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ジョンの怒りもどこ吹く風と、クロードはナプキンで口についた食べかすを優雅に拭きとる。子狼の姿でも品の良さは、さすが獣人国の貴族子息か。
しかし、余裕に構えていたクロードが急にうろたえだした。
『やべっ。そろそろまた元の亀に戻るわ」
「どういうことだ?」
『何でかわかんないけど、満月が頂点にいる少しの間しかこの姿でいられないんだよ。亀だと上手く発声できないし。なあ、頼むから、ボスポラスの魔女に会いに行くとき、俺も一緒に連れていってほしいんだ。元の成人した姿に戻るには、魔女の力が必要らしくて』
「……考えておこう」
『助けてくれた恩返し代わりに、獣人国の貴族の派閥とか誘拐事件の詳細とか、何でも答えるよ。国の機密事項はさすがに守秘義務があるから無理だけど。亀のときでも会話は聞こえるから、俺に単語のカードを用意しておいて。そうだ、エレナちゃんには俺の正体秘密だからね! 直接愛の言葉を伝えたいからさ! じゃあ、よろしくね!』
一方的にしゃべると、クロードはあっという間に黒い亀の姿に戻った。疲れたのか、手足と頭を甲羅に縮めて眠ってしまったようだ。
巷を騒がせていた獣人国の誘拐事件、その被害者であり騎士団長の息子だったクロード。今や黒い亀となり、しゃべれるのは満月の晩の少しの間だけ。亀でも意思疏通は可能なようだが、さすがにこれでは事件の証人にならない。そもそも他国の問題に、被害がなかったボスポラス海国が首を突っ込むのも不自然だろう。上の指示を仰ぐ必要がある。
しばらく呆気に取られていた二人の元に、宿直室からエレナがこちらへ向かって駆け寄ってきた。
「お待たせしましたー! 遅くなってすみません、顔見知りの宿直の方から急ぎの用があるとのことで、少しの間留守番を任されてしまって。これ、眠気覚ましのコーヒーです……お二人とも、どうかしました?」
「……いや、いただこう。エレナくん、ありがとう」
「僕も、もらいます。ありがとうございます」
コーヒーを入れたポットを片手に微笑むエレナにカップを差し出しながら、ジョンは考える。クロードの件はひとまず保留にし、このタイミングで戻ってきた彼女についてだ。
前回はカメリーン行方不明事件、今回は他国と魔女が絡む誘拐事件に自覚がないながらも巻き込まれ、真相には気付いていないものの精霊の子や狼獣人から興味や好意を示されている。危機回避能力の真意はどこだ? 危険がないと判断して受け入れているのか、もしくはまた別の能力持ちなのか?
エレナを総合室の職員の一員だと認め、監査機関を兼ねていることを明かしたが、危機回避能力のことは本人にまだ話していない。ジョンが恋患いで、エレナの能力を見過ごした事実がある。まだ未知の力が秘められていそうなので、意識し過ぎて能力を上手く使えなくなることを恐れたからだ。
それは、危機回避能力を総合室の力として活用したいからではない。エレナ自身に降りかかる危険を避けられなくなることを懸念してのことだ。これは総合室全員の総意である。気配り上手でメイドの仕事に誇りを持つ彼女のことを、大切な仲間と認めているからこその配慮だった。
そしてジョンにとって、エレナは特別な存在だ。
自分に笑顔を向けてくれたときから、彼女はジョンにとって闇を照らす光だ。穏やかで柔らかな月光。
この先何があっても必ず守り切ると、月に誓うジョン。彼女には、能力に惑わされず、自分の意思で、健やかに生きてほしいから。
バナナマフィンを手に取るエレナの楽しげな横顔を見て、ジョンは決意を新たにした。
エレナは夜食を届ける際、夜勤の交代をする顔見知りの女性騎士がいたので、一緒に王宮へ向かった。帰りは一人で戻ろうとしたが、ジョンとルーカスに止められた。
エレナは横を歩く自分の上司を見上げ、恐縮する。
「すみません、送っていただいて」
「気にすることはない。ルーカスが見張りを続けているし、寮まで近いからすぐに戻れる」
「ありがとうございます。クロさんのことも、よろしくお願いしますね」
恋する狼獣人のクロード……今は黒い亀のクロは、今夜からジョンが自宅へ連れて帰ることになった。正体がわかった今、エレナの部屋にいさせるわけにはいかない。ジョンが必死の形相で引き取る旨を告げると、エレナは、時々クロに何か話しかけている彼を見かけていたので、育てているうちに愛着がわいたのだろうと納得する。
「責任を持って預かるから、安心してほしい」
「はい!」
明るく頷きながら、エレナはチラリとジョンを盗み見る。
幼い頃から病がちだったので異性と縁がなく、身内以外の男性と並んで歩くのは初めてだ。歩幅が全然違うジョンが、自分の歩調に合わせてくれる。危ないからと、夜道を家まで送り届けてくれる。
女性として扱ってもらえることが、こんなに嬉しいとは思わなかった。
エレナがふわふわした気持ちで歩いていると、突然ジョンが真剣な声音で話し出す。
「エレナくん」
「は、はい」
「……キッシュもマフィンも、どれもとても美味しかった。ありがとう。また食べたくなる、味だった」
エレナは心がほっこりと暖かくなった。
拙い手作りに、「また食べたくなる」という最大級の褒め言葉を素直に伝えてくれるジョンに対し、自分こそ感謝の言葉を贈りたいくらいだ。
「喜んで頂けて、とても嬉しいですわ。ジョン室長は、何かお好きな食べ物はございますか?」
「……その、甘いものが、好物なんだが」
「私、お菓子なら焼き菓子や果物のゼリーが得意なのですが、今度召し上がってくださいますか?」
「もちろんだ。楽しみにしている」
ジョンがふっと笑った。
冷たく見える端整な顔立ちが、月明かりと相まって、いつもよりとても柔らかく感じ、エレナの鼓動がドキリと跳ね上がる。
ジョン室長の笑顔、初めて見たわ……どうしてなの、直視できない……! ええと、違うこと考えよう。室長は、甘いものがお好きなのね。何だか意外でかわいらしい……って、年上の上司に思う感想じゃないわよね! っと、危ない、つまずくところだった。ひとまず歩くことに集中しよう。うん。
エレナは頬を火照らせながら、いつもと違う上司の様子に動揺する。月の光でぼんやり明るいとはいえ外灯も少ない夜道、足元を気にするだけで精一杯。
当然、隣を歩くジョンが甘い眼差しで自分を見つめていることにも、気付くことはなかった。
ひとまずここでこの章は終わりです。
エレナが胸のときめきをどう解釈するのか!?
次回の更新は未定ですが、書き溜めてまとめて新章としてアップします。




