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0. 不死なる看板娘

 リンリンリン、リンリンリン、リンリンリンリンリンリンリン……。


 目覚まし時計がけたたましく金属音を響かせると、卵から芋虫が孵るような緩慢な動きで、一人の少年が布団の中から外へと這い出してきた。都丸綾文(あやふみ)という名前のその少年は、目覚ましを手で叩いて黙らせると、眠り目を擦りながら部屋の中を見回した。そして、彼は壁に掛かっているカレンダーをぼんやりと見つめ、今日が休日であることを確認すると、ほっと安堵の息を吐いた。


 窓の外では通りを行く人々の声が賑やかだった。彼がゆっくりと立ち上がってカーテンを開くと、眩い日光が部屋の中を満遍なく照らした。ガラス戸を静かに開けると朝の涼しい風が空気の淀んだ部屋の中に舞い込んできて、都丸の寝惚けた顔の上を撫でていった。


 都丸は道を挟んだ向こう側に立つ、小さな茶色の店先に視線を投げた。一人の少女が店の中から立て看板を引っ張り出している最中だった。彼女は時折、道行く人たちと朗らかな挨拶を交わしながら、店前の準備をテキパキと進めていた。

 やがて彼女は都丸の視線に気が付くと、ニコリと笑って小さく手を振った。都丸も苦笑いしながら手を振り返したが、直ぐに部屋の奥へと引っ込んだ。仕事中の彼女の邪魔をしてはいけない――というのは建前で、寝起きの情けない顔を長々と晒すのを気恥ずかしく思ったのだ。青年は洗面台の前に立つと、冷たい水を掌にすくって、自分の顔へと叩きつけた。




 喫茶店で働くその少女は、ナトリー・フロウという名前だった。彼女は数か月ほど前から、都丸が住んでいる安宿の前の喫茶店で働き始めたのだった。栗毛色の長髪が美しい彼女は、予てよりの常連客のみならず、近隣に住む住民たちの評判の的だった。街外れの寂れた一軒に過ぎなかったその店に客足が戻ったのは、偏に彼女のお蔭であるといっても過言ではなかった。彼女目当てにやってくる客が増えたのは勿論のことだけれど、それ以上に、彼女の愛想のよさと快活さが、店を明るい雰囲気に変えたのが大きかった。もっとも、愛想の悪い店長の態度は、その店の珈琲の味と同じく、創業以来変わることがなかったのだけれども。


 ナトリーは誰に対しても愛想よく振る舞ったし、その笑顔を絶やすことがなかった――しかし、その笑顔の裏にある秘密が隠されていることを、都丸少年は知っていた。

 ナトリー・フロウは普通の人間から、少しばかりずれている。彼女は少しばかり、人間ではないのだ。


 都丸が彼女の秘密を知ってしまったのは、全く偶然の出来事であった。それはナトリーが喫茶店で働きだすよりもずっと前の話だった。

 それは、ある晴れた日のこと。その日都丸は朝早くから、街から遠く離れた山奥を訪れていた。彼は背中に小さなギターを背負い、人気のない山道を息も絶え絶えに登り、山の中腹にある開けた場所に腰を下ろした。

 都丸は作曲という趣味を持っていた。そしてその作曲活動は、もっぱら人気のない山の中で行われた。緑豊かな山々の風景、そして眼下に広がる街の屋根を眺めながら、彼は五線譜とペンを傍らに、片時も手放さない愛用のギターの弦をかき鳴らす――森の緑と爽やかな高原の空気、街から離れた非現実的な空間が、自分に思いがけないインスピレーションをもたらすのだと彼は信じていた。そしてそれは、街中で下手くそなギターを鳴らすと近隣住民に迷惑が掛かるという、世知辛い事情を反映してのことでもあった。


 普段であれば、こんな人里離れた場所に通りかかる人間など都丸を除けば皆無だったから、彼は人目を気にせず思い切り演奏することが出来た。しかしこの日だけは、少々事情が異なった――彼が気分よくバラードじみた曲を演奏していると、彼の前方に一人の少女が通りかかったのだ。


 その少女の恰好は、山を登るにしては少々不自然にも見えた。白っぽいワンピースに大きめのショルダーバッグ。少女は手に持った手帳のような本に視線を落としながら、思いつめたような表情を浮かべている。少女の存在に気が付いた都丸は慌てて演奏を中断したのだけれど、少女は視線を下に落としたまま、都丸の方には一瞥(いちべつ)もくれず、目の前を通り過ぎていったのだ。


