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山南藩物語

怨嗟は雪と積もるとも

作者: 史燕

みなさまお久しぶりです。

1年ぶりの投稿になります。

いつもどおり歴史要素は添えただけです。


ごゆっくりご覧ください。


中松助五郎は、茶屋先の辻に立っていた。師走の寒も本格的になってきた、暮六つの事だ。そんな、風の中に白いものも混じり始めたこの時期に、ただただ助五郎は、じっと時を待っていた。


助五郎は影の薄い男だ。おそらく今朝会った人物と夕方に再開したとしても、おそらく相手は朝と同じ人物だと覚えてはいないだろう。そのくらい、印象の薄い男だ。「冴えない」という形容詞がこれほど似合う男もいないだろう。こけた頬に細い糸目。やや前かがみ気味に歩く姿は、武士ではなくどこかの下男か誰かだと言われても信じられかねない。齢は二十五を数えるが、見る人によってはすでに五十を迎えているように思われることもあった。

 助五郎には兄がいた。助五郎と違い、風体に華があり、誰からも好かれ、勤めにも誤りのない、そんな自慢の兄だった。助五郎も、兄が好きだった。部屋住みの厄介者でしかない自分を、両親が亡くなってから5年もの間嫌な顔一つせずに置いてくれたのだ。存在を迷惑がる兄嫁を、よく窘めてくれたものだ。「たった二人しかいない兄弟じゃないか」それが兄の口癖だった。

 そんな優しい兄の訃報が届いたのは、まさに青天の霹靂だった。同僚と勤め向きのことで揉め、お互いに刀を抜き、結果兄だけが死んだのだという。両者ともに非があるということで、相手方は三月の閉門、中松家は家禄三百石を十石減じたのち助五郎が家督を継ぐとの裁定が下った。助五郎としては不公平だと思ったが、兄嫁が裁きに不服を申さず、家が残るのならと他に親類も口を挟む者が無かったことから、裁定は覆らなかった。助五郎一人が力んでみても、暖簾を押した程度の騒ぎにすらならなかった。

 しかし、助五郎には納得がいかなかった。なにせ、普段温厚で人に頼まれれば嫌とは言えず、対立意見にすら「はい」と答えてしまうほどに争いを嫌った兄が、口論どころか刀を抜くなど、天地がひっくり返ってもあり得ないからだ。

 そんな助五郎の胸中を知ってか知らずか、現地を検死した役人の一人が助五郎に尋ねてきた。「お前の兄は居合をしたのか」と。

 もちろん、兄には居合はおろか通常の撃剣すら覚束なかった。頭もよく、人柄の良い兄と違って、一刀流の目録を得たことだけが、助五郎の自慢だったほどだ。死んだ兄はそのことにすら文句も言わず、「息子が生まれたら助五郎から手ほどきを頼もうか」などと冗談で笑わせて見せたのだから、当人の腕も察せられる。

 だが、役人はこう言ったのだ。

「いや、惜しかったな。逆手で抜いた刀が八分ほど出ていたのだが」

 つまり、逆手で刀を抜きながら斬りかかった兄は、惜しくも果たせず、先に抜いた相手に逆袈裟に斬り上げられたのだ。少なくとも、刀身が半ば以上に抜けた兄の刀を握って、兄は発見されたのだという。

 (これは何かおかしい)

助五郎がそう思ったのも無理もない話だった。

助五郎は誰かに明言こそしなかったが「兄は謀られたのだ」と思っていた。争いを好まなかった兄が、激情に駆られて拳を挙げるならともかく、腰の物に手をかけることなど思いもよらない。ましてや逆手に刀を抜くなど、慣れた者でも難しい扱いを、刀に関してはずぶの素人である兄が、できようはずも無かった。兄を殺した相手が、自身の罪を軽くするために死後も兄を陥れた。だとすれば、助五郎には相手を許せる道理など無かった。


兄の喪が明けぬ数日後、助五郎はふと目が覚め、厠へと立った。厠へは、助五郎の部屋から台所を通って向かわなければならない。その夜、兄嫁がすっと台所の勝手口から抜け出すのを、助五郎は目にした。

(夜中に一人とは不用心な)

助五郎は親切心で、兄嫁の後を尾けた。何事も無ければ戻ればよいし、嫌われているとはいえ、万が一の事故があっては困る。徒労に終わるなら、黙っていればいい。その程度の認識だった。

