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1. 川底の雑記帳

 翌日の朝早くから、都丸は再び山登りを敢行することにした。山中に置き去りにしてきた、愛しのギターを回収するために。山の中腹にまで戻ってみると、ギターは確かに地面に横たわってそこにあった。

「ああ、よかった……」

 人と出会う確率の小ささから考えれば、昨晩の内に盗まれるということは考えにくい事態ではあったけれど、それでも無事に自分の手に楽器が戻ってきたことに彼は喜んだ。朝露のせいか、胸元に抱き寄せたギターの表面はわずかばかり湿っていた。


 都丸はギターを背負うと、さっさと下山してしまおうと歩きだした。彼の脳裏には昨日目撃した映像が、まだ鮮明に残っていた。吊り橋の縄が切れる音、少女が布切れの様にひらひらと落下していく場面、そして川岸に横たわった彼女の髪の間から覗く美しい横顔……。


 色々な情景が彼の頭の中に浮かんでは消えていった。そんな想像に浸っているうちに、都丸は殆ど無意識のうちに、ナトリーと出会った吊り橋下の河原へと歩を進めてしまっていた。

 河原の石の上に立ってみると、彼女の倒れていた場所は調べるまでもなく明白だった。恐らくは上から落ちてきたであろう木の板と古いロープが辺りに散乱して、幾つかはまるで墓標の様に、地面に深く突き刺さっていた。

 都丸は改めて空を、そして上方に見える吊り橋の残骸を眺めた。そして、あの高さから真っ逆さまに降ってくる白い服の少女を想像した。彼の想像力では何度考えてみても、口に出すのも憚られるような残酷な情景が思い浮かんだ。しかし現実は、少女は無邪気な笑顔を浮かべ、手を振りながら街の中へと消えていった。

「うーん……」

 彼女が助かったのは喜ばしいことだ。しかし何か、何かが変だ――都丸は口を真一文字に閉じて、そんなことを思っていた。


 と、都丸が流れる川の水の方へと視線を投げた時、彼は川底に奇妙な赤い光を見た。おや、と思って彼が水辺に近づいてみると、赤い長方形の物体が水の中に沈んでいることに気が付いた。そして都丸はその赤い物体に見覚えがあった――それは昨日ナトリーがずっと眺めていた、手帳のような本だった。昨日はドタバタしていて気が付かなかったが、どうやら彼女が転落した際に川に落ちて、置き去りにされていたに違いないと都丸は考えた。

 彼は靴と靴下を脱いで冷たい川の水に足を踏み入れ、水の中から赤い手帳を引っ張り出した。この手帳が、これまた奇妙だった。一見すると布地の表紙のついた紙の手帳にしか見えないのだが、水から引き出してみると表紙の上の水は瞬く間に流れ落ちて、一瞬にして乾燥したのだ。そしてその表紙のみならず、中のページたちも全く濡れていない――少なくとも一晩中、冷たい川の中に沈んでいたはずなのに!


 都丸はなんだか胸騒ぎを覚えて、その手帳のページを開いて中の文字を読んでみた。そして、手帳の最初に掛かれていた手紙のような文面に、彼は腰を抜かして河原の上に尻もちを着いた。


 ――ナトリー・フロウへ

 この手帳はあなたに預けます。あなたのための特注品です。好きに使ってください。これは私からの、最後の餞別(せんべつ)であると受け取ってください。

 あなたは随分と抜けたところがありますから、特別に忠告を与えます。まず第一に、あなた自身のことについて、迂闊(うかつ)にペラペラと話すべきではありません。特に、あなたたちの不死に関する性質については、特別な理由がない限り口外無用です。第二に、あなたの人生に関してですが、深く考えて生きる必要はありません。好きなことをして、好きなように生きてください。私の様に。過去に固執(こしゅう)するのは無益です。自由に生きればそれでいいのです。

 最後に、あなたにおっちょこちょいな性格を付与したのは私の責任です。しかし今の私は、責任を取れるような立場にありません。私は謝るしかありませんが、しかし、悲観することもありません。人生は長いです。大変なことも数多く遭遇するかと思いますが、あなたにはそれに耐えうるだけの明るい性分も備わっているはずです。是非、人生を楽しんでください。

 ではまたいつかお会いしましょう。(なお、このページは読了後に破棄すること!)


