水牢の少女
「わたしの笑顔の中には、いったい何がいるのでしょう」
私がカウンセリングに関わった少女は、そう言いながら微笑む。
この少女の身体は、普通の子たちとは違って特別だ。少女の身体は、この世界の不浄な物を拒んだ。口にするものも、肌に触れるものも、この世界に普通に存在する物質は少女の身体を傷つけてしまう。少女はこの世界にあって清らかであり過ぎたのだ。
そしてその絶対的な清さを表すように、少女は人々が畏れ慄くほど美しかった。女の私でさえ、時折少女から見つめられると戸惑った。
学者たちは、この少女を生かすために特別な水槽と絶えず滅菌されて循環する水を用意した。そして深い水の世界に沈めた。レーシングドライバーのような薄い潜水服を着込んだ私は、目の前の少女の背負う生涯の孤独と相対する。
学者の肩書を持つ私は、定期的に少女をカウンセリングするため、こうやって潜水服を着て水槽に潜り少女のもとへと降りていく。
こんな水の中で、人間はどうやって生きることができるのだろうか。かならずといっていいほど、この少女に初めて会う人は学者たちに問いかけるが、特殊な水は彼女に酸素や栄養を補給し続ける。そして、少女が水の中で当たり前に声を発するように、どんな人間でもこの水の中では会話ができるそうだ。
さらに、少女は清いものしか身体の中に取り入れることができない。清い身体は清いものしか生み出さないので、水槽が内部から汚染される心配はなかった。
ただ、外部からの汚染物は遮断しなければならないので、少女に会いに行くときはボンベを背負って身体を潜水服に密閉しないといけない。
ヘルメット越しに、私は少女の問いに答えた。
「とてつもない淋しさとか孤独って奴がいるんじゃないか?」
型どおりの私の模範解答に、彼女は少しがっかりした表情をした。
「先生、それはありきたりな答えじゃないですか。もっと詩的な答えを期待していたんだけどな」
「悪いな。生まれてこのかた、あんまりそういう本を読む暇がなかったんだ」
ちょっと不機嫌になった少女に私は正直に謝った。そして何かお薦めの本はあるかと問いかけた。
「あら、じゃあ何か先生にぴったりな本をあつらえましょう」
少女の美しい顔に、上機嫌な笑みが花開いた。すっと優雅に泳ぎだす少女。どれにしようかしらと水槽の底に漂う、滅菌済みで防水処理を施された本たちを品定めする。そして一つの本を掬うと、私のもとへふわりと舞い戻った。
「これなんか先生にぴったりだと思うわ」
差し出された本のタイトルを読みあげると、それは本を読まない人間でも知っている有名な本だった。女主人公が様々な人間関係の中で傷つき、傷付け、そして愛しい人を我が手で殺してしまうという内容だっただろうか。私は受け取った本をグローブに覆われた手で撫でながら聞いた。
「なんでこれを選んだんだい?」
問いに答えない代わりに、少女は突然私を抱きしめた。潜水服越しに少女の軽やかな肢体を感じた。少女はヘルメット越しの私の耳に語り掛ける。
「だって、先生から『血の匂い』がするんですもの。かなり古いものみたいですけど、確かに良い匂いがするわ」
途端に、水の圧迫感を感じた。少女はこの水の世界で優雅に、そして素早く泳ぐことができる。しかし私は潜水服に囚われており、腕を伸ばすことにも水の抵抗が邪魔するので自由に動けない。
もし、このままボンベの空気が尽きるまで少女に抱き掴まれたままだとしたら。さらに背中のボンベを弄られた時にはなす術もないだろう。今でこそ私は、少女のカウンセリングのために潜水士の真似事をしているが元来運動が苦手で力も弱い。
薄く見えるが、鉛の入った潜水服を着てこの少女を振りほどくなんてもってのほかだ。おまけに命綱ははるか遠くにある。外部の救助はあてにできないだろう。
しかし、なぜ少女は分かったのだろうか。少女の背中に回した私の手が、過去に血で濡れていることを。
「先生、人の血ってものは特別なものなのよ。穢れていると共に清らかで、途轍もない命の匂いがするものなの」
その強烈な匂いはいつまでも永遠に消えないわ、と少女は語る。
私は少女が清すぎるゆえに、この忌まわしい匂いが分かるのだと悟った。私はこの少女に裁かれるのだろうか。それも悪くない、と思った。
だが少女は私から離れた。解放された事に気が付くと、少し残念に思った。少女は純粋無垢な笑顔を再び咲かせる。
「先生、本を読んだら感想を聞かせてね。それと『先生のことも』また今度教えて頂戴」
絶対よ、と笑う少女。その時、私は見つけた。血を流したことのある私だからこそ見つけれたのだろう。
少女の笑顔の中には、清くて美しい殺人鬼がいた。