16話 食堂にて、蕎麦を啜る兄と天真爛漫な子
昼時の学食は戦場である。誰が言ったのかは定かではないが。確かに目の前の光景を見ている限りでは、強ち間違いではない気もする。二手に分かれ、効率よく席と昼食を勝ち取る者。立場を使い、半ば強引に確保する者。心優しき者が明け渡した席を奪い合う者たち、そしてそれらを生暖かい目で見守る食堂の主、おばちゃん。
うん、おばちゃん凄いわ。
寛容な心を持つおばちゃんたちに尊敬の念を送る。
と、目の前を丼が通った。丼を持つやや細い腕を確認し、徐々に視線を上げていくとYシャツに黒のエプロンが見えた。察するに食堂の方だろう。
「有難うございます」
蕎麦が入れられている丼を受け取り、礼を延べつつ配膳をしてくれた方の顔に視線をやる。
肩程まで伸ばされた黒髪は、後ろに一つに括ってある様だ。生憎、目元まで髪が伸びている為、目付きのほどは窺い知る事ができないが美形と呼ばれる顔立ちだろう。
新しい人か?
「蕎麦、好きか?」
耳に届く声。しばらく、目の前の人が発したと気付かず、ぼうっと見上げてしまった。低い声音からすると、男性の様だ。前髪の間から、ちらりちらりと覗く瞳がこちらをじっと見据えている。
ぼうっとしてる場合じゃないな。
「好きですよ」
そう答えると、食堂の方と思われる男性は一つ頷き、トレイを片手にカウンターの方へと去っていく。
茫然とその後ろ姿を見つめるしかなく、やがて男性の姿は生徒たちの中へ紛れ込んでしまった。
なんだがよく分からないが、せっかくの蕎麦が冷めてしまうので食べてしまうとしよう。
各テーブルに備え付けられた七味入りの小ビンを取り、湯気を立ち上らせている蕎麦に振り掛ける。先程のやりとりで少し冷めた気もするが仕方あるまい。
さて、それでは。
「せ〜んぱいっ」
いざ、箸を割ろうとしたところで聞き慣れた声。中途半端に割れた箸を持ったまま声の方へと視線をやる。そこには満開の笑みを浮かべ、両手でトレイを持つ後輩、美鈴ちゃんの姿があった。
「あれ?今日は学食?」
「ハイッ。今日はお弁当無しの日なんです。あっ、ここ空いてますか?」
相変わらず元気一杯な美鈴ちゃんは手が塞がっている為、視線で俺の正面の席を見下ろした。特に断る理由もないので了承し、折れた箸を脇へと置いて新しい箸へと手を伸ばす。
「有難うございますっ」
こちらが礼を言いたくなる様な笑顔を浮かべ、トレイを下ろし席に座る美鈴ちゃん。下ろされたトレイの上には、真っ白な皿に盛り付けられたカレーライスが芳しい匂いを漂わせている。
今度はカレー食べよう。
「先輩はお蕎麦ですか」
こちらの蕎麦を見ながら美鈴ちゃん。自分のカレーライスがあるにも関わらず、その目は物欲しそうである。何気なく腕で丼を隠してやると、少しだけ口を尖らせて睨まれる。
「そんなに隠さなくたって良いじゃないですか。わたし、そんなにお腹減ってません」
続け様に非難混じりの言葉を述べ、頬を膨らませて備え付けのスプーンを手に取るやいなや、勢い良く食べ始めた。その非常に分かりやすい怒り方が、とても彼女らしくて、思わず吹き出してしまう。釣り上がった目が睨んできたので、直ぐに引っ込んでしまったが。
俺も食うかな。
新しい箸を割る。
綺麗に割れると得した気分になるのは何故だろうな。
さて置き、目の前の蕎麦は持ってこられた当初より、大分、冷めた様で立ち上る湯気が少なくなっていた。自業自得なのは承知しているのだが、やはり悲しいモノである。無言で蕎麦を啜る。少々、軟らかくなってしまったが、美味しさは変わらない様だ。
「先輩?」
三口程、啜った処で美鈴ちゃんの声が掛かる。傍に置いた水入りのコップを手に取り、口内の蕎麦を流し込んで美鈴ちゃんへと視線を移す。何やら哀しげに眉を寄せている。
「怒っちゃいました?」
「はい?」
突拍子な質問に、思わず間抜けな声を上げてしまう。鳩が豆鉄砲を受ける、というのがよく分かったがそれどころではない。茫然と美鈴ちゃんの次の言葉を待っていると、哀しげな表情が、益々、明確なソレに変化した。
意味が分からないぞ。
「ちょっと待った。何で泣きそうなんだ?」
どうにか平静を取り戻してきた頭を、必死に回転させて聞く。
しかし、答えると目尻に溜まった涙が決壊してしまうのか、美鈴ちゃんは黙したままだ。このまま泣かれてしまうと、良心が痛む上、何より状況的に非常にマズイので脳内のパソコンを最大限に稼働させる。美鈴ちゃんの登場、カレーライス、物欲しそうな表情。
オーバーヒート寸前、ふと一つの答えが導きだされた。
「もしかしてさ、美鈴ちゃん勘違いしてないか?」
俺の言葉に顎に手を当て首を傾げる美鈴ちゃん、典型的すぎる困惑の様にほのぼのしてしまうが、早々に誤解を解いてしまおう。
「そう、勘違い。さっき、俺の蕎麦を見てただろ?それで俺が隠したら美鈴ちゃんがちょっと怒ったよな?それで、俺が不快に感じたとでも思ってるんじゃないか?」
一気に喋る。目の前の美鈴ちゃんの反応は、暫らく目を白黒させ、合点がいったのか、手を打ち鳴らした。しかし、驚愕の表情も束の間、またもや目尻を下げ哀しげに目を伏せる。
見てて飽きない子である。
「もともと、俺が悪いんだし。美鈴ちゃんが気にする事無いさ」
謝罪の言葉と共に、美鈴ちゃんの頭に手を伸ばす。座っている為、やや腰を浮かしてしまったが根性で踏張り、そのやや栗色の髪を撫でてやる。
撫でること数分。腰が限界の叫びを発しだした時、顔を伏せていた美鈴ちゃんが勢い良く顔を上げる。先程までの哀しげな表情は完全に引っ込んでしまった様で、何時もの屈託の無い笑みを浮かべていた。
やれやれ。
「分かってくれた?」
「ハイッ。えへへ」
頬を赤く染めて頷くのを確認し、俺は撫でていた手を引っ込め、気付かれないよう最小限の動作で浮かしていた腰に休息を告げる。過酷な労働に文句を言っているようだが気にしないようにしよう。
腰を擦りつつ正面の美鈴ちゃんへと視線を戻すと、笑顔で食事を再開していた。鼻歌でも実行しそうなくらい嬉しそうなのを見る限り、機嫌は持ち直した様だ。俺も食事を再開しようと手元の蕎麦を見下ろす。
うわぁ。
見下ろした先の蕎麦は、伸びきっていた。何事かとこちらを見てくる美鈴ちゃんに、手を左右に振ってやり過ごしながら、俺は伸びに伸びきった蕎麦を啜るのだった。
地味に長くなる=執筆ペースが倍になる、綺麗に比例しないのが悩み処です。 さて、16話。兄と美鈴のお話でした。分かりやすい新キャラ伏線まで入ってましたが、如何だったでしょうか? それでわ、また次回。