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路地裏と井戸の底

 いつも仄暗い石造りの路地裏に、それはありました。

 とても精巧で美しい少女の人形。けれど、右目と右腕と左足がない。それでいて、まるで誰かを待っているように井戸に寄りかかり、うつむいているのです。

 路地裏の住人たちは、そんな彼女を気味悪がっていました。

「どうして私は、ここにいるの」

 人がいなくなり、見るものがなくなると、彼女はいつも考えていることを呟きました。

「ここはどこなの」

「いつまで私はここにいるの」

「誰が私をつくったの」

「何のために私をつくったの」

「どうして口はひとつなの」

「どうしてみんなは目がふたつあるの」

「どうして星はあんなにたくさんあるの」

 疑問は増えるばかりで、ただのひとつも消えません。何度も何度も考えているのに、一向に答えが分からないのです。

「どうして私は、欠けているの」

 また、新しく芽生えた疑問を呟きました。右目と、右腕と、左足の部分にぽっかりと空いた穴の縁をなぞりました。そうすると、わけもなく悲しい気持ちが溢れてきます。人形は思わず片方だけの目を閉じました。



 そのときでした。



「私も同じことを考えていたの」

 どこからか、声が返ってきました。人形はとても驚いて、声のした方向を見ました。

「私、あなたと一緒に考えてみたいと、思うのだけど。その、どうかしら」

 どうやらその声は、人形の後ろにある井戸の中からしているようです。

「私もそう思う」

 大きな声でそう答えると、なんだか彼女は喉に引っかかる棘がとれたような良い気分になりました。そして彼女は、とても久しぶりに口と目以外で自分の身体を動かしてみたくなりました。

「待ってて、今そっちに行くから。ねえ、待っててね」

「うん、待ってる」

 一度は立って歩こうとした人形でしたが、片足だけではどうしても立っていられません。すぐに倒れて、石に頬をぶつけました。人形である彼女に痛みはありませんが、不思議と左目の奥がじんとします。それでも、ずりずりと身体を引きずって近づき、そして井戸の縁に手をかけました。

 そのまま手に力を入れて身体を引っ張ると、軽い彼女の身体はふわりと浮き、「あっ」と言う頃には井戸の底へと真っ逆さまに落ちていきました。

「痛いっ」

 がしゃん、と音がして、人形は地面に着きました。井戸の中は外から想像していたより広く、そして真っ暗で、人形は少し驚きました。

 ともかく今は声の主です。人形はまた這いずろうとしましたが、なぜか思うように身体が動きません。それもそのはず、たったひとつしかない彼女の腕が、取れてなくなっていたのです。

「もうっ。案外私の身体って、壊れやすいのね」

 慣れた独り言を呟きながら、なんとか右足だけで声のした方へ這いずっていきました。

「あの」

 すると、真正面から声をかけられました。

「さっき私にぶつかったこれは、ひょっとして……左腕、かしら? あなたの?」

「ああ、きっと私のだわ。それなら、さっき『痛い』と言ったのは、私の左腕がぶつかったからだったのね。ごめんなさい」

 彼女は痛みを知りませんが、「痛い」が苦しいことを表す言葉だということは知っていました。

「いえ、いいの。私、痛みなんて感じないから」

「えっ? じゃあ、どうして『痛い』だなんて言ったの?」

 人形は不思議に思いました。

「あのね、物が当たったら、『痛い』って言うの。昔この古井戸に落ちてきたおじさんが言っていたのよ」

「そうなの? そのおじさんは、まだここにいるの?」

「いいえ。落ちたときの怪我が治ったら、ここを上って出ていったわ」

「ふうん」

 突然、先ほど人形が出していたような這いずる音が聞こえたかと思えば、彼女の胸に何か硬い物が当てられました。

「……いたい」

「ふふっ。そうそう、そんな感じ」

「これは何?」

「あなたの左腕よ」

「あら、ありがとう」

 人形は受け取ろうとしましたが、受け取るための腕が今まさに受け取ろうとしているものなのだということに気づきました。

「ごめんなさい。悪いけど、その左腕を私に付けてくれない? 私、右腕がないから付けられないの」

「あら、本当。わかったわ、付けてあげる」

 また少しの間這いずる音が聞こえた後、人形は胸の上にかすかな重みを感じました。

「あなたなのね?」

「ええ、ごめんなさい。のしかかられるのはいい気分じゃないと思うけれど、私には左腕がないから……他の何かで、あなたの身体を押さえないと」

 言っている間に、声の主は人形の左腕があった部分の穴の縁をそっとなぞり、すばやく左腕をその穴にはめました。そしてごろんと転がり、人形の上からどきました。真っ暗闇なのに、まるで何もかも見えているかのように動きます。

