井戸の外
ルナフェルの光が、幾度となく明滅を繰り返しました。
あえてふたつは光が強まった頃に起きてみました。
「夜ね」
「夜に起きたら、なんて言うべきかしら」
「おはようの、反対は……」
「ごゆっくり?」
「それじゃおかしいわね」
起きた後は、井戸の奥へ行きました。
今度は行き止まりまで歩いて、行き止まりました。
部屋に戻って、また身体を取り替えました。
アリィはもう身体を動かすのにも慣れてきましたが、やっぱりウェルがほとんどしました。
取り替えて、元に戻して、また取り替えて、元に戻して、取り替えました。
右にはめた左腕は動きませんでしたし、左にはめた右腕も動きませんでした。
正しい身体でないと、動かないようでした。
「私たち、やっぱり元はひとつだったのかしらね。だから私はアリィの身体を動かせるし、アリィも私の身体を動かせる」
「どうかな。そうだとしたら、とても素敵ね。ひとつだった私たちが、ふたつに分かれて……こうして惹かれ合ってるなんて」
「ええ、本当に」
実際アリィにとって、ウェルの右目や右腕、左足は、随分と馴染み深い物になりました。今や、ほとんど自分の身体と同じように動かせるのです。
ふたつは身体を入れ替えたまま井戸の口の下まで行きました。
星が今日も輝いていました。
あえて、そんな暗闇で石や生き物を探しました。
井戸の口から差す光がふたつを照らすまで、探し続けました。
珍しい物は見つかりませんでした。
でも、ふたつは笑いました。
「今日は何も見つからなかった記念日ね」
「今日が何日か分からないのに、記念日?」
「ええ。次にこの記念日を迎えるのは、ふたつで石や生き物を探して、特に何も見つからなかったときよ」
ふたつで空を見ました。
空は曇っていました。
やがて空は真っ黒になり、雨が降りました。
黒から落ちてくる雨を、ふたつで見つめました。
「こうして真っ黒になった空を見ていると、井戸の外があるなんてとても思えないけれど」
「雨の日も、世界はあるわ。雨に打たれるのも、悪くない気分よ」
「本当?」
ふたつは井戸の口の真下に立ち、雨を浴びました。
ぽつぽつと顔と身体を叩く音が響きました。
雨が止むまで、そのまま動かずにいました。
確かにふたつとも雨は楽しめたのですが、服が濡れてしまいました。
「これじゃ、ベッドには行けないわね」
そのまま、今度は晴れた朝の日差しで服を乾かしました。
乾かし終わったら、部屋に戻りました。
ベッドに腰かけ、その柔らかな感触に落ち着きながら、身を寄せ合いました。
ふたつの眠る時間は、短くなりました。
眠る必要をあまり感じなくなったのです。
いえ、そんなことはありません。
アリィは薄々、気づいていました。
毎日が眠るように過ぎていく。
「アリィ、どうかしたの?」
「ううん……なんでもないの」
なんでもないのです。
何もないのです。
ウェルと過ごす日々は、とても楽しい。
一日一日が飛ぶように過ぎていきます。
安心する。
落ち着く。
でも、それだけ。
アリィはずっと眠っていました。
「……それだけ?」
アリィは、ふと自分に問いかけました。
「え?」
「あ、ごめんなさい……なんでもない」
「何か考えているなら、言ってほしいわ。力になれるかもしれない」
「うぅん……まだ、いいわ」
「自分で考えたい?」
「できるなら、ウェルと一緒に考えたいわ。でも、まだ……私が何を考えてるのか、分からないの」
「そう。じゃあ。それが分かったら、ぜひ私にも言ってね」
それだけって何だろう。
何があって、何がないんだろう。
……何が欠けているんだろう?
