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井戸の底

 目を閉じていると、ゆっくり時間が流れていきます。


 どうして人は眠るのかしら?

 アリィは心の中で、何度か考えたことのある疑問を呟きました。

 アリィは、井戸の近くで寝ている人を見たことがあります。

 そのとき、「眠る」ということを知ったのでした。

 夜になると、人は眠り、動かなくなります。

 家の中からどんなに楽しそうな声が聞こえていても、夜になればみんな眠ってしまいます。

 せっかく楽しいことをしているのに、どうしてやめてしまうんだろう?

 動かないアリィは、ずっと退屈でした。

 だからきっと、眠るというのはとてもつまらないことだと、思っていました。

 でも、そんなことはなかったのだと、アリィは気づきました。

 大切な人と一緒に動かないのは、とても安心します。

 大切な人と話をするのは楽しいですが、ひりひりすることもあります。

 アリィは、ウェルの言葉が分からないとき、胸がひりひりと痛くなります。

 痛くて、治そうと焦って、また痛くなります。

 でも一緒に眠っていると、その傷が治っていくのです。

 だから人は眠るのです。

 アリィの抱いた疑問が、初めて消えました。

 やっぱりウェルと一緒なら、今まで分からなかった答えを見つけられる。

 そこまで考えると、アリィは頭を空っぽにして、朝を待ちました。



 ルナフェルの光が弱まってくると、ウェルがゆっくりと起き上がりました。

「朝ね」

 アリィも起きて目を開けましたが、何も見えません。

「真っ暗」

「ルナフェルの光がないからね」

「暗くなったら朝だなんて、あべこべね」

「ふふっ、そうかもね。でも、おやすみの次にするあいさつは変わらないわ」

「おはよう?」

「そう、おはよう」

 ふたつは夜と同じように、互いの頬にキスをしました。

 そのまま、ベッドの上で身体を元に戻すことにしました。ウェルの方が暗闇に慣れているようなので、また彼女にほとんど任せる形になりました。

 元の身体に戻ったふたつは、夜に話していた通り井戸の奥を歩きました。

「アリィもだいぶ歩くのが上手になってきたわね」

「そうかな。ウェルの方がずっと上手よ」

「私はずっとこうやって暮らしているもの。アリィもじきに上手になるわ」

「だと、いいんだけど」

「私にできるんだから、アリィだって必ずできるわ」

 アリィは昨日も同じ言葉を聞きました。今度はなんとなく、何か言い返したくなりました。

「でも、私はウェルと違うわ」

「背も、顔も、服も、欠けている身体の数も同じよ?」

「でも……私とウェルは、違うわ」

「どうしてそう思うの?」

「名前が違うじゃない」

「それはそうだけど、今は身体の話よ。身体が同じなら、身体を使ってできることは同じだと思わない?」

「そうかしら……。身体は同じでも、私の身体を動かしているのは私で、ウェルじゃないわ」

「そうよ、だからあなたが歩くのに慣れさえすれば、私と同じように動かせるようになるのだわ」

「うぅん……」

 アリィは歩くのも忘れて考え込んでしまいました。

「納得できない?」

「うん」

「じゃ、ここで休憩ね」

 ウェルはくるりと後ろへ回って、アリィと向き合いました。

「それで、どうして今のじゃダメなのかしら?」

「だって私とウェルは、違うことを考えるわ。今だってそうでしょ?」

「そうね」

「たぶん私は、ウェルが教えてくれるまで、ウェルの考えていることは思いつかなかったと思う。ウェルの身体の動かし方だって、私には思いつかないってことがあるんじゃないかしら」

