8
時刻はもうすぐ真夜中。
ジョンとルーカスは西の中庭にいた。周りを二階建ての建物が取り囲んでいるが、これは建物の形と位置から通称「西の弧」と呼ばれる騎士団の本部である。ほとんどの騎士が帰宅している中、一階の宿直室だけは窓から明かりが漏れている。夜勤で見回りをする騎士が時折訪れ、休憩を取ったり、仮眠をする場所だ。
西の中庭は静寂に包まれている。南国らしい植物が目に鮮やかな昼間とは違い、闇に染まった花や木々が満月にうっすら照らされたさまは、幻想的な美しさである。ここには、総合室の前に広がる南の中庭にはない、小さな池が整備されていた。亀や小魚が泳ぎ、時折それを狙って海鳥も訪れる。
周りをよく見渡せる中庭の中央、そこに配置されたベンチにクロが入ったかごは置かれていた。ジョンとルーカスはそれぞれランタンを手に、変わったところがないか、唸り声は聞こえないか、辺りを警戒している。
気配に敏感なルーカスに緊張感がないところを見ると、野犬にしろ他の動物にしろ、不審なものは近くにはいないようだ。それどころか、どこかに手を振っている。タタタと小走りに足音がジョンの耳にも聞こえてきたので、サッとランタンを掲げた。
「こんばんは、お疲れ様です」
照らされた光に眩しそうに目を細めるのは、メイドの制服である水色のワンピースと白いエプロンを着たエレナだった。
定時退勤後、一度寮に戻って湯を浴びたのか、いつもひとつにまとめている栗色の髪を二つにゆるく結んでいる。手には夜食が入っているであろう大きめのバスケットを持ち、急いできたからか頬を染めていた。
ジョンは普段とは違う髪型の想い人の姿に、胸がドギマギして言葉に詰まる。
「……わざわざ、すまない」
「お疲れ様です。エレナさん、二つ結びもかわいいですねぇ」
どうして、自分がなかなか言えないことをサラリと口にできるのか。
ルーカスの片思い相手を知っているから、エレナに恋愛感情を抱いていないことはわかっている。それでも、女性の扱いに慣れた十歳以上年下の部下の笑顔をジョンはまじまじと見つめた。
エレナはルーカスの言葉を受け流し、ふふっと微笑む。そしてベンチにバスケットをそっと置いた。
「ありがとうございます。ルーさんは誉め上手ですね。クロさん、ハムとバナナがありますよ」
「本当に、か、か、かわ……変わりは、ないか?」
「体調ですか? ええ、しっかり寝てきましたから」
ジョン、おしい。あと少しで、「かわいい」と言えたのに。苦しい誤魔化しだったが、自分の見た目に自信がないエレナは全く気付かなかった。
残念そうに自分の上司を見つめたルーカスは、クンクンと鼻を鳴らす。エレナはバスケットの蓋を開けていた。
「いいにおいがしますよぉ!」
「アボカドとハムのキッシュ、小さめのバナナマフィンとさつまいものマフィンを作ってきました。しょっぱいものと甘いもの、両方用意しましたので、お好きな方を召し上がってくださいね」
「ありがとう。こんなにたくさん作ってくれたのか……俺のために」
最後はボソっと呟くと、ジョンはバナナマフィンを手に取った。無表情で不機嫌そうに見える顔だが、心の中は感動で打ち震えている。
エレナは中からおしぼりやカップを取りだしていたが、ピタリと手が止まった。
「……あら? やだ、私ったら」
「どうかしたのか?」
「申し訳ありません。カップは持ってきたのですが、眠気覚ましのコーヒーのポットを置いてきてしまって。確か、宿直室に夜勤のためのコーヒーポットがあったはずなので、ちょっと行って参りますわ」
エレナは忘れ物に気付き、慌てて元来た道を戻る。見晴らしがいい場所にいるので、宿直室まで走る彼女の後ろ姿は目で追える。
「あんなに急がなくてもいいのに……うん、ちゃんと宿直室に入りましたね」
「……エレナくんの危機回避能力は、やはり今回も働いたな」
「室長、下がってください」
「ルーカス、まずはクロの安否を確認することが先決だ。あれをここから遠ざけてくれ」
「了解」
ジョンの指令に、ルーカスは低い声で応える。そこには、いつもの穏やかな優男はどこにもいなかった。鋭い目付きに隙のない身のこなしで、上司を自分の影に隠す。
かごの上、黒い亀の姿がどこにもなかった。そこにあるのは、黒い毛玉だ。もぞもぞ動いている。大きさは大人の両手で持ちきれるかどうか。
ルーカスは、一瞬の内にこれからの展開を何パターンも想像した。相手にこちらの攻撃が効かなかったら。生け捕りが失敗したら。どんな流れが来ても動揺しないようにという、仕事に取りかかるときの癖だった。
先に攻撃を仕掛けることを決め、ルーカスがゆっくりと腰を落とし始めた、その時。
『……あー、あー、んんっ。ふいー! やっと話せる! ハムとバナナもいいけど、俺もキッシュ食べたい!』
「どういうことだ……?」
「また話せる生き物の登場なんて、予想してなかったぁ」
黒い毛玉から、子供特有の高い声が聞こえた。ルーカスは肩透かしをくらい、ジョンはこれから面倒なことが起こる予感しかしなかった。
二人の戸惑いに気付いた黒い毛玉が、黄金色のくりっとした瞳を瞬かせた。
『ああ、ジョンにルーカス。驚かせて悪かったな! 俺だよ俺、クロだよ』
黒い毛玉がゆっくりと立ち上がる。
尖った耳、湿った鼻、突き出た口元、黒い毛に覆われたモコモコした体。
そこにいたのは、満月に照らされて黒い毛がキラキラと輝く、小さな狼の子供だった。




