元彼ざまあな話?
「ようこそ、花嫁様」
すっかり恒例になったその台詞を紡いだ。知らない場所に現れ、そこにいた人間は自分を恭しく接する。
物語の主役にでもなったかのような演出に、少女達は魅了され反論することも無い。はずだった。
「……ここは? そうだ、栞は」
怯えているかのようにぎこちなく振る舞う少女。よく見ると、頬には涙のあとがある。トラブルに巻き込まれての召喚か? 元々召喚の条件が『元の世界に居づらい少女』 だから、これくらいは予想の範疇だ。まずは落ち着いてこちらの目的を述べる。
「急な召喚で混乱されていることでしょうが……貴方様は選ばれました。この世界の救世主として」
「私が?」
「ええ。この私の魔法に狂いはございません。ああ、何かしろとか言うつもりはありません。貴方様はここで生活してくださればそれでいいのです」
今回の少女はよっぽど疑う性質なのか、顔を強張らせてこちらを睨んでいる。用心深いともいうべきか。何にしろ、一切危害を加えるつもりのないし、上客対応なのだからそのうち信じてもらえるだろう。
「……それが本当だとして、私は元の世界に戻れないのですか?」
「戻ろうと命令くだされば、お返しいたします。しかし、そこは本当に貴方にとって価値のある世界なのですかね? 私達のほうがよほど貴方を大切にできると、何人も貴方のような方を保護してきた身としては自負致します」
少なくとも衣食住に関しては。
「……確かに、嫌な世界だったかもしれない。でも、栞は、栞だけは……!」
召喚少女は、突っ伏して泣き出した。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
召喚で魔力、気力ともに減退している魔術師はあとを妖精ルセに任せた。後始末に慣れているルセは快く引き受けて、少女の事情を聞きだす。異界の少女の身の上話は、ルセにとって面白い読み物を見ているのと同じだ。
「……取り乱したりしてごめんなさい……。私、龍崎。龍崎陽菜です」
「妖精のルセですのだ! これからよろしくお願いするのだ! ところで、陽菜はよほど酷い目にあっていたようだが、栞という人間のせいか?」
「栞じゃない! 私が落ち込んでいたのは……」
いわく、陽菜は元の世界に彼氏がいた。仲のいいカップル――だと自分では思っていた。
ある日、学校から帰ると警察から電話があった。『玉突き事故に遭い、お気の毒ですが貴方のご家族は――――』
受験で家に残っていた自分だけが生き残ってしまった。それからの自分の行動はよく覚えていない。多分、恋人の楓に慰めてもらおうと思ったのだろう、と陽菜は乾いた笑いを浮かべた。
楓の家に着くと、何故か女の声がした。部屋を見ると、薄着で絡みあう男女――――浮気されていた。
「んだよ、チャイムも鳴らさずにデリカシーのない女だな。もういいや、お前にも飽きたし、別れよ」
派手な女の子が「サイテー」 と言ってけらけら笑うのを遠くで聞いたような気がした。
気がつくと、どこかのビルの屋上に立っていた。もうどうなってもいい気分だった。飛び降りたら色々中身が出るんだろうけど、お昼から何も食べてない私は、比較的綺麗なものだろうなと思って乾いた笑いが出た。
片足を宙に浮かべた時、胸のスマホが鳴った。この音楽は……幼馴染で親友の、栞だ。
『もしもし!? 聞いたよ!バイト終わって遊びに行こうと思ってあんたん家行ったらさ、警察来てるじゃん! 今大丈夫? 私にできることあったら言って! 一緒にいるくらいは出来るからさ。どこにいるのか分からないけど、戻っておいでよ……』
私は何て馬鹿なんだろう。こんな心配してくれる友人がいるのに。振り向いて戻ろうとした時
誰かに押された
必死でビルのへりを掴む。
『陽菜! 陽菜!?』
落ちたスマホから栞の呼ぶ声が聞こえる。踏ん張ろうとしたけど、体に力が入らない。そういえばお母さんが、どんな時でもご飯は食べておけって言ってたのは、こういうこと?
