2. ブランク・レジオン
座り心地の悪いホテルの椅子に腰を掛けた都丸は、ナトリーから差し出されたコップの水をぐいっと飲んだ。体の中を流れていく水の冷たさが、都丸に幾分かの冷静さを取り戻させていた。
「はあー。山で道に迷う、橋は崩落する、私の正体も早速ばれてしまうし、本当についていない」
再びベッドの上に腰かけたナトリーは、溜息交じりにそう言った。つい先ほどまで手に構えていた短銃を、彼女は枕元に設置された照明の下に置いた。銃の銀色の表面は、照明の橙色に照らされて鈍く光っていた。
「あの、ナトリー?」
都丸は心の中で慎重に言葉を選びながら尋ねた。
「……いくつか質問があるんだけど。その……手帳にも書いてあったけれど、君は本当に『不死』、なのかい? 確かに、あの高さの橋から転落して無傷というのは妙だと思ったけど……」
「まあ、そうね」
ナトリーはさも当然の事の様ににそう言った。
「なんなら、このホテルの屋上から飛び降りてあげましょうか?」
「いやいや、いいよ。こっちの心臓に悪い……」
都丸が手を振って否定すると、ナトリーはくすりと笑った。
「冗談! 私だって、好き好んで飛び降りたくはないから。不死、と言っても痛みは感じるもの。まあ、死ぬほどじゃないけど」
ナトリーは少し自嘲的な口調でそう言った。都丸はナトリーが、河原で倒れていた時のことを思い出していた――彼女が本当に不死身なのかの真偽はともかくとして、少なくとも落下の衝撃で気を失うくらいには痛覚があるということだ。都丸は言葉を続けた。
「……それから君は、エントリアという場所から来たと言っていたね。そんな場所、僕は初めて耳にしたんだが……」
「あれ、こっちじゃ通じないのかな、エントリア」
「全く。まあ自分もそれほど地理に明るいわけじゃないけど……」
「じゃあ、こう呼んだ方がいいかな? 『ブランク・レジオン』とか」
「『ブランク』だって?」
都丸は危うく椅子から転げ落ちそうになった。
「ブランク? じゃあ君は、ブランクから来たっていうのか?」
「ええ、そうね。私たちはあの場所をエントリアって呼んでるけれど」
「いや、しかし……あの場所は……」
目を見開いている都丸に向かって、ナトリーは不敵な笑顔を浮かべた。
「フフ……屋上から飛び降りるよりも、よっぽど不死の証明になると思わない?」
カンラのから遠く離れた北の地に存在する土地、ブランク・レジオン。通称ブランクと呼ばれるその場所は、都丸だけではなく、カンラの住民で知らない人間は皆無と言ってよかった。その場所は、この時代を生きる人間にとってはあまりにも有名だった。それはとある山岳地帯の盆地に存在する円形の土地で、海砂を撒いたような白い土地が延々と続く不毛の大地だと、多くの人が聞いていた――聞いていた、というのは、都丸を含め全ての住民たちが、その場所のことを伝聞でしか知らないからであった。その場所を実際に自分の目で見たことのある人間はいない。何故なら、その土地に近づいた人間には、確実な死が待っているから……。
「ねえ、ブランクってどうやって出来たか知ってる?」
驚きの表情で固まったままの都丸に対し、ナトリーが尋ねた。
「……通り一遍のことは聞いている。『渡良瀬博士』っていう人が頭が変になって、生き物全てを滅ぼす毒薬入りの爆弾を吹き飛ばしたからだってさ」
都丸はそう言って、コップの水で再び喉を潤した。
「……まあ、大体合ってるかな」
ナトリーはふう、と息を吐いて続けた。
「じゃあ……私が渡良瀬博士に作られた人工生命だって言ったら、あなたは驚く?」
「渡良瀬博士の?」
水が気管の方に回って、都丸はゴホゴホと咽た。涙目で彼がナトリーを見ると、彼女は至って真剣な眼差しで都丸の方を見ていた。
「……正直、あまりに突飛な話過ぎて理解が追い付いていないけど……本当に?」
「ええ」
ナトリーは静かに頷いた。
「私たちは、渡良瀬博士によって生まれた不死なる存在。博士の暴走で彼女の研究所が吹っ飛んで、ブランクが出来上がった。普通の人間はとてもじゃないけど立ち入れなくなったけれど、私たちは平気だった。私たち、つい最近まであのブランクの中で暮らしていたの」
「それが本当なら……なんてこった」
都丸は呆れたような声で言った。
「じゃあ君は、あの渡良瀬博士の暴走の真実を知っているのか? あれのせいで、どれほどの人間が死んだと……重大事件だぞ、それは……」
「あー、それは……」
都丸の質問に、ナトリーは目を反らして苦笑いを浮かべた。
「……私、そのことについては全然知らないの」
「そうなのか?」
「ええ。私、その爆発があった時は眠っていたものだから。部屋の中で寝ていたら、急に全部が吹っ飛んで、瓦礫の下敷きになっちゃった。命に別状はなかったのだけれども……」
ナトリーは何かを思い出したように深々と溜息を吐くと、都丸の方をじっと見た。
「でも、何かが変なのよね。私の記憶だと、渡良瀬博士はそんな頭のオカシイことをするような人間じゃなかったはず。人類の幸福を常に追求し続けていた、とても素晴らしい研究者だった。だから、何か裏があると思ってるんだけどね。博士はその爆発で無くなってしまったからもう本人には聞き出せないけれど、彼女の最期の行動は、ちょっと不可解だと思う。……私、その真相を知りたくて、一人でブランクを出てきたの」