虫の無く音すらない夜中に、兄嫁は一人の男と会っていた。暗がりでよく見えなかったが、助五郎にはそれが、酷い裏切りのように思えた。兄が死んで初七日も済まぬうちに人目を忍んで会う相手など、碌なものではないと相場が決まっていたからだ。果たして、二人は助五郎が想像できる範疇を越えた、最も忌々しい場所に、入っていったのだった。

兄と争った相手方、真鍋源吾の屋敷である。閉門中の真鍋の屋敷には、当人以外には下男の一人もいないはずだった。

そんな男の家に何事かと怒鳴りこみそうになるのをぐっとこらえ、助五郎は兄嫁が出てくるのを待った。何かの間違いか、よんどころない事情があるのかもしれない、そう一縷の望みをかけて。半刻も待った頃だろうか。行燈の一つもない真っ暗闇の中だったが、夜目に慣れた助五郎には辛うじて屋内から出てくる人影を捕らえることができた。兄嫁と男だった。

さっと物陰に隠れながら、屋敷から中松家へ向かう二人の様子を窺う。相手方真鍋に相違なく、兄嫁は今まで見たことのないような顔を見せた。まさしく、女の顔だった。

一瞬、自分が追ってきた兄嫁はこんな女だったかと、助五郎自身も自問自答しそうになった。自身の誤りではなく、兄嫁が手ひどい裏切りを働いているのだという確信を持ったのは、二人が中松家の裏手に回り、熱い抱擁を交わしてから別れたのを見届けたときだった。間違いのない背信行為である。暗がりでありながら、兄嫁の上気した頬は、なぜかはっきりと見て取ることができた。


翌朝、助五郎は、兄嫁を糾弾しなかった。しても意味がないからだ。

代わりに助五郎はかつて自分が通っている道場を訪れた。助五郎が道場に向かうのはそこまで珍しいことではない。助五郎は決して上手いとは言えなかったが、道場で汗を流すことは好きだったからだ。

 しかし折悪しく、道場主で助五郎の師匠に当たる高野忠兵衛は、他用のため上府して留守だった。助五郎は渋々、まさしく渋々といった体で、行きたくない、可能ならば顔も合わせたくない、第二の目的地へと向かった。

 助五郎の兄弟弟子に「大井霞」という人物がいる。年の頃は十六で、名前の通り女性である。そして何より驚くべきことにこの年ですでに、中西派一刀流の皆伝を受けていることだ。“大井の麒麟児”。家中で尊崇を込めて語られるその名を、助五郎は苦々しく思っていた。


「二十年、二十年だぞ!」


 助五郎が、やっと目録を認可されるまでにかかった年数である。雨の日も風の日も、雪の中も木刀を振り続け、他に何の取り柄もない助五郎が認められた唯一の道だった。それが、たかが五年も剣を握っていない小娘が、助五郎の頭を飛び越えて遥か上の免状を貰っているのだ。苦々しく思わない道理も無かった。それでも――極力顔を合わせないようにしていても――実力を認めない訳にはいかない。そのため、道場で運悪く鉢合わせした場合は、十近くも年下の霞を恭しく上座に据え、自身はそっと離れて剣を振るうことにしていた。間違っても自分の方にやってこないように、あまり上達していない門弟を見つけると、すぐに霞に指導してもらうよう告げ、霞の手が空かないように図っていた。そしてなぜか、霞の方も居心地の悪そうにしながらも、助五郎の進めるがままに上座に座り、助五郎の進めるがままに門弟たちの指導を行うのだった。

 そんな、奇妙な関係を築きつつも内心は疎んでいる妹弟子の元をわざわざ訪ねたのは、それ以上に助五郎を突き動かすなにかがあったからだ。




「頼む、稽古をつけてくれ」


開口一番に遥か年嵩の兄弟子に言われ、大井霞は困惑していた。

普段道場で顔を合わせているが、実際はそこまで話したことはなかった。助五郎は高弟というほどの地位ではなかったし、道場に通っている長さならほかにもっと長い者が数え切れないほどいたからだ。かといって、邪険にするほど不仲ではないので、突然の来訪に驚いたものの、ひとまず客間に揚げてみたところ、突然畳に額を擦り付けんばかりに頭を低くして、このように頼まれたのだった。


「いえ、その、中松殿はもう目録を許された腕前であられますし……」


霞自身も、道場の年長者には、自分を好ましく思っていない者がいることも知っていた。助五郎がそうだという風に明確に把握しているわけではなかったが、だからこそ年長者には仮に切り紙すら許されていない相手でも丁重に扱ったし、指導の意見などは口が裂けても言わなかった。

