露先
――――あ。雨だ。
ぽつり、ぽつりと、一面の硝子に水滴が張り付く。無数の水滴はそうして張り付いて、つるりと流れ落ちて、そのまま見えなくなった。
雨粒はいいよね。気苦労なくて。
羨ましい。
私は残念ながら雨粒ではなく、人間で、更に残念なことには受験生で。黴の匂いと、埃と、尋常じゃない湿気のこもる自習室で、音読しかままならない数式をじっと睨みつけている。というより、睨みつけていた。今は、窓ガラスを伝う雨粒に羨望の眼差しを送っている。高校生活の終わりをもう一年足らずの先に控えて、今更一体何をしているんだろう、という気もしてくる。やることをやらなくてどうするんだ、と訊いてきた学級主任の微笑みが浮かぶ。優しい表情の後ろに般若面の如き圧をまとった姿など、現場にいた人間しか知りえないだろう。滅多に怒らないあの先生が圧を纏うことすら、大部分の学生は知らずに去っていくのだろう。
そっか、卒業か。
溢れた吐息が窓を曇らせて、ほんのり心許なくなる。
数式の羅列から少し右に目を逸らすだけで、そこはもう窓の外だった。陰鬱な灰色の空の下、自習室の直下に位置するエントランスから、家路を急ぐ学生達がわらわらと出て行くのが見えた。傘を忘れたらしい三人の男子が、弾丸のように飛び出してきて、何事か喚きながら正門の向こうへ駆けていく。遠くから、笑い声も少し聞こえた。バス通学なのだろう。そうであってほしい。もう確実に風邪をひく未来しか見えない。全く関係のない人の健康を少し願う気分になるのは、なかなか酷い気の迷いだ。
何をしてるんだろう、私は。
少し体をずらすと、正門からバス停までの道が一気に見て取れる。先程の三人がまっしぐらに駆けていく。正門から真っ直ぐに進んで、垂直に交わる川を超えたところが大通りだ。転げるような三つの人影は河を渡ってすぐ左に折れ、青い屋根の下に飛び込んで見えなくなった。小さいながら、バス停には屋根がある。部活の終わる六時台は恐ろしく混むが、今はまだ大丈夫らしい。見遣った腕時計は五時三十三分を指している。中途半端極まりないけれど、いい感じに言えば絶妙だ、ということになるだろう。一方、私の頭からは、詰め込みそこねた公式や単語が絶妙にはみ出しているわけで。
それが入るはずの空間に何が入っているのか、私はよく知っている。知っているから、もうこれ以上入らないということも分かるし、日を改めればもう少し入るということも分かるし、この密室にいる必要は、今のところ無さそうだった。
ぬーん、と頭の中で効果音をつけながら、強ばった体を思い切り伸ばした。伸び終えると、ふう、と肩の力が抜ける。気怠い気分のまま、山のような消しカスを足元のごみ箱に払い落とし、ぱちり、とデスクライトの電源を落とす。ほとんど振り回すように背負ったリュックは、人生を丸ごと抱え込んだような重さだ。多分、いつかどこかの関節がばきっといくだろう。最後にお気に入りの雨傘を左手に持って、窓に背を向けて歩き出す。背後の雨音はますます強くなっていた。バチバチと、勢いよく叩きつける。通路の両サイドを固める同級生たちは、みんな一様に背中を丸めて、ありとあらゆる参考書やノートにシャープペンをこすりつけている。この湿度の高さと相まって、まるで苔でも生えそうな後姿だった。その微動だにしないような張り詰め方が私にはなくて、怒りとも悲しみともつかない何かがふっと湧いて、すぐに消えていった。緊張のその隙間をすり抜けて、廊下へと出る。湿った風が私の許を通り過ぎた。靡くスカートに軽く触れながら、私は階段を下り、帰宅路に沿って歩き出す。エントランスでばさり、と開いた雨傘は、濃紺の地に星座のモチーフをあしらったデザインだ。
雨の日は、昔から好きだった。
雨は柔らかなカーテンのように降り注ぎ、世界と私を隔ててくれる。その冷たい雫は、私の汚れを洗い流してくれる。そのまっすぐな軌跡は、空と私とをつなげてくれる。雨の日にはよく、部屋の電気をひとつ残らず落として、まるで窓ガラスに張り付くようにして、灰色に烟る街を眺めていた。私はそれが好きだった。雨の夜は、いつもよりずっと良く眠れた。眠りの前に降りてくる息苦しさが、雨音の向こうにあるようだった。
