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エレナが総合室に異動して三ヶ月が経った。
事務方の部署が集まる通称「南の弧」と呼ばれる建物の、中庭に面した外廊下を歩いていると、
「あら、通り雨かしら」
サアッという微かな雨音に、エレナは雲ひとつない青い空を見上げる。各部署から集めてきた書類や、替えのタオルが入った籠を濡らさないように、廊下の端へ寄った。ちょうど真上にある建物二階の外廊下が屋根代わりになっているので、風が強くなければ問題なく歩ける。
「常春の楽園」と称されるボスポラス海国は、年間を通じて半袖で過ごせるほど温暖な気候だが、今の時期は短時間で大雨が降ることが多い。強風によって遠く離れた街にも細かな雨が届くこともあり、こうした不可思議な天気になる。
この通り雨は、このあたりでは毎年特有の現象なのだが、王宮のメイドとして働くようになって二年が過ぎたエレナにとっては、いつも新鮮に感じられる。
「きれい……」
思わず立ち止まり、中庭の光景に見惚れた。
雨粒が陽の光を受けて輝き、植物や芝生が潤いその色を鮮やかにする様は、とても美しく感動すら覚える。
本で読んで知っていたし、去年も一昨年も経験したのに、やっぱり実際に見ると違う。
幼い頃から病弱で外へ出ることはおろかベッドから離れられず、本を読んで外の世界を空想していた。当時は今と比べて書籍は高価だったが、決して裕福ではない家計の中から両親は苦心して手配してくれた。今でもとても感謝している。
通り雨を見ると、当時よく読んでいた本のとある場面を思い出す。エレナは小さな声で呟いた。
「……『海と空の境は淡く、眼の前の全てが真っ青。風に流された細やかな雨粒が陽の光でキラキラと輝き、傷だらけのレインや呆然と座り込むサン、泣きじゃくるウッドに、優しく降り注ぎます。』」
当時のエレナには、この場面がどうしても想像できなかった。
エレナの実家は、隣国との境に近い深い森に囲まれた領地を治める子爵家である。王宮がある王都から遠く離れ、年間を通して曇りがちのため比較的涼しく、雨は灰色の空からザアザアと降るものだった。
更に、海まで馬車で三日かかる土地に住んでいたこともあり、健康を取り戻して「成人の儀」で海の神殿を訪れるまでまともに海を見たことがなかったことも要因だ。
(物語を書いた作者さんは、実際の光景を書き留めたんだろうな。私が海と空がひとつになる瞬間を偶然見れたとき、すぐに思い出せたもの。本の装丁も青で統一され、とても素敵だったっけ。背表紙に金色の文字で題名が書かれていて……)
「『雨の森に傘を忘れて海へ行こう』?」
「ええっ?!」
心の中を読まれたのかと思った。驚いて勢いよく振り向くと、顔見知りの洗濯室のメイドがすまなそうな顔で立っていた。
くすんだ黄土色の髪は肩の上で切り揃えられ、理知的な顔立ちにはそばかすとメガネ。エレナより頭ひとつぶん背が高く、手足が長い。耳にはピアス、首にはオレンジ色のスカーフを巻いている。
エレナは声を弾ませた。
「まあ、ドロシーさん! お疲れさまです」
「お疲れさま。後ろから急にごめんなさい。ちょうど昨日読んだ本の一節が聞こえたものだから。驚かせてしまって申し訳ないわ」
「大丈夫ですわ! 奇遇ですね、子供の頃から雨が降るとよく読んでいた、大好きなお話なんですよ!」
ニコニコと微笑むエレナとは対象的に、ドロシーは気まずそうに視線を下へそらす。
「子供たちが困難を切り抜けて成長する、いい作品よね。両親が経営する養育院へ届いた、近隣の本屋さんからの寄付の本の中で見つけたの。子供たちに読ませる前に内容を確認するのが私の役目だから」
「そうでしたか! 私、読書が趣味なんです。子供たちにはどんな本が人気なんですか?」
「……あの、引き止めてしまってごめんなさい。私なんかと関わりたくないでしょうに、気を使わせてしまって。本当に、ごめんなさい」
