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マリーとのお茶会を切り上げて、急いで総合室に戻ったエレナは、開口一番叫んだ。
「あの唸り声は、晴れた日の満月の夜しか聞こえないようです!」
部屋にはジョンとルーカスしかいなかった。二人は書類仕事をしていたようで、それぞれの執務机からポカンとエレナを見つめる。
「……何だって?」
「どういうことですか?」
エレナは入口近くの会議用テーブルにクロが入ったかごを置き、集まってきたジョンとルーカスに説明を始めた。
エレナが聞いたマリーの話はこうだ。
満月の日は必ず昼後から休みを取っているマリーだが、ここ半年、その翌日に必ず唸り声の噂を耳にしたという。今日が満月で、一昨日ローラから唸り声の話を聞いたことが繋がり、思い出したそうだ。
「満月って、今夜じゃないですかぁ!」
「そうなんです! 確かめるには、どうすればいいのでしょう!」
慌てるルーカスとエレナをよそに、しばらく口元に手を当てて考え込んでいたジョンが指示を出す。
「よし、これからすぐに夜勤の申請をしてくる。本当に満月の晩に聞こえるのか確認しよう。もちろん声の主を捕まえられるなら御の字だ。ルーカス、同行してくれるか?」
「大丈夫ですよぉ」
ガタガタ、ガタガタ。
テーブルに置いたかごが激しく揺れ始めた。
「ク、クロさん、落ち着いてください!」
「エレナくん、どうした?」
「わかりません、急に激しく動き出して。よいしょっ……えっ!?」
「うおっ」
エレナがかごの蓋を開けると、黒い亀が勢いよく飛び出し、ジョンのシャツにがしりと張り付いた。短い手足でこの跳躍力。さすがのジョンも目を見開き、驚きの声を上げた。
ルーカスが恐る恐る口を開く。
「もしかして、クロも僕たちと一緒に調査したいの? わあっ!」
「……わかった。では、クロも参加するということで……っ! わかったから落ち着け」
今度はルーカスの灰色のスラックスに飛びかかったクロ。
黒い亀の捨て身の行動に押されたのか、ジョンが許可すると、再び彼のシャツに飛び移る。今度は声を漏らすことなく、そっとクロをかごに戻した。
すると、今度はエレナがジョンへ身を乗り出す。
「ジョン室長! 私、お二人とクロさんに夜食をお届けしてもよろしいですか?」
「何?」
「ええ?」
思わずジョンとルーカスは顔を見合わせた。
無自覚の「危機回避能力」持ちのエレナが自ら行きたいということは、危険なことは起こらないのだろうか。しかし、能力発動の条件がまだわからないので、不確定要素で判断するのは良くない。
二人の思案顔を見て、断る口実を探しているのだと勘違いしたエレナは、力強く続ける。
「明日は休日ですし、昼後の勤務もしっかり行いますし、退勤後に寮の台所で軽食を作って、仮眠してから向かいます。お届けしたらすぐに帰ります。決してお二人の邪魔はしません」
時間外で働くお二人のために、私も何かしたいから夜食の話をしたのだけど……うう、好奇心がうずいて仕方ない。だって、本物の密偵活劇や探偵小説みたいな展開になってきたんだもの! ちょっとだけでも、現場を覗きたいじゃない!
趣味の読書愛をこじらせたエレナの熱意ある言葉だったが、ジョンは別のところに食い付いた。
「エレナくんの、手作り……!」
「室長、落ちついて。夜食は嬉しいですねぇ。僕なら野生の熊くらいなら武器なしで倒せますし、野犬が出ても本気出して瞬殺しちゃいますから、危なくないですよぉ」
「……ルーカス、頼むから生け捕りだ。それではエレナくん、申し訳ないが差し入れをお願いしてもいいだろうか。食材費は経費で落とすから、後で調理時間と配送時間と共に申請してくれ。翌月の給料日に反映する」
想い人の差し入れに想いを馳せたジョンだったが、おっとりした部下の物騒な発言で一気に現実に戻った。
顔を明るくさせて、エレナが声を弾ませる。
「メイドが我が儘言って申し訳ありません。ご配慮ありがとうございます」
「確かに君の職業はメイドだが、それ以上に総合室の職員でもある。室長の俺が認めた仕事なのだから、我が儘でも何でもない」
「ジョン室長……」
言動も行動も、なんて素晴らしい上司なのだろうと、エレナは感動した。ジョンは、自分を見つめるキラキラした紺色の瞳を眩しげに見つめ返し、ゴクリと唾を飲み込む。
「それに、今夜のことも心配いらない。……俺が、君を守……」
「お待たせー。お昼ごはん、お弁当を作ってもらったわよ! あらエレナ、お疲れ様。マリーと話せた? ……って、みんなしてクロを囲んでどうしたの……あっ、やだ!」
「ローラさん! 大丈夫ですか?」
ローラが両手に紙袋を二つ抱えて戻ってきた。
そのうちの一つが傾き、中身が落ちる寸前にエレナが駆けつけ間に合った。
なので、ジョンが熱いまなざしで伝えたかった心からの言葉は、もちろん耳に届くはずもなく。
「申請、行ってくる……」
「室長……」
肩を落として部屋を後にした自分の上司の後ろ姿に悲哀を感じ、ルーカスは思わず涙ぐみそうになった。