上を見上げた。そこに居たのは、あの時、楓の部屋にいた――――。
「都合がいいわ。こんな状況なら死んだって自殺だもんね」
「あなた……」
「本当は人殺しとかしたくないんだけど、仕方ないよね。同情でもヨリ戻されちゃたまんないわよ」
彼女は手袋をつけた手で、私の指を一本一本ヘリから外していった。
「やめ……」
「この先さ、生きてても苦労するだけじゃん? あたしって優しい!」
全部、外れた。私は宙に投げ出されて――――。
「殺されかけたのか」
陽菜はこくりと頷いた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
壮絶な経験から、人間不信に陥っているのではと心配されたが、陽菜は思いのほか元気だった。ただ、時折ひどく表情を曇らせる。直前の状況がフラッシュバックしているのだろうか。
「ルセちゃん、違うよ。ただ……栞は今なにしてるのかなって。栞にだけは、お別れを言いたかったな。あんなに心配してくれたのに」
晴れの日、城の中庭で行われたパーティー。陽菜は最高級の装いで最上の席に座っている。こんな最高の待遇を受けて、元の世界の友人を思い出すとは。いっそ元の世界のことなんか全て忘れてこっちで幸せに暮らしてやる! くらいの人間だったら、もっと人生愉快に生きられるだろうに。
見ろ、時たま暗い影を帯びるお前は、それを察した男達から遠巻きにされている。誰だって面倒くさい女はごめんだろうからな。今度の少女の婚期は遅そうだ。
「あの……これを」
パーティーが閉幕して解散するころ、一人の青年が陽菜に花束を渡した。
「私にですか?」
「は、はい。そ、その……いややっぱ何でもありません!」
青年はダッシュで逃げるように去った。ここに招待される人間は記録されているから心配いらない。問題は贈り物だが……。
「ルセちゃん、これ、木の枝かな? 綺麗なお花ついてるね。そういえばこの世界にも花言葉とかあるのかな」
「この花は……」
ほんの一瞬だけ顔を歪めた。桂樹。――――これは元はお前の世界の人間だ。
「……桂樹といって、花言葉は……『会えなくても貴方を思う』 だ」
「……」
それを聞いた陽菜は泣きそうな表情を隠すように、花に顔を埋めた。こいつの心にはヒットしたってことか。
……俺から見りゃさっさとこの世界に馴染んでほしいところに、わざわざ昔を思い出させるような物を差し入れるとかとんだKY野朗だがな。まあ、いつまでも昔にすがり付こうとするこいつとは確かにお似合いかもな。
ほどなく、陽菜は桂樹を差し入れたロズと婚約した。あとは結婚式をどうするかについて話し合っていた時、部下からの連絡で魔術師から呼び出された。
珍しいな。あいつから呼び出しなんて。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「一度、陽菜を元の世界に戻す」
ついた途端そう言われて、天地がひっくり返るような思いをした。戻す? 戻すって。
「どういうことだよ、何か不適合なことが? 俺はちゃんとやってるだろ」
「……一度と言っただろう。よく陽菜を見てみろ」
「見てるぞいつも。ロズの野朗と仲良くしてるぜ。せっかく婚約までとりつけたのに今さら戻すとか」
魔術師のやつは何考えてるのか分からんが、今日はいつにもまして分からん。そのまま居ついたらどうするんだ。小さな災害だって復興には金がかかるし、まだ短期間で連続召喚できるほど魔力もないだろうに。
「……ああ、私がお前の力を奪っている状態だから、お前には見えないのか。どれ、少しだけ戻してやろう」
そう言って、魔術師は俺の額に触れた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
城に戻って見たもの。陽菜の回りを飛び交うもや。これは――――人の念だ。誰が? どこから? 俺はもやに耳をすませる。
『陽菜……陽菜。どこにいるの。犯罪に巻き込まれた訳じゃないでしょうね。陽菜、お願い無事だと言って……』
元の世界で陽菜を心配するような知り合いといったら……くだんの栞か。異世界までこんなものを飛ばすとは。
一考して結論を出す。悪い感情でなくても、こんなものに憑かれていたら心身にどんな影響が出るか分からん。すぐに死なれるのは面倒だし避けたい。ただ、元の世界への帰還で本人がここに帰ってこない可能性は……。まあ、半年もここに居たんだ。今さら元の世界の暮らしに戻れまい。半年も留守にしていれば、また適応するのも至難の業だろう。――――召喚はそれを見越した人選なのだから。
「陽菜、少し話があるのだ」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