「私に欠けているのって、何かしら」
「右目と右腕と、左足でしょう?」
「それ以外で」
「……それ以外?」
「いえ、やっぱりまだ、うまく言えないみたい」
「そう、なの?」
何が欠けているんだろう。
そうとしか、言葉にできません。
でも、アリィが本当に言いたいことは、それとは全然違うはずなのです。
「でも、ちょっとだけアリィの言いたいこと、分かる気がするわ」
「えっ? そうなの? 私、何が言いたいのっ?」
「あ、いえ、本当になんとなく、ね。私も思うの。身体とは違う、何か欠けてる気がするって。でも、欠けてるなんて言葉は、正しくないような気もして……」
「そう、そうよ、そんな感じ!」
「あれは、なんて言えばいいのかしらね」
「そうねえ……」
こうやって考えてると、アリィは今自分が何をしているのか、分からなくなってきます。
知らない内に一日が過ぎます。
「アリィ? どうしたの?」
「あ、ごめんなさい、なんでもないの」
ウェルから声をかけられます。
ウェルが心配してしまいます。
だから、考えるのをやめてしまいます。
でも、それで自分が何をしているのか、分かるわけではないのです。
知らない内に一日が過ぎます。
「何かおかしいなあ」
「何がおかしいの?」
「分からない……」
気づくのが遅かったのかもしれない、とアリィは思ったような気がしました。
気づけば一日は消えました。
ずっと眠っているのです。
それでもアリィは楽しんでいました。
何が楽しかったか、思い出せません。
大事な話もした気がします。
でも、思い出せないでいます。
「嬉しいわ、アリィ」
「私もよ」
ふとしたときに意識が戻ります。
なんでもないことのように、元に戻れます。
ふと気を抜けば消えます。
意識は、雨のように。
空から降ってきて、アリィの身体を通って、地面に染みて、消えてなくなってしまいます。
青く晴れた空を見て、アリィは雨を待ってみました。
意味がないと気づいています。
比喩なのですから。
ウェルはいつでもアリィに寄り添ってくれました。
繰り返します。
「素敵な言葉ね」
「そう? ありがとう」
何が欠けているんだろう。
「アリィ、大丈夫?」
「あ……うん、なんでもない」
繰り返します。
身体を取り替えます。
アリィはウェルの身体を動かせます。
それなら私はウェルなの?
「違う」
「アリィ?」
「ウェル……」
アリィはすがるようにウェルを抱きしめました。
ウェルは当然のような顔で抱きしめ返してくれます。
「今日はもう、寝ましょうか」
そこはベッドの上でした。
ウェルはそのまま、動かなくなりました。
アリィはとても安心しました。安心することが不安でした。
眠れませんでした。
ずっと眠っています。
起きなければ眠れないのです。
起きるより先に、意識はまた地面へ。
このままじゃ、いけないんだ。
アリィは気づきました。
でも、どうすればいい?
考えました。
考えているのかは分かりませんでした。
考えているのか考えている間にも、ふたつの一日は過ぎていきました。
互いの身体を取り替えます。
井戸の奥を歩きます。
空を見ます。
珍しい石や生き物を探します。
抱きしめ合います。
寝ます。
起きます。
支え合います。
空を見ます。
「あ」
井戸の縁に、何かがいました。
「あら、何かいるわね。アリィはあれが何だか分かる?」
「猫、ね」
「ああ、あの、夜目がきくっていう」
「うん。ほら、夜に目が光るの。ああやって……とてもきれいに……」
アリィは猫に向かって手を伸ばしました。
でも、届くわけがありません。
猫が、笑った気がしました。
雨。
アリィの前には、外へと伸びる紐がありました。
「そうだわ」
「どうしたの、アリィ?」
「井戸の外に出てみましょう、ウェル!」
ウェルは驚きつつも、優しく微笑みかけました。
「唐突ね。こんな雨の夜に?」
「あの猫に会いに行きたいの」
「そう。今、行きたいのね?」
「うん!」
珍しく、アリィは興奮していました。その気になればいつだって井戸の外へ出られるということを、思い出したのです。そう、まさにこんな雨の夜にだって。
「約束したでしょ? いつか井戸の外へ出てみるって。きっと今がそのときなのよ」
「なるほどね。あなたが今というのなら、今なのでしょうね」
「それで、身体はどうしたらいいかしら」
アリィは、早く外に出たい気持ちを抑えながら尋ねました。
「どうしたら、って?」
「ほら、前に言った通り、私とウェルのどちらかに両腕がないと井戸はのぼれないでしょう? それに、外を傷つかないように歩くには両足が必要だし、知らない世界をちゃんと見るには両目が必要だから……どうやって身体を分けたらいいか、分からなくて」