 それが、突然何の前触れもなく指導を依頼され、おまけに沈みこまんばかり頭を下げられたのである。目を白黒させて呆然としている霞を責めることはできないだろう。

 理由は語らず「生死をかけた仕合の予定がある」とだけ告げて指導を請われた霞が、「ひとまず三ヶ月だけ、尋常の立ち合いのためという前提で」という話で稽古をつけだしたのは、相当に人が好いと言わざるを得ない。が、とにもかくにも、助五郎は条件付きとはいえ――師弟どちらにとってもいろいろな意味で不本意な――指導を受けるようになった。遠慮がなくなった霞の指導は道場で見せるものと一線を画しており、また、木や壁といった遮蔽物や場合によっては地面の土を投げて目くらましとするなど内容も助五郎の予想を超えていたが、息も絶え絶えとはいえ何とかついていけていた。それすらも霞の読み通りとしたら大したものだと内心舌を巻くほどだ。

 助五郎の得意技は突きだった。下段に構えた助五郎の繰り出す突きは、前屈みに立つ癖も相まって、技の出が読めなかったからだ。さらに、突きを喉元と鳩尾のどちらを突く際も、助五郎の剣筋はほとんど変わらなかった。これには、師範の高野すらも、「相手をするのに骨が折れる」と語る。――が、霞は違った。霞と助五郎の最初の修練の際、助五郎が下段に構えた瞬間、すっと霞の姿が消えたのだ。次の瞬間、助五郎は青い空を仰いでいた。自分が裾を払われたのだと理解したのは、空を遮る黒い影が、自分の首筋に突き付けられた後だった。

 その後は、防具を付けず、面を打たれ、胴を薙がれ、喉元を突かれた。木刀とはいえ、倒れ伏して意識を失いかけたことは両手の指で数え切れない。さらに、倒れたところを立ち上がろうとすると顔に泥を投げつけられ、身体を地べたに押さえつけながら首を絞められるのだ。それが有効だと後になってわかるだけに、文句も言えない。

 実際、修練が過酷で実践的であるのは助五郎にとってしてみれば願ったりかなったりだった。真鍋は家中でも遣い手として知られていた。なればこそ、その相手に立ち会った助五郎の兄を役人も「惜しかった」と称えたし、助五郎自身も生半な覚悟では復讐は叶わないと考えていた。だからこそ、「尋常の立ち合い」などで復讐を果たすなど望むべくもなかったし、目的を達するためには実力の及ばない身としては使える物は何でも使うつもりだった。もっとも、その一環がこの妹弟子への師事だということまで悟られているか否かは判然としなかったが……。




 そして三ヶ月の月日が過ぎた。助五郎の修練の成果は、上達したと言えば、上達したと言えるだろう。その内容は、剣の腕の上達というよりも、もっぱら戦場での状況判断能力や、地形などの活用方法など、およそ剣士に似つかわしくないものだったが。


「今日で、三ヶ月ですね」

「ああ、世話になった」


 三ヵ月にわたる奇妙な師弟関係は、いったんの終幕を迎えた。もちろん希望すればこの妹弟子は付き合ってくれただろうが、助五郎はここで区切りとすることを決めた。


「僅かばかりだが……」


そう言って、懐から束脩を差し出そうとする。

しかし、霞は頑なにそれを断った。


「特別なことはなにもしていませんから」


そう断ったうえで……。


「それに、兄弟子から束脩を貰うなんて妹弟子にできませんよ」


と、微笑んで見せたのだった。

助五郎の中には、もうとっくの昔にこの妹弟子を疎む気持ちはなくなっていた。むしろ、可能であれば、このままこの少女の指導を受けてもいいとさえ思った。

だが、それをするとついに決心が鈍るだろう。


(兄さんなら、「俺のことは忘れて、そのままずっと剣の道に励めばいいじゃないか」なんて言ってくれるのだろうが)