 彼女が通り過ぎ、その姿が森の中に消えてしまった後も、都丸の動揺は中々収まらなかった。こんな場所で人と遭遇するという事態に驚いていたのも一因ではあった。しかしそれとは別に、その出会った少女に対して形容しがたい違和感を覚えたためであった。どこが変だ、と明確にはいえないのだけれど、何かが妙だった。何かが……。

 都丸は暫くその場にじっとしていたが、やがて変に胸騒ぎがしてきて、彼女が去っていった下りの坂道の近くへと歩いて行った。そしてその場所から下方の風景へと目を向けた彼は、より一層の驚愕を覚えることになった。

 都丸の視線の先には、一本の吊り橋が見えていた。遠目に見てもボロボロに朽ち果てているその橋は、老朽化による危険のせいで、地元の住民によって長いこと渡るのが禁止されている場所だった。そしてその橋の始点に、先程の白い服の少女が立っていたのだ。そして彼女は相変わらず手元の本を眺めながら、ゆっくりとその橋を渡り始めていた。

「おーい! そこは危ないぞー!」

 都丸は思わず橋に向かって叫んだ。あの心許ない橋を渡ろうという度胸には感服するが、見ている都丸の方が気が気ではなかった。

「おーい! 危ないって! ……くそっ、遠くて聞こえないのか?」

 都丸は腹の底から声を張り上げたが、橋の上の少女が反応する素振りは無かった。彼女はゆっくり淡々と、その歩みを進めていった。そして彼女の体が橋の真中辺りに差し掛かった時、まさに都丸が恐れていた事態が起こったのである。

 その橋を支えていた吊り縄が、突然切れたのだ。そのバツン、という鈍い切断音が都丸の耳に届いた時、彼女の体は宙へと浮いていた。風で舞い上がった白いハンカチの様に、彼女の体は崩れた橋と共に下方へと墜落していった。やがて彼女の体は森の陰に隠れて見えなくなり、都丸の視界に何の変哲もない静かな森の風景が戻った。


「えらいこっちゃ……」

 都丸はギターを地面に放り出して、猛然と坂道を駆けだした。

「……あの橋の下には、川が流れていたはずだ。しかし……」

 彼の中には絶望感が渦巻いていた――あのつり橋から下の川岸までは、四、五十メートルはあったはずだ。あんな無防備な体制で転落したら、まず命は助からない。なんなら、遺体がまともな形に保たれているかも怪しい――彼の心中には嫌な想像がいくつも湧いて出てきたけれど、彼はそれを振り払うように首を振りながら坂道を走った。木の根のように細かく分岐した山道から川岸へと至るルートを選び、殆ど転げ落ちるような勢いで坂を下っていった。

 

 吊り橋の下に都丸が辿り着いてみると、粉々になって地面に突き刺さった橋の残骸たちに紛れて、白い服の少女が倒れていた。彼女の体は角ばった石だらけの川岸に転落していたのだ。彼女のバッグに仕舞ってあったと思しき本やメモ用紙、ガラス瓶などが辺りに散乱していて、一部は川の水の中に沈んでいた。

 都丸は恐る恐る倒れている彼女に近づいた。乱れた栗毛の髪の合間から見える彼女の顔は、奇跡的に綺麗なままだった。血の一筋すら流れていない。彼女の足は明らかに不自然な方向に曲がっていたけれど、それ以外には驚くべきことに、目立つような外傷がなかったのだ。そしてその仰向けに倒れた体の全体が、周期的に上下に動いているのに気が付いた。

「……息がある!」

 都丸は駆け寄って膝を着くと、彼女の背中を力強く揺らした。

「こういう場合、どうしたらいいんだ……? 心臓マッサージ? 人工呼吸? ……いやしかし呼吸はありそうだが。医者を呼ぶか。しかし、連絡手段は……」

 都丸は酷く混乱していた。こんな人気のない山の中じゃ、通りかかる人の助けも期待できない。しかし応急処置の方法なんて、子供のころに習って以来忘れてしまった。一体どうしたら……。