「平等に分ける必要はないんじゃない?」
「え?」
「せっかく外へ行くんだもの。私の目と腕と足、ぜんぶあげる。私はあなたが帰ってくるのを待ってるわ」
「何言ってるの、ウェル!」
アリィがウェルの肩を掴みました。
「もうひとつ、約束したはずよ。何があっても、あなたを置いていかないって」
「……そうね、確かに、したわ」
なぜかウェルは、気持ちの読めない複雑な表情をしていました。
「私と、どこまでも行きましょう。世界はすごく広いのよ、きっと毎日楽しいわ」
「そんな毎日も、いいかもしれないわね」
「じゃあ、」
「でも、私をどうやってつれていくの?」
「……ええと、」
「両目と両腕と両足が必要なら、ひとつはどうしたっていらない残りの身体だけになってしまうわ。そんなの、外の世界に出たら邪魔になるでしょう?」
「邪魔なわけない。ウェルが一番大切なのよ」
「そう言ってくれるのは、嬉しいけれど」
「そうだわっ」
アリィは突然、腰についたリボンを外しました。リボンはしゅるりと簡単に解け、一枚の長い布になりました。
「ど、どうしたのアリィ。それは私たちにひとつずつしかない、大切な服でしょう?」
「これであなたをくくって、私の腰に結ぶのよ。いいアイデアでしょ?」
「でもアリィ、あなたリボンの結び方分かるの?」
「分からないわ。もう結ばなくていいの。あなたが自分の身体を手放す気でいるなら、私だってずっとあなたの身体を離さない」
「……どうしてわかったの?」
「ウェルが言ったのよ。どこまでも行けるなら、どこへでも行ってしまうって」
「ああ……そうだったわね」
ウェルは、力なく笑いました。やはりその表情からは、何も汲み取れません。
アリィは構わず、身体の取り換えを始めました。
「私がこうやって身体の取り換えをするのは、初めてね」
「そうね。いつも、私がやってたから……ごめんなさい」
「どうして謝るの?」
「本当は私、怖かったの。両手を渡してしまったら、あなたがどこかへ行ってしまうんじゃないかって」
「……私、やっぱり信じられてなかったの?」
「そうじゃないわ。そうじゃないけど……信じ切っている相手でも怖いことってあるのよ」
「そうかなあ」
大した時間もかからずに、取り替えは終わりました。
「これが……普通の人の、身体なのね」
初めて、普通の人形になれたアリィの感動は、少なからずありました。でも、あんまり喜ぶのはウェルに悪いと思い、感想もそこそこに次の作業に移りました。
改めてウェルを見ると、当然ながら、ウェルには目も腕も足もありませんでした。
どうしてか、アリィはウェルを見ていると、目を背けたくなりました。でも、彼女は今何も見えていないとはいえ、それはあんまりだという気持ちがありました。どうして、と言われると分かりませんが、そんなことをしては、これからずっとウェルのことを見られないと思ったのです。
アリィはじっとウェルを見据え、そして静かに抱き寄せました。
「アリィ? どうしたの」
「……両腕でウェルを抱きしめるのも、いつもと違っていいわね」
「そうね……両腕で抱きしめられると、いつもよりあなたを近くに感じられる」
両目のないウェルの表情が、柔らかく変わりました。
アリィは、ウェルから手を離すと、彼女の胸のあたりに布を巻きました。そしてそのまま自分の腰へくっつけ、雑に力強く結びました。
「お待たせ、ウェル。それじゃ行きましょう、井戸の外へ」
「ええ」
アリィは、紐に手をかけ、そしてのぼり始めました。右腕で上を掴んだら、左腕でもっと上を掴み、そうしたら右腕でもっともっと上を掴む。その繰り返し。
身体が軽いので、するするとのぼれます。アリィは楽しくなって、どんどんとのぼっていきました。
「ウェル、外に出たら、まずどこへ行きたい?」
「私が知っているのは、森とか、川とか、かしら……もちろん、見たことはないけれど」
「じゃあ、まずは森と川ね。井戸の外に出て、この路地裏を抜けたら、きっとすぐよ」
「アリィは? どこへ行きたい?」
「どこへ行っても、きっと楽しいけれど……海を見てみたいわ」
「海? それは聞いたことないわね」
「水がたくさんあるの。たくさんたくさんあるの」
「ふうん? 川と何が違うのかしら」
「じきに分かるわ。実際に見てみればね」
「それもそうね」
上を見ると、いつの間にかあの猫はいなくなっていました。でもアリィにとって、それはもはや小さなことでした。
構わず井戸をのぼります。もう、半分ほどまで来ました。