「あるかもしれないけれど、私はあなたにちゃんと歩き方を教えたわ」

「うぅん……たぶん、そういうことじゃないの。歩き方と、身体の動かし方は違うと思うのよ」

「え? ……ええと、どういうことかしら」

「だって私、もう歩き方はあなたに言えるけれど、どうやって左腕を動かして、どうやって右足を動かしてるのかは言えないわ」

「どうやって、って、こうやって動かすのでしょう?」

 ウェルは右腕を振ってみたり、その場でぴょんぴょん跳ねてみたりしました。

「私の『こうやって』とウェルの『こうやって』は、違うかもしれないでしょ?」

「あまりそうは思わないけれど……」

「だって、私が『これは何?』って聞いたら、ウェルはなんて言う?」

 アリィはゆっくりしゃがんで、小さな石を拾いました。

「これ? これって、その石のこと? それは普通の石ころじゃないかしら」

「違うわ、これって、さっきから私の目の前でふわふわしてる小さな粒のことよ」

「……それは、ただのちりね」

「ね。これとかあれじゃ、お互い同じことを考えてるか分からないわ」

「……なんだか、ずるくないかしら」

「ずるくないもん」

 アリィは少しむっとしました。彼女の頬が膨らむのを見て、ウェルは笑ってしまいました。

「なによ、もう」

「ふふ、ごめんなさい。ずるいことなんてないわ、素敵なアイデアよ」

「本当に?」

「ええ。やっぱりアリィは賢い子ね」

「ウェルの方が賢いわ」

「でも、今のはアリィの勝ちよ」

「ふふん」

 アリィは得意げになりました。ウェルはそんな彼女を見て笑うと、そのまま今まで歩いてきた方へ歩き始めました。

「そろそろ戻りましょうか」

「え? 奥には行かないの?」

「ええ。別に何もないからね。進むにしても、もうすぐ行き止まり」

「なあんだ、そうなの。じゃあ、どうしてここまで歩いてきたの?」

「理由なんてないわ。これまでずっと、そうやって過ごしてきたから」

「歩く理由もないのに歩くの?」

「ええ。歩かない理由がないもの」

 歩く理由がないから歩かないのと同じことかな、とアリィは思いました。

 井戸の口の下まで戻ると、アリィは知らない石や生き物を探し始めました。やがてアリィは緑色の小さな生き物を見つけ、ウェルに尋ねました。

「ウェル、これはなんていう生き物なの?」

「それはカエルね。ぴょんぴょん跳ねるのよ」

「四本も足があるのに、どうして跳ねるの?」

「さあ……跳ねるのが好きなんじゃない? 私も嫌いじゃないわ。二本足で歩いたこと、ないけれど」

「本当は、八本足だったりして」

「さすがに八本も足がある生き物なんていないでしょう。そんなにあっても邪魔なだけだわ」

「分からないわ、世界は広いもの」

 そう言うとアリィは、井戸の外にある青空を眺めました。ウェルも、彼女に寄り添いました。

「昨日より空が小さいわ」

「井戸の外には、もっと広い空があるの?」

「もちろん。これよりずっとずっと広いのよ」

「ふうん……なんだか怖い」

「どうして?」

「もしも空が割れて降ってきたら、井戸なんて潰れてしまうんじゃないかしら」

「大丈夫よ。空は割れたりしないわ。きっと柔らかいと思う」

「でも、空が泥みたいに柔らかいなら、落ちたとき井戸に入ってきて、井戸の中が空でいっぱいになったりしないかしら……」

「そしたら、部屋の中に入って扉を閉めたらいいんじゃない?」

「そうするわ」

 逃げ方が分かったウェルは、安心して空を見上げました。すると、彼女の目にさっと何かが通りました。

「あら、今、何かが空の下を通らなかった?」

「それはきっと鳥ね!」

 アリィは、やっとウェルの知らないことを見つけられたのが嬉しくて、つい大きな声で言いました。

「鳥ってすごいのよ、あんな大きいのに、ばさばさって飛ぶの」

「そうなの? すごいわね」

「私が井戸に寄りかかっていたときはねえ、たまに小さな鳥が私の肩に止まったりしたのよ。とてもかわいらしいの。つぶらな瞳で、きれいな声で、ええとね、ばさばさって飛ぶのよ」