きっと雨の中に横たわれば、もっとよく眠れるのだろう。
その予感を抱えたまま、私はいつの間にか高校生になっていた。悲しいことにこの世界は、雨に打たれて眠る人間を許容しない。間髪入れずに誰かが私を拾い上げて、あるべき場所に戻してしまうのだろう。目覚めたらきっと、どこかのベッドの上だ。雨の中で寝る人間を許容出来るかどうか、戻したそこが本当に私のあるべき場所かなんて、微塵も確認しないまま。
もし海の上に出たら、と私は考える。
どこか、人に見つからないような大海原の真ん中へ、小さな船でたった一人漕ぎ出していく。ずっとずっと、どこまでも遠くを目指して、そして疲れきったら大の字になって倒れる。じっと空を見上げて、波に揺られながらその時を待とう。幾晩も過ぎないうちに雨が降り出し、私はその雨に包まれて、緩やかな眠りに落ちる。きっとそれは、この世で一番深く、芳しい眠りになる――――。
でも。行ける気が、しない。
随分と水かさの多い川を、ゆっくりと渡った。
川に沿うように伸びる大通りを、普段は渡るが、今日は渡らない。そこで左に折れて、逆方向のバス停に向かう。
蟻のように連なる行列。短いながら傘の分だけ間延びしているそれを、さらりと一通り眺めた。普段駅まで歩くその人の、ほとんど見上げるように高いシルエットを、私は探した。ひょこりと傘が浮いたようになるのだから、見落とすはずはない。けれど、立ち並ぶ傘はカーペットのように平らで、私は大人しくその一番後ろに連なった。そういえば、と前方をよく見れば、立ち並ぶ制服の隙間に、先程走っていったのとそっくりな三人組が見えた。仲良く屋根の下に収まって、頻りに互いの携帯電話を覗き込んでは、すげえ、いいなあ、と感想を述べ合う。
若いなあ、と内心で感想が漏れた。彼らがこの心境に至るには、あと二年もの歳月を要する。
雨粒はいよいよ大きくなり、アスファルトに当たっては、私のローファーの中をめがけて撥ね上がった。だんだんと湿っていく靴の中について、出来る限り考えないという以外の対処法がないのが残念だ。長靴か、いっそのこと裸足にサンダルで来たかったけれど、靴下も制服に含まれているというのだから致し方ない。長靴を履いたって多分、濡れるものは濡れる。靴下の湿り具合に関しては、ひとまず気にするのをやめた。
やめて、これから会う人のことを考えた。
いつもは、逆方向のバスに乗っている。あの人はそれを知っている。雨の日だけは彼と同じ方向のバスで鉢合わせる、その理由も、あの人は知っている。知っていて、何も言わない。会えばちょっと面白がるように笑って、お疲れ、とだけ言う。それだけだ。多分今日もそうなる。それを聞いた私はぎこちなく笑って、雨だからね、と言う。もう、随分と前から続くやり取りだった。良い友達でいたいという、優しさの限りを尽くした拒否を言い渡されて、一年以上にもなる。あの日から、雨が降る度に逆方向のバス停に並ぶようになった。それは約束だったと言ってもいいし、或いは契約だったと言ってもいいのかもしれない。ひどく実務的な関係性だけがここにはあって、それは決して、甘やかなものではない。
私もそうしたかったのだから、何も問題はないのだけれど。
少し、ほんの少しだけ、焼けるように。
憎い。
「よう」
背後から急に声をかけられた割に、大きくもないその声は私の鼓膜にまっすぐ届いた。いつの間にか私の耳は、その声を優先的に聞き取る作りになってしまっていたのかもしれない。振り返ったそこで、彼は含羞むように笑っていた。眼鏡の奥の理知的な瞳が、きらきらと輝くのを見て、咄嗟に目を伏せる。前を開けた学ランの中、ワイシャツの胸章を見つめて、私は向き合った。鎖骨から臍までの間が、私の知っている彼の八割を占めている、と言ってももいいかもしれない。
やっぱりこの人なのだなと、距離感だけでそう感じる。
近すぎず、遠すぎない、互いの傘の先が触れ合わない程度の空間を挟んで、私たちは対峙していた。
「お疲れ」
「ん、お疲れ」
「いると思った」
「雨だからね」
「うん」