「外には、井戸よりももっとたくさんの生き物がいるのよ。きっとウェル、驚くわ」
「それは楽しみね」
アリィの頭に、先ほどのウェルの表情が浮かびました。複雑な表情。力の抜けた笑み。両目のない顔。そのどれもが、とても楽しみには見えませんでした。
アリィは突然、自分がウェルにとってよくないことをしてしまったのではないかという不安に駆られました。
「……ねえ、ウェル」
「なあに?」
「その……私、ウェルのためになってるかな」
「どういうこと?」
「私、ウェルが喜ぶと思って……世界の外を知ったら、絶対に楽しいと思っていたの。でも、今の私は、よく考えたら、よく考えなくても、ただ外へ出たくてわがままを言って、ウェルを連れ出しただけで……」
「うぅん」
ウェルは困ったような声で唸りました。
「そんなに悪いことをした子のような声で言われても、困ってしまうわ」
「ごめんなさい、やっぱりウェル、私に付き合っていただけだったのね」
アリィののぼる手が止まりました。
「違う、違うわ。そうじゃなくて……悪いことをしたのは、私の方なの」
「どういうこと?」
「私は意地の悪いことをした。どう転んでも、私が幸せになるように……そして、もしかしたら、アリィが知らず不幸になるかもしれないような、そんな選択肢をあなたに突き付けた」
「…………?」
「だから、謝らなければいけないのは私の方なの。ごめんなさい」
アリィには、意味がよく分かりません。
「あなたが幸せで、私が不幸せになるようなことなんて、ほとんどないと思うけれど」
「……順番に、説明していきましょうか」
よく分かりませんが。ウェルは嫌々アリィに付き合っていたわけではないということは分かりました。
また、井戸をのぼり始めます。
「私、決めていたの。いつかアリィが井戸の外へ行くとき。アリィが私を置いていくなら、私もアリィより世界を選ぼう。アリィが私を連れていくなら、私はアリィになろう。そういうふうに」
「え、え……待って。いろいろと、どういうこと? 世界を選ぶ? ウェルが、私になる?」
「前にこんなことを言ったの、覚えてるかしら。井戸が私の世界であることは、私がウェルの意味そのものだって」
アリィは覚えています。初めて彼女が眠った日の会話です。
「どういうことか、今は分かる?」
「……分からないわ」
「そうよね。私も理解してるとは言えない。……でもね、分かりやすく言えば、私は井戸の外には出られないということ」
「え……?」
「私の世界は井戸の底。誰しも、自分の世界の外になんていけない。だから最初は、……もし、アリィが井戸の外へ行くつもりなら、私の身体をすべて譲って、私はこの世界に留まろうって……そう思っていたの。今となっては、それが無意味な選択だったって分かったけれど」
「じゃ、じゃあ、ウェルが私になるって」
「そうね……これも覚えているかしら? 私がひとつになったとき、私は自分が誰か分からなくなって、世界との境界が曖昧になったって」
「うん、覚えてるわ」
「そのとき私は、世界とひとつになりたくなくて、必死に私を保ったの。私はウェルだ、私はウェルだって……。そのときにね、学んだことがあるのよ」
「……何を?」
「何かと、ひとつになる方法」
「ひとつになる?」
アリィは、オウム返しに呟きました。
「どうして私ひとつだと、世界とひとつになってしまうのだと思う?」
「……分からないわ」
「それを望むからよ」
「? 望んでいないから、ウェルは世界とひとつになるのを拒んだんでしょう?」
「心が望むことは、ひとつではないのよ。何といったかしら……そう、『葛藤』をしていたの。私は私であって、他の何でもない。そう思いながら、私は、ひとつでいることがつらかったの。私なんていらない、ただ、誰かの世界にあるひとつの人形でいたいと、……そうも望んでいたの」
アリィは言葉が見当たらず、黙って聞いていました。
「それで、そう思っているとね……あるとき、ふっと『私』がどこかへ消えてしまうの。それが、ひとつになる感覚だって知ったわ。心を委ねれば、『私』は簡単に別の物に混ざってしまう」
「それって、ねえ、ウェル、もしかして」
「そう。私はこの世界に留まり続けたいとも思っていたし……アリィ、あなたとひとつになりたいとも思っていた。だから、あなたがどうしても、私を井戸の外に連れていくというなら……私は、アリィとひとつになろうと、そう決めていたの。私は井戸の外へは行けないけれど、アリィとひとつになった私なら、井戸の外へ行ける」
「そんなのっ!」
アリィは、言いたいことも分からないまま叫びました。
