりと目をしばたかせた。


「おお、エレナちゃんか。ふわぁ、散歩中につい、な。どこか用事があったのかの?」

「ええ、洗濯室に行って参りました。これから総合室に戻ります……って、えっ、動いた!?」

「すっかり忘れとったなぁ」


 サムの隣には拳ほどの大きさの楕円形の石が、黒いものと白いもの一つずつ、置いてあった。何だろうと不思議に思っていたのだが、その石が二つともゆっくりと動き出すではないか。驚いたエレナは洗濯かごを取り落とすところだった。

 それぞれの石から足が四つ、続けてにゅうっと首が出て、つぶらな瞳と目が合う。二匹は仲良さげに寄り添っていた。


「か、亀……?」

「この子らが先にこのベンチで日向ぼっこをしていて、それにつられてしもうた。ほれ、こっちの白いのは、数日前に依頼のあった第二王女アイリーン様のお気に入りじゃ」

「じゃあ、黒い亀さんは……」

「ふむ、西の中庭に池があって、そこに住んでいたものじゃろう。ルーカスが探索して見つからなかったと報告していたはず。たまたま黒いのがこの南の中庭に遠征したときに、脱走していたカメリーンと出会って、意気投合したのではなかろうか」

「カメリーン、さん……」

「それじゃあ、儂も総合室へ行こうかの。ジョンに説明せにゃならん」

「は、はい」


 傷とシワだらけの手に一つずつ亀を持ち、サムがよっこいしょ、と立ち上がった。黄色い花びらがヒラヒラ落ちる。

 悠々と歩き出す彼の背中をエレナは慌てて追いかけた。

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