 人形は戻った左腕を動かしつつ、声の主に尋ねました。

「あなたはひょっとして猫なの? とっても夜目がきくのね」

「いいえ、あなたと同じ人形よ。暗闇というのはね、泥水と同じで、じっと待っていればその内澄んでいくものなのよ」

「そうなの、知らなかった。あなた物知りなのね」

「そんなことないわ、私はおじさんに教えてもらっただけだもの」

「ふうん? ねえ、そのおじさんは、他にどんなことを教えてくれたの?」

「私が一番教えてもらって嬉しかったのは、名前のことね」

「名前? 名前って、物の名前? 人形とか、井戸とか」

「そう。人間は生まれたとき、世界にひとつしかない名前をつけてもらうの」

「どうしてそんなこと。人間はあんなにたくさんいるのに、ひとりひとり違う名前があったら覚えてられないわ」

「いいえ、人間ひとりひとりを覚えるために、違う名前をつけるのよ」

「……? ごめんなさい、ちょっと意味が……分からないわ」

「ええと、たとえば……あなたは人形だし、私も人形よね」

「うん」

「人形は世界にたくさんある。それなら、あなたも私も、たくさんあるのかしら」

「? あなたも私も、ひとつしかないわ」

「ええ、ひとつしかない。私たちは同じ人形だけれど、私とあなたは違う人形なの。だから、私とあなたには別の名前が必要なのよ。それは土と水とで名前が違うのと同じくらい、大事なことなの」

「うん……うん、ちょっと分かってきたかもしれない。でも、違うものに名前が必要というのなら、土や水の一粒一粒にも名前が必要なんじゃないの?」

「そうかもしれないわね。でも、土や水の一粒一粒が違うことは、私たちにとって大事なことではないわ。違うことが大事だから、違う名前があるの。私は、他の人形とは違うことが大事だと思うから……私には『人形』以外の名前があるの」

「あなたには名前があるの?」

「ええ。私は、ウェルっていうの」

「ウェル……あなたは、ウェルというのね」

 相手の人形の名前を聞いて、人形は急に自分の名前が気になりだしました。

「私……私の名前は、なんていうのかな」

「それは、分からないわ。まだないのかもしれない。いえ、あなたが知らないのだから、あってもないのと同じね」

 人形はそれを聞くと、胸の奥がズンと重くなりました。

「私は名前がないのね……私は、他の人形と同じなのかな」

「ご、ごめんなさい。そういうつもりで言ったんじゃないのよ。少なくとも私にとって、あなたが他の人形と違うのは、大事。だから……そう、あなたさえよければ、私に名前をつけさせてくれないかしら」

「あなたが? 私に名前をつけてくれるの?」

「ええ、そう。もちろん、あなたが自分で自分の名前をつけたっていいけれど」

「ううん、私は名前のことなんて分からないし、できないわ。あなたにお願いしてもいい?」

「もちろんよ。じゃあ、ちょっと待っていてね」

 ウェルはうぅんと唸り始めました。人形は、次にウェルの口から言葉が出るのが待ち遠しくてならず、真っ暗闇を右へ左へ、うろうろ這いずり回りました。

「ああ、あまり動かない方がいいわ。ここの地面はごつごつしているから、身体が傷つきやすいの」

「そうなの? 教えてくれてありがとう」

 人形は、はやる気持ちを抑えてじっとすることにしました。

 ウェルが、また少し彼女に近づきました。

「ねえ、悪いのだけど、あなたの顔をよく見せてくれないかしら」

「それはいいけど、どうして? 私の名前と関係があるの?」

「ええ。あなたの名前は、あなたのためだけにあるのだから。ちゃんとあなたのことを見て決めないとね」

 人形の顔に、硬い物が触れました。彼女は、すぐにそれがウェルの右手だと分かりました。その手が丁寧に人形の輪郭をなぞると、彼女はくすぐったくて少し身をよじりました。

「あ、嫌だったかしら」

「ううん。続けて」

 ウェルの手が再び人形の顔に触れました。その手はさっきより少しこわばっていて、あまりくすぐったくはなりませんでした。

 しばらくすると、ウェルが人形の顔をくいっと引き寄せました。人形は、それで初めてウェルの顔をはっきりと見ました。

 まだ人形の目には暗闇が漂っていましたが、それでもウェルの顔がとても美しいということは分かりました。

 ただ、気になることがひとつ。彼女の顔には左目がありませんでした。本来、左目があるはずの場所には、ぽっかりと虚ろな穴が開いているばかりです。じっと見ていると不安になってきて、人形はウェルの右目に話しかけました。

「あなたには左目がないのね」

「ええ。私たち、ちょっと不思議よね」

「どういうこと?」

「だって、あなたは右目と右腕と左足がないのでしょう?」

「うん」

「私は、左目と左腕と右足がないの。私に欠けているものはあなたが持っていて、あなたに欠けているものは私が持っているのよ」

「そうなんだ、確かに不思議な偶然ね」

「運命かもしれないわ」

 ウェルは微笑みました。

「ひょっとしたら私たち、昔はひとつの人形だったんじゃないかしら。顔だってとても似ているわ」

「あはは、そんなわけないわ。だって私たちふたつ合わせたら、耳や口や、胸が余っちゃうでしょ?」

「……そうね。そうかもしれない」

 ウェルは人形の顔から手を離し、今度は人形の目をじっと見つめました。

「うん、あなたの名前、決めたわ」

「本当? 教えて、私はなんて名前なの?」

 人形はもっとウェルに近づいて、彼女が答える瞬間を待ちました。彼女は焦ることもなく、もったいつけることもなく、静かに口を動かしました。

「アリィ。あなたの名前は、アリィ」

「アリィ……アリィ。私はアリィっていうのね」

 アリィは、自分の名前を何度も呟きました。

「気に入ってもらえたかしら?」

「うんっ、とっても素敵。空の星よりきれいな名前だわ」

「それならよかった」

 ウェルは器用にも片足で立つと、その場でくるりと回りました。そしてそのまま、流れるように右腕を広げてこう言いました。



「井戸の底へようこそ、アリィ」

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