「……待つわ、アリィの言葉。それくらいのことは、しなくちゃいけないものね」
アリィはまた、のぼる手を止めて、長い間黙りました。
このまま時が止まってくれないかとさえ、思いました。でも、そういうわけにはいかないのです。ここで止まっていても、誰も幸せになれないのですから。
アリィは、ぽつりぽつりと呟き始めました。
「……ねえウェル、言ってくれたでしょ? ウェルと私が違うことは、ウェルにとって大切だって。だから私に、アリィという名前を付けてくれたんじゃなかったの? あの言葉は、嘘だったの?」
「そんなわけない。違うから、またひとつになれるの。私にはそれが大事なの。私は世界になりたいわけじゃない。私は、アリィになりたい。この気持ちに葛藤はないのよ」
「私は私でいい。ウェルはウェルでいい。それじゃダメ?」
「ずっと井戸の底なら、それでよかった。でもね、井戸の外なら私はダメなの。私は、井戸の底以外知らなくていい。井戸の底にいない私は、ウェルではないの」
「そんなの、わけがわからない。どうしてよっ、私、あなたに知ってほしいことがたくさんある。ねえ、夜空には、井戸の底から見えるよりもっとたくさんの星があるのよ。とても綺麗なの。とても、とても」
「知るのが怖いの。井戸の底より暗いもの、井戸の底より大きなものに、押し潰されてしまうのが怖いの。大きな大きな世界の中で、小さな私は見えなくなる」
「わからないっ、ウェルの言ってること、全然わからないわ!」
「わからなくていいのよ。あなたにとっては、わからないくらい些細なことでいいの。だからこそ私は、アリィになりたかったんだもの」
「私はウェルなんて受け取らない、私もウェルも、欠けてなんかいない!」
「そうね。『私』は、本当はアリィに必要ない、余分な部分。でもきっとあなたは受け取ってくれる。この身体があなたの背中にあるんだもの」
「嫌っ! 私と一緒に行きましょうよ、ウェル!」
「ええ、もちろん」
どうすればいい、アリィは今までで一番、考えました。ウェルの中のウェルが、アリィの中のアリィに流れてくるのを感じました。早くしないと、ウェルはアリィになってしまう。
気づけば、井戸の外はすぐそこでした。
そうだ。
井戸の外はこんなにも素敵だと知ってもらえれば、ウェルは自分で世界を知りたくなる。
「ウェル、あなたが思っているほど、世界は怖くないの! あなたが思っているよりもずっとずっと、世界は美しいんだから!」
それしかない。
アリィは残り僅かしかない紐を一気にのぼり切りました。
「ほらっ、井戸の外よウェル! ねえ見て、外に来たわ!」
返事はありません。
両目のない人形は、何も見ていませんでした。
「ウェル……」
アリィは虚ろな両目でウェルを見つめました。そしてその視線は、自分の胸へ。
アリィの心には、確かなウェルの存在が感じられました。
でも、そんなことは、アリィにとって何の意味もないのです。
この人形に宿るウェルこそが、ウェルなのです。
ウェルでなくなったこの人形も、この人形でなくなったウェルも、もはやアリィの心を埋めてはくれません。アリィと話をすることもできません。アリィを抱きしめることも、ないのです。
アリィは胸が痛くて、うずくまりました。とても耐えられません。錆びた鉄の棒を、何度も打ち付けられているような気分でした。何かが目から溢れそうでつらい。何かが口からこみ上げてきて苦しい。でも、アリィの中は空っぽです。
すがるように手を伸ばしました。その手を取ってほしい相手はもういないのだと、アリィだって分かっています。それでもアリィは、手を伸ばした先を見ました。
その先には、猫がいました。
ずんぐりと太ったその猫は、笑っている気がしました。
「……っ!」
アリィが右腕を振り上げると、猫は「なぁぁお」と鳴いて、のそりのそりと気だるげに、去っていきました。
「……嘘よ」
アリィは、自分でも気づかず呟きました。
「嘘よ、ウェル……本当は私、あなたの言ってること、分かるの……。分かるくらい、弱いのよ、私」
アリィは、右腕を下ろし、その場でへたり込みました。
「ウェルと一緒じゃなきゃ、身体、支えられないよ」
アリィは人形を、腰から外しました。
右目を外し、右腕を外し、左足を外し、それらを丁寧に、人形に付けていきました。
「ウェル……ねえ、返事をして。私、あなたがいなきゃ、何もできない」
人形は動きません。
人形は動きません。
人形は動きません。
アリィは天を仰ぎ、叫びました。
雨がふたつの人形の顔を叩き、まるで泣いているように見えました。