硬い表情でドロシーが頭を下げたので、エレナは目を丸くした。
「まあ、気を使ってなどいませんよ。私は、以前からドロシーさんとお話してみたいと思っていましたから」
「ジョン総合室長やローラさんからも聞いていたけれど、それこそどうしてなの? 私は、あなたを騒動に巻き込んだのよ?」
苦しげに言い募るドロシーの耳元で、赤い花のピアスが揺れる。
2ヶ月半ほど前、第二王女がかわいがる亀が行方不明になる事件が起きた。洗濯室のとあるメイドが亀を誘拐し、亀を見つけたと自作自演で王女に恩を売ろうと画策したのが事の真相だったのだが、それは誘拐犯のメイドの取り巻きの一人だったドロシーの告発によって判明したのだった。
告発の際、ドロシーは洗濯室へ用があったエレナに手紙を忍ばせた洗濯籠を預け、総合室へ持ち帰らせた。結局のところエレナは気付かず、総合室の他の職員が見つけ、解決の糸口に繋がったのだが。
エレナはにっこり笑った。
「事件の後、ドロシーさんは私に直接謝罪をしてくださいました。そもそも、ドロシーさんは誘拐に関与していませんし、亀さんは見つかりました。あまり過度にご自身を責めないでくださいね」
「でも……」
「そうそう、お話したいと思っていた理由ですが、ドロシーさんは私に接する態度が何も変わらなかったからです。総合室付きメイドとして働くようになってから、私は『かわいそうな人、不運な人』という認識で周りから見られているようでして」
雑務ばかり扱っていると軽んじられる部署に、明るさが良しとされる風潮の中では異質に見られる無表情が常の責任者。
総合室に異動して三ヶ月が過ぎ、以前と変わらずに明るく働くエレナを見て、「噂とは違うのね、安心した」と話しかけてくれる同僚も何人かいた。しかし、エレナの首元に巻かれた灰色のスカーフを見て、「閑職に追いやられてかわいそうねぇ」などと陰でヒソヒソと囁かれたことは、数え切れないほどある。
実のところ、周囲から心配され続けた病弱な幼少時代を思い出してしまい、少し滅入っていたのだ。
エレナの寂しげな表情に、ドロシーが驚き憤慨する。
「総合室やジョン室長の噂は、想像や見た目で決めつけてるような、根拠のない内容ばかりだもの。口さがなく言う人は、それだけ思慮が浅いのよ。それに、『かわいそう』って無責任な言葉よね。言ってる方は心配や同情なのかもしれないけど、本人が現状を辛く思っていないなら、見当外れも甚だしいじゃない」
「……やっぱり、ドロシーさんは素敵な方ですわ。だから、仲良くなりたいんです」
「当たり前のことを言っただけよ……でも、とても光栄だわ」
先程よりは幾分表情が柔らかくなってきたが、申し訳なさのほうが勝っているようだ。ドロシーの弱々しい笑顔を見て、エレナは言葉を続ける。
「それに、ドロシーさんと仲良くなったら私、ワガママを言うつもりですよ?」
「え?」
「養育院のお手伝いをさせてほしいのです! ローラさんから、毎月バザーを出していること、そのときの子供たちの世話やお店の店員などが足りないと聞きました。あ、もちろん養育院の責任者の方からの許可が出たらですけどね? 難しいようでしたら、バザーに出すお菓子などを提供できたらなって」
最初は「ワガママ」と聞いて表情を曇らせたドロシーだったが、エレナの話を聞き終わると、呆然と呟く。
「……あなたって人は、お人好しにもほどがあるわ」
「あら、私、すごく悪い顔してませんか? お手伝いしたいから仲良くなりたいなんて、打算的でしょう?」
「ふふっ、もう、エレナさんたら……。本当はね、私も、前からあなたと友達になりたかったの。明るくて頑張りやさんでかわいい子だなって、思ってて。あなたの信頼に応えるよう、努力するわ。これからよろしくね」
「ひええ! か、かわいいとか、買い被り過ぎな気もしますが……もちろん、こちらこそよろしくお願いしますねっ!」
「エレナさん……ありがとう」
ドロシーは晴れやかに笑う。その瞳に光るものが見えたエレナだが、気付かないふりをして頬を綻ばせた。