「なんじゃこりゃ」

 都丸は素直にそう思った。しかし意味の分からない文字列の中で、ただ一つの単語が彼の興味を惹いた。

「『不死に関する性質』……」

 都丸の心の中の困惑が、次第にうすら寒い恐怖感へと変容していくのを彼は自覚していた。不死。不死身。確かにそう考えれば……いや、そんなことがありえるはずがない。しかし、あの状況を考えると……。

 普段の彼であれば、そんな荒唐無稽な話は一笑に付していただろう。しかし彼の脳裏には、その非現実的な可能性を真面目に考えさせるだけの、奇妙な目撃状況が鮮烈に残っていたのだ。

 都丸は冷や汗をかきながら、手帳のページを捲った。次のページからは、更に難解だった。そこに掛かれていたのは文字ではなく、幾何学模様の羅列だった。奇妙な図形の上に×印や〇印が書き込まれていて、その横には英語のよう筆記体が書かれていたが、その意味するところは全く判然としない。

「あっ、これ……」

 パラパラとページを捲っていった都丸は、延々と続く幾何学模様の並びの中に、辛うじて読める文字列の並びを発見した。それはとある住所だった。カンラ、ノスターキー、1869-0021-1、『ホテル・銀の歯車』――それは都丸の家からほど近い場所にある、小さな旅の宿の名前だった。

 昨日の口ぶりから想像するに、ナトリーという少女は旅の人で、カンラを目的地として山道を彷徨っていた。そして恐らく、彼女はこのホテルに滞在する予定だったに違いない――都丸はそう考えて、そして直ぐに気が付いた。ということは、昨日の不思議な少女は、今このホテルに宿泊しているのではないか……?


 都丸の決心は早かった。彼は赤い手帳を自分のポシェットに仕舞い込むと、足早に山道を下り始めた。その目的は勿論、あの不思議な少女と再び会って話をすることだった。

 不死――なんとも馬鹿馬鹿しい単語! しかし一考に値するだけの出来事と、都丸は遭遇してしまったのだ。彼は一刻も早く、彼女と話をしてみたいと思った。静かな微笑みを湛えて悠然と立っていた美しい少女、ナトリー・フロウなる人物と。


 ホテル・銀の歯車は、カンラの北にある小さな建物だった。都丸は宿泊したことこそ無かったが、幾度となくその前の道を通っていたので、その玄関に辿り着くのは造作もないことだった。彼が意を決してホテルの玄関をくぐると、フロントには閑散とした雰囲気が流れていた。旅人と思しき人間が数人、ソファに深く腰かけて煙草を吹かしていたり、あるいは新聞を広げて浮かない表情を浮かべていた。カウンターに立って都丸の方を見ているホテルマンも、その場の薄暗い雰囲気も手伝って、まるで退院したての病人のように顔色悪く見えた。

「宿泊ですか……ご予約は……」

 都丸がカウンターに近づくと、ホテルマンは疲れの覗く笑みを浮かべて都丸に尋ねた。

「ああ、いえ。そういうわけではないんです。……あの、このホテルに『ナトリー・フロウ』という人が泊まってはいないでしょうか?」

 都丸がそう言うと、ホテルマンの顔が僅かに引きつった。都丸は咄嗟に一言、

「私はその人の知り合いです。会う約束をしていたのですが……」

と付け加えた。

「ナトリーさんですか。ええ、泊まっておられますよ。部屋にいるかは分かりませんが……お呼びしましょうか?」

「ええ、お願いします」

 都丸がそう言うと、ホテルマンの男は古めかしい受話器を手に取り、何やらダイヤルを押し始めた。

「……ああ、どうも。ナトリーさんですか? 今、あなたの知人という方が玄関に……」

 どうやらナトリーは在室中であるらしかった。ホテルマンの男は一言二言、受話器の向こうの人物と会話した後、急に声の音量を下げてぼそぼそとした口調で話を続けた。

「……ええ……いや、別に変な様子では……ええ……いえ、何やらギターのようなものを背負ってはいますが……」

 男はちらちらと時折こちらを見ながら会話を続けた。その声量はどんどんと小さくなっていき、カウンターを挟んだだけの都丸の耳にも聞き取りにくくなった。男が自分を見る訝し気な表情に、彼は若干不安を覚えたけれども、待つより他に方法は無かった。やがて男は受話器を耳から離し、都丸の方に向き直った。

「……お会いになるそうです。鍵を開けておくので、206号室に来てくれと」

男は都丸にそう告げると、受話器を元の位置に戻した。都丸は軽く会釈を返し、ホテルの二階へと至る階段を上り始めた。


 206号室は、階段を上って直ぐの場所にあった。都丸は深く深呼吸をしてから、その赤褐色の扉を軽くノックした。反応は無かった。彼は少し間を置いて、今度は最初よりも強めに戸を叩いた。反応はやはりなかった。