いつも通りの会話。ルーティン。一通りこなしてようやく、空間が落ち着いた感じがする。強い北風に押されるようにして、彼は私の斜め前に滑り込んできた。愛用らしい、大きな真っ黒な傘を掲げたまま、ふう、と小さくため息をつく。
そっと、盗み見る。
黒い背景に、色白の輪郭が浮かび上がるようだった。かさついた唇を微かに開き、頬は少し赤みを帯び、睫毛は長く、視線は遠く、バスの来るであろう方向をじっと見遣っている。
一瞬。
彼がほんの少しこちらを向くと、自然と目線は下がり、学ランの襟章まで滑り落ちた。完全に向かい合った時にはもう、胸章まで戻ってきている。
「次、何分?」
「あ、何分だろ。見てない」
「マジかよ」
まあいいか、と彼は苦笑し、眉毛の上を少し掻いた。何かを誤魔化す時の、彼の癖らしかった。
バスを待つ間は、他愛のない世間話ぐらいしかしない。お互いに干渉しないのが、私と彼とのルールだ。喋りたいことは喋っていいけれど、喋らなかったことを訊いてはいけない。それは、冷めた関係と言っていいものだ。とはいえ、熱していてもそれはそれでおかしいのだから、このぐらいの関係のほうがちょうどいい。適度なぬるま湯を見つけた、という感覚。彼はまだ、私のことを嫌いではない。それだけでも、私は彼に感謝すべきなのだからと、自分に言い聞かせる。言い聞かせないとやっていけない、こんな、優しさに縛られただけの、犬のような地位を与えられて……。
でも、きっとここが私のあるべき場所なのだった。それを知っているから、怒ることも泣くこともままならず、精一杯彼の話を聞き、笑う。途中でバスを一本見送って、先頭で傘を畳んだ。傘がなくなった分余りにも近いその距離を、付けた角度で誤魔化していく。雨は、土砂降りの様相を呈しだした。
まだ、彼は私を嫌いではない。まだ、隣にいる。
そんな妥協だけで今の私は生きているのだと思うと、ただただ、どこまでも悲しかった。どうしようもない感じがした。
大海原の真ん中に彼はいないしなあ、とも思う。
「お、来た」
彼の声に釣られて振り返ると、真っ黒に帳の降りたアスファルトの路面を、バスのライトが割ってきた。大きめのブザーと共に、中扉が開いて私たちを迎える。
わざと一本バスを見送っているのは、二人席を確実に手に入れるための策だった。今日も、二人席。私は窓際、彼は通路側。車酔いしやすい私に気を遣った配置。本当は、出来る限り車体の真ん中に近いところに座るといいのだと、彼は教えてくれたことがある。比較的揺れが小さいから、その分酔いにくいらしい。とはいえ、バスのその位置には優先席があるだけだから、折衷案が二人席の最前列になる。
彼は特に酔うたちではない。それがまた、少し嬉しい。
乗客は後から後からやってきて、私たちの視界には黒い学ランと紺のブレザーだけが映り込む。人の体温がむわりと車内に満ち、窓ガラスがうっすらと曇り始めたところで、車体はゆっくりと滑り出した。打ち付ける雨音は、学生の喧騒にすっかりかき消された。エンジンの振動が体に響くのを感じながら、私は彼の言葉を待っていた。揺れに煽られれば、すぐに肩同士がぶつかるような距離。
バスに乗ると、私は途端に口がきけなくなってしまう。いつも、彼がぽつりぽつりと話すのを、静かに聞きながら過ごすことになる。彼の声は、決して大きくない。通るわけでもない。けれど確かに、私の耳には一番よく聞こえる。一番近くで、私はその声を聞いている。
「ああ、あれよ」
思い出したように、彼が言う。
「先週末に旅行に行ってさ」
それをひとつひとつ拾い上げながら、撫でて愛でるように受け取っていく。受け取る度、私の心臓はその鼓動を早める。ひとつ吐息をつく度に、ひとつ言葉を紡ぐ度に、彼のぬくもりが私の中に染み入ってくるような感覚に襲われる。食虫植物のようだ、と私は思う。甘い蜜を持ち、敵意がないかのようにそれを差し出して、奥へ奥へと誘い込む。食べられるなら、それはそれで本望かもしれない。
うっすらと朱の差してくる頬を、冷えた窓ガラスに押し付けた。滲みるような冷たさが、私の思考をはっきりさせる。少しずつ位置を変えながら、熱を溶かしていく。
