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 波の音が遠く聞こえる。海鳥たちが抜けるような青空を悠々と飛び交う。


 ここはプラシア大陸の最南端に位置する、海神を奉るボスポラス海国の白亜の王宮。海を望む高く切り立った崖にそびえ立つ荘厳な建物は、陽の光をさんさんと浴びて輝きを増す。


 王族が住まう大きな円柱の塔を中心に、中庭を取り囲む半円の弧形こけいの建物が、東・西・南の方角でそれぞれ一つずつくっついている。北側の入り口には半円の白いエントランスがあり、王宮を真上から見ると、まるで四枚の花びらを持つ巨大な白い花が鎮座しているようだった。


 南の弧には王宮の事務方の職員が多く働いており、その一階の一番端に「総合室」と扉に書かれた部屋がある。内部では、白いエプロンを着けた小柄な女性が驚きの声を上げていた。彼女は、出窓に腰かけて長い足を組む美貌の男性に向けて、必死に呼びかけている。


「室長、ジョン室長!」

「エレナくん、どうかしたか?」

「コーヒーが! シャツにこぼれております!」

「ああ、すまない。せっかく君が作ってくれたコーヒーなのに」


 総合室の責任者、室長のジョンは、無機質な声で淡々と謝罪の言葉を口にする。コーヒーは冷めていたとはいえ、彼の白い半袖シャツにボタリボタリと茶色の染みが広がっているというのに、慌てるそぶりは一切見せない。表情筋が死んでいると噂される厳しい顔付きで、自分の胸元をじっと見つめていた。


 パタパタと駆け寄るのは、総合室付きのメイド、エレナだった。

 明るい栗色の髪を下のほうでお団子にまとめた彼女は、マグカップを受け取り、他に被害が及ばないようにそうっと出窓に置く。そして、少しコーヒーがかかったジョンの右手を柔らかなタオルで優しく包む。


「っ、何を……」

「良かった、他にはかかっていませんね」

「……エレナくん。話があるのだが」

「申し訳ありません。お話は後でお聞かせください。すぐに洗わないとこのシミはずっと残ってしまいます。まずは、そのシャツを脱いでいただけますか?」

「……すまない」


 いつもよりずっと近い距離にいる自分の上司がほんのり頬を赤く染めているが、エレナはそれどころではない。紺色のくりっとした瞳で真剣にジョンを見上げ、キビキビと指示を出す。彼はエレナより頭一つ分以上背が高いのだ。


 心持ち肩を落としたジョンがシャツを脱ぐ。灰色のスラックスはそのままに、上半身の褐色の筋肉美はまるで彫刻のように均整が取れている。憂いを帯びた薄紫色の瞳も相まって、初な女性なら失神ものの色気がだだ漏れだ。


 しかし何度も言うが、エレナはそれどころではなかった。衣装棚から同じ白いシャツを取り出し、ジョンへ渡す。


 ボスポラス海国の気候は、年間を通して少し汗ばむ南国の陽気だ。総じて礼服も勤務服も、涼しい素材で作られており、着替えは常備されている。

 ちなみにエレナのメイド服は、ふくらはぎまでの長さの水色の半袖ワンピースで、首もとにどこの部署かを示すスカーフ(総合室は灰色)を結び、白いエプロンを付けている。


「新しいお洋服はこちらに。では、洗濯室に行って参りますね。すぐ戻ります」

「本当にすまない。気を付けて」


 仕事が早いメイドは、さっさと部屋を後にした。


 残されたジョンは、シャツを肩に羽織ったまま、先程エレナが触れた自身の右手をじっと見つめる。







 総合室の前に広がる大きな中庭には、色とりどりの花々が咲き誇り、緑の木々が風に揺れる。今の時間はどの部署も休憩中で、ベンチでは数人のメイドが楽しそうに語らっていた。


 エレナはそれらを横目に急ぐが、胸に抱くシャツに目を落として首を捻る。


 室長、どうしたのかしら。


 冷静沈着、頭脳明晰、頑固一徹。それが「総合室」の責任者であるジョンへの周囲の評価だった。

 その彼が、仕事中はいつもの辣腕をふるっているが、休憩に入ると途端にぼんやりと物思いにふけっているのだ。

 まだ知り合って日が浅いし、上司にあたる人なので、何か理由があるのか深く突っ込みづらい。総合室の他の人に相談してみようか。


 エレナは一週間前、辞令を受けて掃除室から総合室付きのメイドとして異動になったばかり。王宮内の食堂の掲示板に貼られた辞令を一緒に見た同僚たちから、大いに同情されたものだ。


『エレナほど優秀で仕事熱心な人がどうして……あんまりだわ』

『しかも、あの冷淡そうなジョン室長がいるんでしょ。メイドなんてこきつかわれるかもよ』


 総合室は、左遷先、閑職として噂される部署だ。職務内容といえば、「各部署で取り扱いに悩む、またはどこに回していいかわからない案件」という、何ともふんわりとしたもの。しかも、室長のジョンを含めた総合室勤務の四名は曲者揃いと有名で、異動になった職員のほとんどはしばらくして退職している。


 それでもエレナは総合室勤務を了承した。一芸に秀でた訳ではないごくごく平均的で平凡なメイドではあるが、どこで働こうと自分の仕事をするまでだ。それに、辞めさせられる理由はひとつもないし、難癖を付けられるなら正式に抗議すればいい。


 結果、噂はやはり噂でしかなく、皆あたたかくエレナを迎えてくれた。メイドの仕事の範疇以外の無理難題を押し付けられる様子もない。決まり事としては、休憩や会議のときは同じテーブルを囲む、総合室内で見聞きしたことは他言無用ということくらいだ。


 噂の中に真実が少しは混ざっていることもあると思うけど、やっぱり自分の目で見て耳で聞いたことが一番ね。室長は自分の感情を顔に出すのが苦手なだけだし、あれだけかっこよくて仕事もできる人なんだから、皆に誤解されているなんてもったいないわ。


 他人事ながら、エレナはやきもきする。

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