 そして――都丸を更に狼狽させる事態が起こった。倒れていた彼女が、天高くから地面に叩きつけられたはずの彼女が、ムクりと起き上がったのである。

「……うーん、いったいなあ。気を失っていたのかな……」

 彼女はまるで昼寝から目覚めでもしたかのように、平然な表情を浮かべて辺りを見渡した。そして、彼女は、呆然とした表情の都丸と目を合わせた。

「……だれ?」

「そりゃあこっちの……いや、それより大丈夫なのか? お前……」

「えっ、えーと、まあ……大丈夫……?」

 少女は頭を掻きながらそう言うと、ゆらりと立ち上がった。服に付いた埃をパタパタと手で払って、それから大きく伸びをした。不自然に折れ曲がっていたはずの右足は、しっかりと地面を踏みしめていた。

「……あんな高いところから落ちたのかー。通りで体が痛むわけだ」

 彼女は呟くようにそう言うと、周囲に散らばったバッグの中身を拾い集め始めた。そのあまりにも自然な振る舞いに、都丸は唖然としていた。少なくとも数十メートル上から落ちた人間の取る行動ではない――何者なんだ、こいつは。

「君は……名前は? どこから来たんだ? 本当に体は大丈夫なのか? それからええと……」

 都丸は湧き上がってくる疑問を外に押しやるように、一気呵成に質問を浴びせた。少女は澄ました表情で地面にへたり込んでいる都丸を見下ろしながら、

「私は、ナトリー。ナトリー・フロウ。とても遠い場所から来ました」

と語り聞かせるような口調でそう言った。彼女は都丸の姿をしげしげと眺めると、何か思いついたような表情を浮かべて、

「あなた、『カンラ』っていう街を知らない? この近くにあるって聞いてきたのだけれど」

「……カンラなら、僕が住んでいる街だけれど……」

 都丸がそう言うと、ナトリーと名乗る少女は急に表情を明るくした。

「本当? あの、お願いがあるのだけれど、カンラまで案内をお願いできるかしら? この山道、結構複雑で、どっちに行ったらいいか全然分からないの。持ってきた地図も、何だか古いみたいだし……」

「それは構わないけど……」

 都丸は改めて目の前の少女を眺め見た。腰に手を当てて自分を見ているその立ち姿は、服が多少土で汚れている部分を除けば、何の不自然もなかった。その細く長いスラリとした手足には傷一つなく、微笑を湛えているその顔つきはいたって健康的に見えた。しかし状況を鑑みれば、その自然さが却って不自然にも映った。都丸は少女の前で冷静を装ってはいたけれども、何か底冷えするような感情を心の奥底に感じていた。


「これで全部かなあ。何か足りないような気がするけれど……」

 ナトリーは散乱した持ち物集めを終えると、都丸に向かって再び案内を頼んだ。心のモヤモヤは全く晴れることがなかったが、しかし別段、彼女のお願いを断る理由もなかった。都丸はナトリーに先導して、道の悪い山道を下り始めた。都丸はナトリーの体を気遣って普段よりもゆったりとしたペースで道を下ったが、当の本人は非常に軽快な足取りで、木の根や崩れた岩で凸凹した道を進んでいった。

 途中、都丸はふと立ち止まって後方を振り返った。緑色の葉の隙間から、吊り橋の茶色い終点がちらりと見えた――あんな高いところから落っこちて無傷とは、やはり奇跡としか言いようがない。自分は今日、奇跡に巡り合ったのだ。彼はそんなことを考えながら、街へと向かう足を少しだけ早めた。


 入り組んだ道を三十分ほど歩き、街の末端にあたる地域へと二人は辿り着いた。ナトリーは感激と安堵の混ざったような表情で、街を形成する橙色の屋根の連なりを眺めていた。

「ありがとう、助かった! お礼は……きっと後でしますから!」

 ナトリーはそう言って都丸の手を取ると、ぶんぶんと上下に振った。

「あ、ああ……」

 都丸の苦笑いに、ナトリーはクシャっとした笑みを返すと、手を振りながら街の方向へと歩き去っていった。どこに行くつもりだとか、病院は大丈夫なのかとか、色々と言うべき台詞があるように都丸は思ったのだが、下山の疲れも手伝って、思うように声が出なかった。彼は少女に小さく手を振って、彼女が建物のか陰に隠れて見えなくなってしまうのを見送るのが精一杯だった。


 彼女が去った後も都丸はその場に呆然と立ちすくんでいたのだが、暫くしてからようやく動き出して、自宅へと帰還しようと決心を固めた。既に太陽は山際に沈み始めており、日光は僅かに朱色を兆していた。いよいよ帰ろうと足を踏み出した瞬間――彼は自分の愛すべきギターを、山の中腹に放り出してきたことを思い出した。


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