とはいえやっぱり、堕ちてしまいたいような気もした。
「へえ。どこに行ったの?」
努めて素っ気なく、私はその先を促す。
「箱根。法事のついでだったんだけど、土日にぶつけて連休にして、暫く遊んできた」
促されるままに、彼が答える。
その意図がどこにあるのか、私には見当もつかなかった。ただ言葉に呼ばれるままに、私の思考は霊前で焼香し、芦ノ湖の遊覧船に乗り、ロープウェーで山頂に登った。私の思考の座標は定まらない。目に浮かぶ情景にワクワクした次の瞬間、目の前の光景にふっと冷静になる。
私も行けたら良かったのに。今のところ、それは叶わない。
こんなにも近くにいるというのに、彼は驚く程遠かった。彼は私ではないし、私は彼ではないから、それは当たり前のことだ。彼の存在は私の理解を超え、私の思考は彼の理解に届かない。私たちは互いに平行線上を走り続けている。だからこそ、分かり合えないからこそ、私は彼を愛するのだ。彼が何を思い何を願っているのか、知らないから、こうして厚顔無恥にも、彼を好きでい続けようとする。終わるはずで終わらなかったものを、大事に大事に抱え込んで。
雨粒の衝撃が、ガラス越しに私の頬を叩くようだった。
好きでいることをやめようとしたお前を、中途半端なところに縛り付けたのは誰だ、と問うように、響いた。
「あ、じゃなくて」
言葉の流出が止んだ。私のすぐ横、彼の膝の上で、鞄の中身をまさぐっているらしい音がする。
「はいこれ」
ふと車内に戻した、目線の先。彼と私の間。飾り気のない小さな紙袋が、彼の手の中に収まっていた。それは今までに見たことのないような小ささの紙袋だった。ピアスか、指輪か、そういうアクセサリーならぴったり収まるかも知れない。窮屈そうにプリントされたキャラクターの下に、ローマ字でハコネと書いてあるのが読み取れた。
「――――え、お土産?」
「うん。お土産」
それもそうかと、改めてその小さな袋をまじまじと眺めてみた。けれど、特に新しい感想が出てくるわけでもなく。
「小さいね?」
「え、大きい紙袋に箱根の空気詰めて来た方がよかった?」
「いやいや。文句じゃないです。ありがとう」
誤魔化すように笑って、その袋をそっと摘まみ上げた。袋の底が軽く彼の手のひらを摺り、その振動が私の手に伝わってくる。開けてみて、という声に促されて、ぴったりと平行に貼られたセロハンテープを慎重に剥がしていく。
「そんなん、びりってやればいいのに」
「そういうわけにはいかない……あ、開いた」
中身を出し、取り除けた紙袋を、極力丁寧に畳んで右のポケットにしまった。
視線を戻すと、ころり、と私の手の中に落ちてきたものは、帽子を被ったどんぐりだった。ちんまり、という形容詞が、なんともよく似合う。
明かりに翳してよく見れば、それはいくつかの色が幾何学模様のように入り混じっていて、組み木細工というものであることが分かった。帽子の方に金具が付いていて、どうもファスナーフックとして使えるらしい。
「何これかわいい」
「でしょ? めっちゃ悩んだからねこれ」
ふふん、と彼は得意げに笑う。ああ、悩んだのか、と私は心の中だけでそっと噛み締めた。一抹の希望と、一抹の寂しさとが同時に湧き上がる。まだ、私のために悩んでくれる、というのが嬉しかった。同時に、そんなことに喜びを覚えてしまう自分が、情けなくて、憎たらしくて、堪らない。さり気ない風を装って、窓ガラスの冷たさに触れた。細い溜息が全身の力を伴って抜けていく。その後に、泣き出したいような、叫びだしたいような、むず痒い感覚が残っていた。
「どうした?」
少しだけ不安げな声で、彼はやんわりと問うた。
「……もしかしてどんぐり、ダメ?」
「えっ」
あまりにも真面目な調子で言うものだから、私は思わず声を上げて笑い出してしまった。
「ちょ、なんで笑うの」
「いや、どんぐりダメって何なの、どんぐりダメって」
お腹の底から笑い転げた。
