第二話 幸か不幸か
視界がボヤけてしまって、状況がわからない。
ここはどこだ。
どれぐらい気を失ってしまっていたかは定かではないが、開こうとするだけで目の奥がジンジンと痛むのだから、かなりの時間眠っていたことは間違いない。
見えないならばと、他の五感に意識を集中させる。
いい匂いがした。
柑橘系の甘い匂いと花の香りが混ざり合ったような匂いだ。
二、三度大きく深呼吸したその時になって、自分が横たわった状態で肩から爪先までなんらかの毛に包まれていることに気が付いた。
考えるよりも早く身体が動く。
聞いたことがある。
子供の時にだけ訪れる不思議な出会いがあると……もし、自分が寝転んでいる場所が三メートルもあるような怪物のお腹の上だったら。
瞬時に立ち上がり、何度も目を瞬かせ、先程いた場所に目を凝らしその正体を確かめる。
……猫さんがいた。
猫さんが描かれていた。
ハートのエフェクトを出しながら、ウィンクしているクッションだ。
それも一つではない。
僕を支えるように床にいくつも置かれていた。
いつのまにか右手に握っていたものを広げてみる……猫さんが描かれた毛布だった。
こちらは沢山のハートに覆われた中央で猫さんが両目を瞑っていらした。
自分の中での緊張と現実とのズレに戸惑いながらも、一呼吸した後落ち着いて辺りを見回す。
どうやらアパートか何かの廊下らしい。
僕がいるのは玄関を上がってすぐのところだ。
五十センチ幅の廊下が七メートル程続き、木製の扉にぶつかったところで終わっている。
左右の白塗りの壁にも正面同様のものが二つずつ取り付けられていた。
それらの茶色の扉は小窓などは付いておらず、奥がどうなっているかを確認することはできない。
「やっと起きたの、惰眠貪郎」
その声の主を見たとき言葉を失ってしまったのは、自分の身に起きた事を思い出したからでもあったけれど、何よりも全てをさし置く程に彼女が儚げで愛らしかったからだろう。
小柄な体つきに金髪と紅眼はそのままに、一際目を引いた黒一色の服の代わりに白とピンクで彩られたボーダー柄のモコモコ上下を着ていた。
死神などとんでもない。
まさしく天使のそれだ。
「何か言いなさいよ。まさか目開けて寝てるんじゃないでしょうね、寝癖放任主義者」
遠くで鐘がなったように我にかえる。
そうだ。
僕は目の前の女の子に言わなくてはならない。
あの夜何があったか、ここはどこなのか、それを聞くよりも先にまず僕が佐久間翼という名前である事を伝えなくてはならない。
冴え始めた頭で文章を組み立て音にする。
「かわいくて言葉が出てこない」
あっ……違う。
これじゃない。
それでも言わなくてはという自分を鼓舞する言葉というか、他意なき脳内思考というか。
「はぁあああああああああああ!?」
しっかり誤解されたようだ。
顔を瞳に負けず劣らず赤く染め、ものすごい勢いで辺りを見回している。
どうやらモコモコを着ていることに今気付いたらしく、両腕で必死に覆い隠そうとしている。
袖も可愛いモコモコなのだけれども。
「見るな!この……へんたい!」
射殺さんばかりに睨みつけ、その言葉だけを残すとこちらから最も近い扉を乱暴に開け奥へ消えてしまった。
しばらく呆然としていたが、また一人取り残されてしまった翼はやむ終えず手元にある情報だけを整理する。
あの日の夜、彼女の前で気絶してしまった僕は何らかの方法で現在地であるここまで運ばれた。
まず間違いない新たな情報として、ここは彼女の家だ。
ゾクりと背筋を正させるような緊張感が体を通貫する。
女子の家になど生まれてこれまであがったことなどない、ただの一度もだ。
ましてや相手は初対面である。
さながら初期装備で魔王の部屋に通された勇者の気分だ。
討伐などとんでもない、問題はどう逃げるかだ。
現状に震えながらも振り返ってみたが、まだ何か引っかかる。
大事なものを忘れている。
根本になるような……そうだ。
「僕はどうして自殺なんかしようとしたんだ……」
端から身を投げ、命を捨ててしまおうと考えていたのは覚えている。
覚えているのだが、肝心の理由が思い出せない。
追い込まれていた。
いくら考えても分かるのはそんな他人からでさえすぐに分かるようなことだけ。
「トイレ……」
得体の知れない恐怖から逃げるように立ち上がると、トイレがありそうな扉へと向かう。
『記憶が欠落している』そのことで頭がいっぱいだった。
それはつまり、行動は無意識に奥底にある経験則に従うということ。
具体的には、アパートには大体玄関から一番近いところに設置されているというもので。
『気を失っている間に何者かに手を加えられたのか』などと考えながら経験通り玄関から最も近い扉の取っ手に手をかけ、躊躇なく押し開けた。
最初に目に入ったのは真っ白な便座……などではなく、真っ黒な服に今まさに身を包まんと片足立ちをしている女の子だった。
わなわなと震える彼女を見て状況を把握した時にはすでに時遅く、弁明の余地なく僕は腹部への衝撃と共に背後の壁に叩きつけられた。
激しい痛みと引き換えに手に入った新たな情報は、下着も黒だということだけだった。
ここまで読んで下さりありがとうございます!