ルセが陽菜と話している頃、魔術師は珍しく自分から動いていた。
「こんにちは、陽菜様の親友どの」
「……鍵のかかった部屋で突然現れたのには目を瞑るわ。あなた、陽菜を知ってるの?」
年頃の少女らしい部屋で、今日も親友を助けられなかった後悔で机に突っ伏していた。そうしたら、突然背後から話しかけられた。ローブに身をくるんだ、謎めいた印象の人間だった。
「陽菜様はこちらにおいでです。地球でない、異世界にいらっしゃいます」
ニコニコと、奇妙なことをその人間は言い始めた。普通なら狂人かと思うところだが、こいつは確かに陽菜の名前を出した。話に乗ったふりして聞きだすべきだろう。
「異世界って……?」
「急な話で信じられないのも無理はありませんが……嫌でも信用しますよ、直に彼女はこちらに戻る」
「!」
「ただし、一旦戻すだけです。こちらにも事情があるのでね。それにその権利もあります。なんせ殺されるところを引っ張ってきたのですから」
殺される――こいつは確かにそう言った。
私はそれに、思い当たることがある。
『楓! 何よその女! 陽菜はどうしたの!?』
『知らねえようぜぇな』
『……』
陽菜が行方不明になった。家族を一度に失ったから錯乱したのではないかと、学校ではまことしやかに囁かれていたが、私は信じない。陽菜は親友の私に何もいわずに去るような子じゃない。何かに巻き込まれたのかもしれない。そうだとしたら……? 陽菜の彼氏である楓のところに行って問いただす。ここでとんでもない事実に気づいた。こいつ浮気してやがった。こいつの性根に呆れるやら悲しいやら……。でも気になったのはむしろ。
『ちょっとそこの貴女、今どうして引きつった顔したの?』
『おい栞、俺の彼女に妙な因縁は……』
『……陽菜サンなら、どこかで生きてるでしょ。だって……』
どういう意味? そう問いただすのが憚られるくらいの、険しい顔だった。何かあるとは思ったが、証拠がない。追求しようにも、『いい加減にしろ! これ以上マリアを困らせるなら、出るとこ出るからな!』 と楓のやつがうるさい。詰んだ……。そう思っていたのに。
「生きてるのね? 無事なのね?」
「もちろん。こちらにとっては重要な客人であらせられますから」
ほろっと、涙がこぼれた。幼稚園からの付き合いだった。身内同然に思っていた。
「無事で、よかった……。ありがとう……」
「いいえ。当然のことをしたまでです。それに」
突然言いよどむ。
「わざわざ私がここに出向いた理由は二つ。ルセには見せてないが、栞殿、あなたの悲しみの念以外に、憎しみの念が陽菜に取り付いている。その排除をあなたに頼みたい。ここの人間でない私では難しいので」
「憎しみ? っていったら……」
マリア――――瞬時にそう思った。陽菜は大人しい子で人の恨みをかうような事はない。行方知れずとなって、唯一嫌な顔して見せたあの女。
「マリアという名に、心当たりはあるのですね」
「……まあね」
「引き受けてくださいますか?」
「そうね。でもまだ外れかも分からないけど……」
万が一そうだったら、一矢報いてやりたい。傷心の親友を殺しかけたかもしれない人間――――。
「問題ありません。本人に聞けばすぐです。お願いします」
「分かった。……あのさ、ところで質問、いい?」
「何か?」
会った時から、この人? には妙な違和感があった。
「あなた……男? 女? 名前は? それにルセって? 日本に来たもう一つの目的は?」
綺麗な顔が固まった。聞いちゃいけないことだったかな? でも分かんないのよね。最初は背が高いし男かと思ったけど、どうも雰囲気が女っぽい。
「性別、ですか。……世界が異なるゆえ、価値観が違うようですから何とも。名はありません。私の世界では魔術師と呼ばれております。ルセは私の部下です。ここに来たもう一つの目的は……慰霊と探し物、ですかね」
「ふーん……ありがとう。まあ、今の私に陽菜以上に重要なことはないからもういいわ。あなたは恩人だし、もう困らせません」
「……ありがとうございます」
そうだ。無事な陽菜に会えるんだ。恩人の性別なんて些細すぎる。陽菜に会えたら、無事を確かめて……ぎゅっと抱きしめてやりたい。心配してる人間はここにいるって分からせてやらなくちゃ。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
栞と陽菜が会えたのは、その翌日だった。
学校から帰って自宅の前まで来て、玄関に立っている人間に気づく栞。まさか、でもまさか。その人物が振り返ると、栞は涙を流しながら飛びついた。
「陽菜、陽菜! 無事でよかった」
「……ごめんなさい、栞……」
「ごめんね。私、力になれなくて」