ダメなわけがないと、内心では勢いよく突っ込んでしまっていた。たとえどんなものだったとしても、組み木細工のファスナーフックじゃなくて、ただの道端に落ちていただけのどんぐりだとしても。彼がそれに思い至り、悩み、選び取って、そして私に手渡してくれた。それだけで、充分だ。胸が詰まったように苦しくて、笑っているのに泣きそうで、小さく首を振るのが精一杯だった。なんだよ、と零した彼の声は、笑いに震えていた。表には出さないながら、私はほんの少し、心の中でほっと息をついた。
どうして、私にこんなものをくれるのだろう。
彼は私を好きではない、彼がそう言ったから、私はこれ以上彼を好きにならないようにしてきたのだ。彼の言葉に甘えたふりをして、彼の言葉に縛られたふりをして、犬の立場に甘んじて、恨みつらみだって溜め込もうと必死になって。私だって、悩んで、選んで、手渡そうとしてきた。自分から手を切れればいいと思った。思っていたはずだった。だというのにこんなに可愛いお土産を、私のために悩んでくれたそれなどもらってしまったら、私は、私はまた。
好きになってしまう。
この人のことを、好きになってしまう。
「ご乗車、ありがとうございました、次は終点……」
聞きなれたアナウンスが、不意に私の耳を打つ。
拭った窓ガラスの曇りの向こうに、慣れ親しんだ駅の光景が佇んでいる。ネオンと人々がひしめきあい、あらゆるものが来て、そして去っていく場所。行く為に、或いは帰る為に。出会う為に、或いは別れる為に。終点であり、始点でもある場所。
私にとっては、一時の夢が終わる場所。
「終点です、お忘れ物のないようご注意願います」
「ちょっとだけ、待とうか」
「うん」
答えながら、忘れるはずもないのに、思わずどんぐりを握る手に力が入ってしまっていることに気付いた。我ながら、小さく苦笑する。気付いた彼が疑念を表すように首をかしげて、その仕草に私が微笑みを強めると、彼はつられたように微笑む。ほんの一瞬、私はその表情を盗み見ることを許した。その笑顔が、私は一番好きだった。というより、好きだ。
雨は、未だ激しい。
溢れ出る人の流れの最後にくっついて、連れ立ってバスを降りる。ばさり、とほぼ同時に傘を開いた。立ち並ぶネオンから零れ出す明かりが、私と彼の影を作り出す。二つの影は同じ色をしていて、重なった影は境目が分からなくて、そんな小さなことなのに、嬉しくて仕方ない。その嬉しさが、一瞬、憎くてたまらない。
左手に持ったままのどんぐりが、濡れてしまってはいけない気がした。握り締めた手と一緒に、ポケットの中へ突っ込む。凍えそうな雨の中で、どんぐりはほんの僅かに温かい感じがした。それがどこからくるものか、私は少し考えた。先導して歩いていく彼の黒い傘を、ほとんど上の空で追いかけていく。
その歩みが、急に、ふっと止まった。
「……どうした?」
「うん」
迷うように、彼は佇んでいた。降りしきる雨の中、ゆっくりと振り返ったその顔が、ほんの僅かながらはっきりと引きつっているのを、私は咄嗟に見て取った。すうっと、周囲の喧騒が引き、消えていく。叩きつける水滴の音だけが私と彼とを取り巻いていた。雨は、隔てる。何もかも。
珍しく伏せられていた視線が、ふと上がった。
「これ、楽しい?」
一瞬。時間が抜け落ちた気がした。
「これ、って、どれ?」
咄嗟に出た言葉の間抜けさに、私の中の混乱が堆積を増していく。
「これ。雨の日の約束」
真っ直ぐに私を見つめたまま、彼は静かに続ける。
「俺は、君を振って、こんな約束を吹っかけた、わけじゃん。本当なら、君にはひとつも、メリットなんかないわけでさ。はっきり言って、この関係って――――」
「言わないで」
語尾は僅かに震えた。むしろ、これは怒りと呼ばれるべき何かだった。己の中に高まる、熱湯のような何かを私は感じた。
「それは、ずるい。ずるいし、汚いし、許されない」
激しさを増すばかりの雨が路面を叩き、ぴしゃりと跳ね返っては私の脚を濡らす。気分まで満遍なくずぶ濡れだった。足元から這い上がる寒気が、心まで満たしていくように感じる。握り締めたどんぐりの輪郭が、痛いほど手に食い込んでくる。
これほど、雨に打たれて眠りたいと思ったことはない。
「どうして?」
「私が君に振られて、君が私に約束を持ちかけたから」
緊張で半分吐きそうになりながら、無理やり彼の眼を見た。