「それで山道を彷徨っていたと……。でも、なぜカンラの街なんかに? ここは賑やかだけど、そんな真実が見つかるとは思えないけれど。ブランクとも、渡良瀬博士とも、なんの所縁もないと思うけど」
都丸がそう言うと、ナトリーは彼が手渡した赤い手帳を手元で開いた。
「真実を知っているはずの人がいる。このカンラの近くに。それは私と同じ不死の人工生命体……」
都丸は再び目を見開いた。
「君みたいな奴が、このカンラにいるっていうのか?」
「ええ、そのはず。あの爆発があった時、私は寝ていたから何があったのかを詳しく知らないけれど、他の人たちなら知っているはず。私と同じ不死の者。あの爆発の現場に居合わせた連中。その連中は、ブランクが死の土地へと変わった後で、世界のあちこちへと散っていったの。私は彼らを追ってる。真実を聞き出すために」
ナトリーは手帳の中の幾何学模様に目を落としながら、さらに続けた。
「私がブランクにいた時、その中の一人がカンラという街にいるって話を噂で聞いたの。だから私、その人に会うために旅をしてた」
「なるほど……」
都丸は小さく相槌を打ったが、その実、心の中では何の整理も付いていなかった。
「……それにしても、不死身なんてものが存在して、それも何人もいるというのか。まったく、羨ましい限りだよ」
「あ、私の話、信じてくれるのね?」
「そうだな。僕は疑って面白くない話は疑わない主義だから」
都丸がそう言うと、ナトリーの表情はパッと明るくなった。しかしすぐさま、炎に水を掛けたように彼女の表情は暗くなった。
「よく考えたら、変に信じられても困っちゃうのよね。不死の技術に関しては、極秘事項だもの」
「……面倒臭いな」
「だって、不死だなんて、誰もが羨む能力でしょう? あんまり迂闊に喋ってたら、いつか捕まって病院で解体されかねない!」
「その割にはペラペラ喋っていたように見えたけど……」
都丸が苦笑してそう言うと、ナトリーはフン、と息を鳴らした。
「手帳の中身を読んだんでしょう? それならもう、あなたの運命は二つに一つだもの」
彼女はそう言うと、ゆらりと立ち上がって都丸をまっすぐに見据えた。都丸は彼女の手元に気が付いて、驚いた。彼女の手の中に、いつの間にか先ほどの拳銃が握られていたのだ。
「待て! ちょっと待ってくれ!」
「あなたには二つの選択肢があります……」
ナトリーは優し気な笑顔を浮かべて口を開いた。
「一つは、ここで私に口止め目的で殺害されること。もう一つは、あの手帳の内容を墓場まで持っていくこと。どちらが好みですか? 一応あなたは、私を街に案内してくれ、忘れ物を届けてくれた恩人です。どちらかと言えば、私としても前者は選びたくない選択なのですが……」
「後者、後者だ! 決まっている!」
都丸は顔の前で手を勢いよく振りながら必死に喋った。
「誰にも言わないさ、約束する。本当さ」
「本当に?」
ナトリーは銃を持った手をぶらぶらさせながら尋ねた。
「本当だ。……それに、そんな非現実的な話、仮に誰かに漏れたって誰も信用しやしないさ」
「ふーむ。それもそうですか」
ナトリーは少しの間、あごの下に手を当てて思案顔を浮かべると、「じゃあ、こうしましょう」と手をポンと叩いた。
「あなた、カンラには詳しいのでしょう?」
「あ、ああ。そりゃあ、自分の生まれ故郷だから……」
「じゃあ一つ提案、というかお願いです。少しの間、このカンラの街を案内してくれませんか? ガイドってやつです」
「はあ?」
予想外のナトリーの発言に、都丸は思いがけず素っ頓狂な声を上げた。
「カンラの街はとても広いです。私の目的は同胞を探し出して話を聞くことですが、まず間違いなく難航します。この街をよく知る人間がいた方が、捜索もしやすくなると思います。それに……」
「それに?」
「私、ブランクから外に出るのは初めてです。普通の人間の生活に関しては、全くの初心者。だから、この街の生活に慣れるまで色々と手伝ってほしいのです。……そう、今思いつきました! もし私のお手伝いをして頂けるのであれば、あなたを口封じに殺害しないであげます」
都丸は少しだけ肩を落として、項垂れた。
「なんという……なんという強引な交渉……」
「それで、どうしますか? 助けてくれた方が賢明だと思いますけどね。相手はか弱い女の子ですよ? 助けてあげた方がいいんじゃないですか?」
ナトリーは急に顔を近づけて返答を迫った。都丸は苦々しく笑いを浮かべながら、
「……別にいいよ。どうせ最近暇だしね」
と返答した。するとナトリーは再び満面の笑みを浮かべた。
「いやー、話が分かる人は好きですよ」
都丸は椅子から腰を上げて、一つ伸びをした。そして、笑顔を浮かべて佇んでいる目の前の少女に静かな口調で言葉を告げた。
「しかし、一応訂正しておくけれど……」
「……? なんでしょう?」
「あの橋の上から転落してピンピンしているような奴を……罷り間違っても『か弱い女の子』とは呼ばないと僕は思うね」