「素敵ね、うらやましいわ」

「ウェルも井戸の外に出れば鳥に会えるわ」

「……アリィ、気持ちは嬉しいのだけど」

 ウェルは優しく苦く笑いました。

「私も、アリィも、もう井戸の外には出られないと思うの」

「……どうして?」

「だって、井戸の外に出るには、この井戸をのぼるしかないのよ。そんなこと、私たちにはできないじゃない」

「井戸の外から紐が垂れているでしょ? これを使えばいいのよ」

「でも、それを使ってのぼり切るには、両手が必要でしょう? 私たちには片腕しかないわ」

「私たちの腕を合わせれば、両腕になるわ」

 ウェルはそれを聞くと、しばらく黙った後、感心しきったように息をつきました。

「それは、全然思いつかなかったわ……」

「もう、ウェルったら。あなたは一度、両腕になったじゃないの」

「確かにそうだったけど、でも、私が両腕を使えるだなんて考えてなかったから……」

「私たち、その気になればどこまでも行けるのよ。両目と両腕と両足があれば、井戸の外にだって、街の外にだって、きっと世界の外にだって」

 目を輝かせ、井戸の向こう側を見るアリィの横で、ウェルの顔は曇っていました。

「怖いわね。どこまでも行けるなんて」

「どうして? 素晴らしいことだわ」

「どこまでも行けるなら、どこまでも行ってしまう気がするの」

「それの何がいけないの?」

「そのうち、迷ってしまったり、帰れなくなったりはしないかしら」

「行くべき場所も、帰るべき場所もないんだから、そんなことは問題じゃないわ」

「そう……あなたは強いのね」

「強いの?」

「ええ。それって、あなたがひとつでもあなたでいられるということよ」

「それは当たり前のことよ。ウェルだって、あなたひとつでウェルでしょう?」

「そうとは限らないわ。私は、おじさんが帰って、ひとつだけになって……私が誰なのか、分からなくなった。世界と私との境界が曖昧になって、そのまま井戸の底に溶けてしまいそうで……とても怖かった。あなたが来てくれたから、私はなんとか、ウェルでいられるのよ」

「うぅん、分かるような、分からないような」

「アリィは覚えてる限り、今までずっとひとつでいたのよね?」

「うん」

「だとしたら、私の気持ちを知るのは難しいかもしれないわ。私も、おじさんが帰ってしまうまではこんなこと、考えたこともなかったから」

「じゃ、どうしてそれから考えるようになったの?」

「私がウェルになったから、かしらね。それまで私は、ある意味、本当に世界とひとつでいたのだと思う。ウェルと名付けてもらって、世界と分かれて……だから、もう一度世界の一部になるのが怖かったのだと思っているわ」

 やっぱりアリィには、分かるような分からないような話でした。言っていることそのものが分からないわけではないので、これ以上掘り下げようもありません。

「私も、ちゃんとウェルの気持ちを知りたいけど……でも、ウェルと離れるのは嫌ね」

「私も。無理して私のことを知る必要はないわ。私とアリィの心は、それこそ同じではないもの」

 ウェルは、アリィの肩に頭を乗せました。

「だから、ずっと一緒にいましょう、アリィ」

「もちろんよ、ウェル」

 アリィも、ウェルの頭に自分の頭を乗せました。ぴったりと身を寄せ合っていると、とても暖かくて、夜のことを思い出します。

 でも、今は眠る気分ではありませんでした。何かを語ってみたくなります。

「ひとつになりそうなくらい、くっついて……でも私たちは、どこまでもふたつ。切ない気もするけど、とても幸せ」

「あら、おしゃまさんね」

「そう思う?」

「ええ、でも素敵な言葉」

「ありがとう」

 ふたつはそのまま、空が焼けて黒くなるまでじっとしていました。

 ウェルが星を眺めて、呟きました。

「こんなふうに一日を過ごしたの、初めて」

「今まではどんなふうに過ごしてたの?」

「おじさんが来る前は、あの部屋でじっと動かずにいたの。彼が来た後は、夜に言っていた通りよ。あれ、実はは彼の真似をしていただけなのだけど、いつの間にか私の一日そのものになっていた」