「んん……?」

 都丸がドアノブに手を掛けてみると、部屋の鍵は掛かっておらず、扉は苦も無く開け放たれた。部屋の中は天井から吊り下げられた照明が煌々と光っているが、人の気配は無い。彼は恐る恐る、部屋の中へと足を踏み入れた。自分はいったい、何をしているのだろう――都丸の心の中に、自分の蛮勇に対する懐疑の念が一瞬過ったが、彼の抑えきれない好奇心がその足を前へ前へと進めていた。

 無人の206号室の中央に立った都丸は、周囲を注意深く見まわした。と、壁際に置かれた机の上に、ベージュ色のショルダーバッグが無造作に置かれていることに彼は気が付いた。それはまさしく、昨日あの少女が肩から掛け、その中身を河原の上にばらまいたあのバッグであった。

「やっぱり……」

 都丸はそう呟くと、机の近くへと歩み寄った。机にはバッグの他に、一冊の本が開いたままになっていた。そのページには例の手帳と同じく、見たこともないような文字で長々と文章が書かれていた。彼がそのページに目を奪われていると――唐突に背後で気配がした。


「動かないで!」

 不意を突くような甲高い声に、都丸の全身はびくりと震えた。彼は目だけを動かして、机の前に立てかけられた鏡の中を見た。鏡の中には、酷く狼狽した自分の顔、そしてその背後に立って険しい表情を浮かべている少女、ナトリー・フロウの姿があった。少女の手には拳銃のようなものが握られ、その銃口は都丸の後頭部へと向けられていた。

「……名乗りなさい! あなたは何者? こんなに早く居場所がバレるとは思ってもみなかった。大したものね!」

「待て、待て! 誤解だ! 僕は怪しい人間じゃない。ほら、昨日の……」

 都丸が動揺しながらそう言うと、ナトリーは鏡に映る都丸の顔を目を細めて見た。

「……あなた、昨日山道で会った……」

「そう、それ。よかった、思い出した?」

「……じゃああなた、私の後を付けてきたってわけ? ますます怪しい……」

「それも誤解だ! 偶然君の居場所を知ったんだ。君が昨日、川に忘れていった手帳の中に書いてあったからさ」

 都丸がそう言うと、鏡の中の少女はゆっくりとその銃口を下げた。都丸はほっと溜息を吐いてナトリーの方に向き直ると、腰に掛けていたポシェットの中から川底から引っ張り出した赤い手帳を取り出した。

「君のものだろう?」

 ナトリーはそれを目にするなり、ぎょっと大きく目を見開いた。彼女は半ば奪い取るようにして都丸から手帳を受けとると、そのページをパラパラと捲った。それから、顔を上げて都丸の目をじっと見ると、

「……中を見たのね」

と覇気のない声でそう言った。

「悪気は無かったんだ。偶然それを見つけて、偶然中を見てしまって……」

「悪意の有無は本質的な問題じゃない」

 ナトリーは部屋の隅のベッドの縁に、崩れ落ちるように腰を掛けた。そして途方にくれたような顔で床を見ながら言葉を続けた。

「問題は、あなたがこの中身を見たという事実。あなた、この本の中身を見たのね? そして……()()()()()()()()()()を知ってしまったのね?」

 ナトリーはそう言って、若干潤んだ瞳で都丸を見た。都丸は顔を引きつらせながら、小さく頷いた。

「……あーあ。またやらかしちゃった。こんなに早くバレちゃうなんて。肝心なところで致命的なことをやらかすのよね、私って。うっかり癖って、なかなか直らないものね」

「じゃあ、君は……本当に?」

「昨日……私が橋の上から落っこちるところも見ていたのでしょう? それじゃあもう、変に隠し立てしても仕方がないってことね」

 ナトリーは力なく首を振ってからゆっくりと立ち上がった。そして困惑している都丸の目を力強く見据えると、堂々とした調子でこう言った。

「私の名前は、ナトリー・フロウ。人の手によって作られた、不死なる生命。遠く離れた場所、エントリアという土地からやってきました」

 少女はそう言うと、舞台の上の女優のような大げさな身振りで、都丸に向かって一礼した。都丸は驚きのあまり言葉も出ず、ただ不自然な笑いを浮かべることしか出来なかった。

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