「何で栞が謝るの、私こそ、栞が心配してくれてるのに、異世界でのうのうと……」
「馬鹿、無事ならそれでいいんだよ」
そんな友情が繰り広げられる中、ルセがパンパンと手を打って場の雰囲気を変える。
「感動の再会中に悪いが、陽菜を殺しかけたという人間について対策を練らないか? マリアという名だそうだが」
「! うわ、妖精……初めて見たよ」
三十センチくらいの大きさで羽を使ってふよふよと飛ぶ姿に、栞も少しテンションがあがる。そして妖精の存在に気づくと同時に、もう一人の人間の存在に気づく。そいつはこちらを見て会釈をすると挨拶を始めた。
「初めまして。ロズと申します。――――陽菜さんとお付き合いさせて頂いてます」
「……大事にしてよね」
顔を真っ赤にする陽菜を見て、それ以上の言葉が見つからない。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
栞に呼び出された楓は、指定の公園に現れた。マリアを伴って。夕暮れの公園はいつもならノスタルジックなのに、今日は何故か不気味に思えた。『陽菜、見つかったから』 そう言われたからだろうか。
「来てくれたのね」
背後から声をかけられてびびる。別に臆病だからではない。こいつの、今の栞のドスのきいた声と、まっすぐ睨みつける底の知れない目を見たら誰だってそう思うだろう。そして栞の後ろには。
「……久しぶり、楓くん」
「陽菜……」
行方不明前と変わらない、陽菜の姿があった。いや、むしろ前より綺麗になっているような……。しげしげと観察する俺を邪魔するかのように、栞が立ちはだかり言う。
「陽菜、遠い親戚に外国の人がいてね。そっちでお世話になってたみたい。急なことで何も言わずに別れたこと後悔して、今日改めて挨拶に来たのよ。……あんたなんか、別にいいと思うけどね。それと」
「初めまして。陽菜の婚約者のロズです」
「結構かっこいいでしょう。後見人から紹介されたんですって。結婚したらあっちの戸籍に入るから、もう日本には来れないみたいよ」
べらべら勝手に喋る栞に苛立ちが募る。なんだよこの茶番は。
「で、俺にそんな事情を話してどうすんだよ」
「もう陽菜に関わらないで。そっちのマリアさんも分かってるわよね」
楓は気づかなかったが、栞達には分かった。幸せな陽菜の境遇を聞いていたマリアが、ずっと唇を噛みしめていたことを。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
別れ際、陽菜は楓には見えないように、手首を掴まれてマリアに耳元で囁かれた。『夜、あのビルまで来い。一人でだ』
その通りにして、陽菜はビルまで来た。自分が殺されかけたビルへ。あの時と違い、簡易的な柵があるから、もう同じことは起こるまいと少し安堵する。その柵の前には、マリアが立っていた。
「異世界トリップしたの?」
第三者が聞いたら正気を疑うような会話だが、事実なのだから仕方ない。陽菜は頷いて返事をする。
「ずるーい……」
乾いた、声だった。一度もこちらを振り返ることなく喋るマリアに薄ら寒いものを感じつつ、彼女の言葉に耳を傾ける。何故自分を殺そうとした? 耳を傾けないほうがいいのかもしれないが、気分は壺の中身を知りたくてたまらないパンドラの心地だった。
「どんなにお姫様になりたくたって、どんなに自分は特別な存在なんだって思おうとしたって、いつかは現実を理解しなくちゃいけないでしょ。私はそう思った」
少しだけ、悲しんでいるように聞こえるような声音だった。
「だからね、バイトして、お化粧頑張って、いいと思った人がいたなら奪ってでも自分のものにしたの。いくら綺麗ごと言ったって、世の中早い者勝ちじゃない。どうせなら、私は早く適応する」
それは違う、と言いたかったが、彼女の気迫に飲まれた。
「でも楓が魅力的に見えたのって、社長の息子って身分と、あんたが幸せそうだったのが大きかったみたい。単体じゃ何の魅力もないんだもの。いっつも何かのグチばっか……」
それを聞くのも楽しかったけれど、と陽菜は思う。不満を持っている気持ちを汲んで少しでも力になろうとするのが、恋人というものだと思っていたのに。マリアは違うのだろうか。
「でもそれはそれで上手くやっていかなきゃって思ってたのに……あの日、あんたが死にそうな顔で現れて。何かあるって思ったけど、楓は気づかず追い払ったけど、あんた消さなきゃ私が追い落とされると思った。栞とかいう女があちこち半狂乱で喚きながら探してたから、あんたの事情はすぐ分かった。殺すなら今だって思った」
残酷なのではない、ひたすら効率重視。そう言わんばかりの理由だった。
「でも落とした途端、あんた光に包まれて消えたじゃん。当然、下には死体もない。何で? どうしてあんたなんかが小説みたいなことに巻き込まれるの? どうしてあんたなの?」