「そうなんだ」

「これからは、こうやって一日を過ごすのかしらね」

「それは、分からないわ。私、どうやって一日を過ごすとか、考えてなかったから……ただ、今日はウェルとずっと一緒に外を眺めていたかっただけなの」

「あら、それじゃ毎日楽しめそうね」

 ウェルが笑うので、アリィも笑いました。

「そういえば、今まではこのくらいの時間になると、いつもアリィが呟き始めていたわよね」

「えっ、ずっと聞いてたの?」

「ええ」

「それなら、もっと早く声をかけてくれればよかったのに。そしたら私たち、もっと早く出会えたわ」

「そうね、今はそう思う。でも、そのときは……悪いのだけど、あなたの呟いていたことに興味がなくて」

「そっか」

 アリィは少し落ち込みました。

「けど昨日は、『どうして私は、欠けているの』って呟いたでしょう? それは私もずっと考えていたことだったのよ。だから、思い切って声をかけてみたの」

「そうだったのね」

「……見損なって、しまったかしら」

「そんなわけない。私、あなたが声をかけてくれたこと、とっても嬉しく思ってるのよ」

 アリィは慌てて顔を上げ、ウェルを見つめて言いました。

 彼女は、か細い笑みを浮かべていました。崩れそうな笑みは崩れず、彼女は言葉のような言葉を紡ぎます。

「そう言ってもらえると、安心するわね」

 アリィは余計に焦って、思いつくまま言葉を投げかけました。

「ねえ、どんなことがあっても、私がウェルのことを嫌いになるなんてありえないわ。それだけは、信じてほしいの」

「ありがとうね、アリィ。あなたの言葉はとても嬉しい。……でも、こうも言わせてほしい」

 ウェルがアリィの頬をなでます。

「未来の自分は、今の自分には見えないものよ。ありえないことなんて、ありはしない。この世界には、あったことと、なかったことと、ありうることしかないの」

「私にとっては、今あることが大切。私の言葉は、信じられない?」

「信じているわ。それでも、未来が分からないのは変わらない」

「ウェル、未来の私なんて見なくていい。今、今だけいる、この私をちゃんと見て」

「今は未来と過去から生まれるものよ。今のあなたには、未来のあなたの持つ羽が見えるの」

「じゃあ、約束。何があっても、あなたを置いていかない」

「約束?」

「約束。今の私と未来の私を糸で結んでおくの。これなら未来が見えても安心でしょ?」

 ウェルの笑みが、少しだけ和らぎました。

「そうね。……いくらか」

「よかった」

 さっきと同じように、ふたつは頭を預け合いました。

「私、こんなにわがままだったのね」

「そう? ウェルがわがままだなんて思わないけれど」

「わがままよ。あなたに私を支えてほしくて、でも、私はどこまでも不安定で……だから、あなたを傷つけてしまう」

「私はあなたを支えていたいんだから、そんなこと気にしなくていいわ。それに、私もあなたから支えてもらってるじゃない」

「ありがとう、アリィ。……その言葉が、一番嬉しいかもしれない」

「それならよかった――」

 ウェルは、突然アリィを抱きしめました。強く、強くかき抱きました。

「好きよアリィ、愛してる。あなたの愛しさが、私の今までのすべてを容易く追い越してしまうの」

 ウェルは消えてしまいそうな声で叫びました。

「私もウェルを愛してる。私はあなた以外のどこへも帰らないよ。だから、安心して」

 アリィもウェルを抱きしめました。

「あぁ……こんなにもひとつになりたいのに、私たちはふたつでしかない。切ない、切なくて、どうにかなってしまいそう」

「でも、幸せ?」

「ええ……幸せ」

 抱きしめ合う手を離す気にもなれず、互いを支え合う足を立たせる気にもなれませんでした。

「……今日は、もうずっと、こうしていましょうか」

「うん」

 そうしてふたつは、じっと空を眺めました。

 月が井戸の口から顔を出して、見えなくなるまで。

 黒い空が青の色に塗りつぶされるまで。

「空の色は、こんなふうに変わっていくのね」

「そうよ、見ていて飽きないでしょ?」

「ええ、とても綺麗」

 太陽が井戸の口から顔を出して、見えなくなるまで。

 青い空が燃えて赤くなるまで。

 ぽつぽつと星が輝きを取り戻し、また消えるまで。

 そんな空の移り変わりが、何度繰り返したか忘れるまで。

 ふたつは、空を眺めました。

 そうしてやっと、部屋に戻りました。

 ベッドで横になり、どちらからともなく抱き合って眠りました。

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