残念ながら、憧れた兄のようになれぬまま、兄のためにという名目で、もしかしたら自身の自己満足のために、この妹弟子の良心を無碍にして、復讐に身を委ねるのだ。

それを知らせるには、この妹弟子はあまりにも俗にまみれていなかった。

それを行わないためには、己を己から作り変えなければならいほど苦痛が伴うだろうほど、助五郎は道を進み過ぎていた。


――怒りはあるが、冷静さは失ってはいない。

――手段は選ばないが、目的は明確に。

――大義はないが、仁義はある。


思えば、兄嫁も哀れなものだった。

それが恋慕か、情欲か、それとも男女の不可思議な縁か。

いずれにせよ、彼女と真鍋の逢瀬は今日を限りで終焉を迎えるのだ。


「……もし」


今こそ辞去しようと振り向いた背に、霞の声が投げかけられた。


「もし、次に道場であったときは、ここでの修練と同じように立ち会いますから」

「それは御免蒙りたいな」


そう言っておきながら、助五郎はそれが不思議と嫌な気もしなかった。おそらくあの生真面目で意外と容赦のない妹弟子のことだ。やると言ったら実際にやるだろう。だが、それもいいかもしれない。ふんぞり返っている年数だけ人一倍重ねた自分のような連中など、一緒にしごかれればいいのだ。その際は、一番最初にしごかれてやるのもいいかもしれない。そして、こう言ってやるのだ。「某よりも楽なしごき泣き言を言っておいて、何を偉そうにしてるんだ」と。その暁には、あの妹弟子を師範代並みに扱ってやるのだ。あの小娘は、途端に困って、色を失うかもしれない。なに、使える物は何でも使ってやるから、せいぜい兄弟子からの目いっぱいの嫌がらせを甘んじて受けてもらいたいものだ。




――かくて、助五郎は辻に立つ。

閉門の期間を終え、大手を振って昼間に出歩いた真鍋源吾は、必ずこの辻を通るからだ。

――ゆえに、助五郎は立ち続ける。

指先がかじかもうと、肩に雪が積もろうと、目深に被った笠の内側から、ただ一点を見つめている。

背後は真鍋屋敷に続く一本道。ここが一番道が狭く、死角が多い。この辻から曲がって少し進むと武家屋敷通りであり、左右の道からは在地へ、助五郎の目の前からは町屋の続く城下の中心部へと続いている。

案に相違なく、真鍋は城下からやってきた。

早くから祝酒でも過ごしたのか、顔面が赤みがかっている。

もはや隠す気も無いのか、左手には兄嫁の手を握って二人そろって上機嫌だ。


ふと、助五郎の脳裏をよぎる。

――怨嗟は雪と積もるとも、春が来れども溶くることなし――

……本当にそうなのだろうか。

「自分は正しいのか」「この幸せそうな二人を手にかけるだけの理由があるのか」「そもそも公の裁きに寄らぬ、ただの私闘ではないか」

様々な声が、胸の内を去来する。

それを振り払うため「やあっ」と口の中で気合を入れる。

泥だらけで倒れ伏しても、面を割られて昏倒しかけても、立ち上がるために何度でもあげた気合いだ。


五歩、四歩と近づいてくる。

こちらも調息するのだ。目的は一つ、真鍋の首のみ。


三歩、二歩、一歩……今だ。

助五郎は真鍋に目掛けて駆けだした。


真鍋を突き飛ばし、土塀へと打ち付ける。

勢いに押され、兄嫁が尻もちを付くのを尻目に、真鍋の腰の脇差を抜く。

そして、一息に真鍋の胸に突き刺した。

今更狙いは誤らない。

背格好は違うとはいえ、何度もあの妹弟子に突かれ続け、逆に突く練習をしたのだ。最近では、突きだけならあの厳しい仮初の師匠から印可が下りるほどだ。

そして、同じく真鍋の大刀を引き抜き、その首を短く薙いだ。

これで、最大の障害は除かれたのだった。

兄嫁は、いまだに事態を受け入れられずにいるようだった。

無理もない、ほぼ一瞬の出来事だったのだから。

斃れ伏す真鍋だったモノに縋りつき、必死に呼び起こそうとしている。

その背に、鈍色の一閃が煌めいたのは、それこそ一瞬の出来事だった。




一刻後、茶屋先の辻で男女の死体が折り重なって発見された。

人々の噂では、夫を殺された妻女が侍に敵討ちを果たし、あえなく敗れたものの、なんとか敵を打ち取り、共倒れになったのだという。

妻女の手は倒れたのちも敵を突き刺す脇差を握ったままであり、敵の方も妻女を逆手で突き刺したまま事切れたことになっていた。

検死役の役人からは侍の首元に傷があり、切り口が女の得物と異なる点が指摘されたが、妻女の夫の事件と同様、何も不審な点はなかったという形で裁許が下りた。

 


そして、一刀流の道場では……。


「さあ、中松殿。まだ立てますよね」

「お、おう。やらいでか」


高弟の一部の強い斡旋によって師範代格になった“大井の麒麟児”と冴えない中年男が泥だらけになりながら稽古をする姿がそこにはあった。


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