落ちたと思った瞬間から意識はなかったから、正直なんとも言えない。向こうに着いたときだって、まずあの世かどうか疑って、それから親友を想ったというのに。そもそも殺されかけて九死に一生を得ただけなのに、この宝くじにでも当たったかのような言い草はなんだ。
「……消えるならさ、黙ってそのままでいてくれればいいのに。ここに戻ってきたのって、あの夜のことバラすつもり?」
そこで初めて、マリアは振り返った。手に刃物を持って。その目は既に正気の人間の目ではない。
「調子にのんないで。あたしから見たら、あんたゴミだから」
ひっとかぼそい悲鳴が漏れるだけだった。人間とは思えない速度でマリアが突っ込んでくる――――。
血が滴り落ちるが、陽菜のではない。ゆっくり目のピントを合わせると、自分の前にいるのは……。
「栞……?」
「……よかった、今度は、守れた……」
寸前で栞が間に割って入り、代わりに刺されていた。無事を確認後、ゆっくりコンクリートに倒れていく。
「栞? 栞!!」
「なっ……」
「こっちです! あの女です!」
驚愕する陽菜とマリアを尻目に、ロズが警官を連れて場に乱入してくる。警官は呆然とするマリアを取り押さえ、手早く救急車を呼ぶ。
「ちょっとなに……あたしじゃない! あたしは殺してない! 何であたしばっかり!」
「容疑者は錯乱。応援を――――」
陽菜には悪夢のような出来事だったが、警官の対応はひたすら事務的で淡々としていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
峠を越した栞は、ガラスの向こうでも陽菜を確認すると微笑んだ。同時に口パクで陽菜に何かを伝える。
『もう行きなよ。今は殺傷事件に目がいってるけど、陽菜の行方不明とかロズの身元とか調べられたらやばいから』
姿を消しているルセの翻訳だ。陽菜は涙を流して逆らおうとするが、栞の説得に結局は応じた。『あんたが幸せになってくれなきゃ、私の苦労が無駄になるでしょ』 一連の出来事を傍から見ていたロズだが、去り際、栞に深くお辞儀をしてその場から消えた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「俺って可哀相すぎんだろ……。彼女が犯罪者で俺まで白い目で見られるし、元カノなんかそんな俺を見捨ててさっさと男つくって逃げたんだぜ?」
このところ楓は同じ口を延々と友人に言っている。最初は黙って聞いてた友人だが、ふと「だけど」 と横槍を入れる。
「お前がサゲマンなだけじゃねーの? つーか浮気してたの確かお前が先だよな?」
「はぁ? ふざけんなよ! ……ああ友人にも恵まれない俺って……」
こいつは徐々に距離を広げるか。友人は思った。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
陽菜達が因縁を断ち切っていたころ、魔術師は普通の人間に変化して、日本のとある墓場を訪れていた。別段、何の変哲もない仏教系の墓場だ。添えられたばかりの花、子孫が途絶えたのか空き地となったスペースなどに無常を感じつつ、目的の墓に辿り着く。
『形代』
しばらくその墓の前で立ち止まっていると、男に声をかけられる。
「もしかして、姉の知り合いですか?」
その男には面影があった。目を細めて感慨にふけりつつ、答える。
「ええ。知人、でした」
「……まだ、整理がつきませんよね。行方不明で、死体も出なくて。もしかしたらと今でも思うけど、お役所は残酷でした」
「……」
犯罪に巻き込まれたと思っているのだろう。あながち外れでもないのが皮肉だった。男は、桶から水をとって花瓶に入れ、花を供え始める。最後に線香を添えて、無言で手を合わせた。その作業を、後ろからじっと魔術師は見ていた。
不意に、ニヤリと笑って言う。
「蓮華なら死んでますよ。あなたがたがいつもの日常を送っている間に、暴行を受けた末の自殺。そしてそれは、私の部下がしたことだ」
男がいきおいよく振り返ると、そこに魔術師の姿は無かった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
魔術師の館ではいつもの報告が行われていた。
「カウントしていいだろう」
「だよな。こっちに戻ってから波乱らしい波乱もなかったし……。ところで」
ルセは魔術師の背後の二人を見て言った。
「さっきからいるこの男女は何だ?」
「王家がよこした。手伝いとして使えと」
「男はそうかもだが、女はあれか? ハニトラ?」
ルセがニヤニヤしながらからかうのを、口の端だけで笑うだけで、魔術師は答えなかった。