「別れたいなら、もう私が嫌なら、嫌って言ってよ。だって私、ずっと好きだもん。待ってても、嫌いになってあげないから。どこまでだって追いかけてやるって、言ったじゃん」
これは多分、嘘だった。
確かにこのままじゃ私は満たされない。だけど、それは違う人を好きになったとしても結局一緒だ。それならば、こちらの方がいい。ずっと追いかけ続けている方がいい。
けれど、多分私には、それはできない。
でもそれは言わない方が、私の利になるはずだった。
「言わせないで。私、全部分かってて、ここにいるんだよ」
全部、分かっている。
二人で会うのはいつも雨の日。お互いに傘をさしている。私と彼の間には、決して越えられない、傘一本分の壁がある。「一本分だけ」とも、「一本分もの」とも言える、壁が。彼は壁越しに私に微笑みかける一方で、別の女の子に恋をし、その子と上手くいけば私を切り捨てるだろう。
それでもいいのだ。
それだけで、よかったのだ。
黒い傘の中に入る資格は、私にはない。ただ。せめて互いの傘の露先が交じり合うのであれば、もうそれ以上に望むことはなかった。壁越しであろうとも、彼が息をし、微笑んでいるという事実こそが、私の全てだった。
無意識に上げた視線が、雨の向こうの彼を捉える。
彼は、痛みを堪えるように顔をしかめて、それから、ほんの僅かに口角を上げた。
「――――なら、いいんだ。……またね」
彼は、それしか言わなかった。それだけをぽつりとこぼして、何事もなかったように帰って行った。その背中はさっき見たときよりも小さく、遠くなったようだった。
少しも収まらない雨の中、私は帰ったはずだ。というのは、どうやって帰ったものか、はっきりとはしない。気付いたときにはマンションのエントランスで、ばさばさと乱暴に水滴を払い落としているところだった。飛び散ったそれの描き出す模様を眺め、大した感慨もなく鍵を取り出した。ポケットの中で一瞬、鍵と何かが絡まった。私は出来る限り、それを触らないようにした。
キッチンから母が投げた「おかえり」を適当に受け流して、自室に滑り込む。濡れた制服を脱ぎ散らして、適当な部屋着に着替える。ベッドに飛び込んで溜息をつけば、少しだけ心が落ち着いた。
ルーティン。一通りこなして、準備は整った。
濡れた制服のポケットからどんぐりを取り出して、携帯電話のストラップに引っ掛けた。悪くない感じになった。それはそれでひとつ満足した。
私はもうひとつ、あの小さな紙袋を取り出し、セロハンテープを注意深くはがしてゴミ箱に放り込んだ。紙袋の口の端をそれぞれつまみあげて、仰向けに転がった顔の上に翳した。紙袋は僅かに、蛍光灯の光を透かした。
ゆっくりと、それを顔の上に下ろし、肺の底まで吸い込んだ。
紙の匂いがした。
当たり前だった。
犬や何かなら、嗅ぎわけられたのだろうか。そう思うと、本当に犬になってしまいたいような気もしてきた。
でも、私には分かる。
愛しい人の匂いがする。
憎いあいつの匂いがする。
ふと、自習室で見た雨粒のことを思い出した。
やっぱり羨ましいな、雨粒。生まれ変わったら雨粒になりたい。憂いとかなさそうだし。出会いとか、別れとか、愛とか憎しみとか、なさそうだし。何もなくなればいい。大海原の真ん中で漂う時のように、何もなくなればいいのに。
憎たらしい。
もう一度つまみ上げたそれを、今度は細かく細かく折り畳んでいく。小さな小さな錠剤並みのサイズになったそれを、私は見つめた。
これは、私と彼の間の距離を越えてきたものだ。
好き。
私にだって、彼には立ち入ることのできない、壁の内側がある。その中では私が独裁者であって、何を作ろうと何を壊そうと、何を飲もうが食べようが吐こうが、私の一存だ。せいぜい自分の壁を大事にするといい。露先の描く円の内側に、私の星空の下に踏み込んだとき、彼は、私のものだ。小さなかけらをたくさん食べて、私の中に彼が育つのだ。最後には、彼の全てを私の中に入れて、あるべき場所へ、星の消えた天蓋の下へ、雨降り注ぐ小舟の中へ、帰っていこう。
小さな小さな小さな紙袋を口の中に放り込み、咀嚼せずに、そのまま、飲み込む。