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マジックショー

作者: 雉白書屋

 とある田舎町の公民館で、一人の男がマジックショーを披露することになっていた。定期集会のついでに、町内会長が最近越してきた新しい住民を地域に馴染ませようと気を回したのだ。

 普段は遊戯やヨガ教室に使われている小さな集会室には、折り畳み式のパイプ椅子がずらりと並べられ、十数人の住民が腰掛けている。古びた木材と埃っぽい匂いが漂い、換気扇の鈍い唸りが隅から低く響いていた。

 町内会長は皆の前に立ち、マイクを握りしめてご機嫌に弁舌を振るっていた。


「それではそろそろ、マジックショーの開演といきましょうか!」


 会長は満面の笑みを浮かべ、部屋の隅の椅子で縮こまっていた彼に向かって、くいくいっと手招きをした。 


「無理、無理ですよ……」


 彼は小走りで会長に近寄り、耳元でそう囁いた。涙声であった。


「はっはっは! 大丈夫、大丈夫。ほら、マントも帽子もよく似合ってるじゃないか」


 今、彼が身に着けている黒いシルクハットとマントは、会長の家の押入れの奥で長らく眠っていた品だ。気まぐれで家の整理をして、たまたま埃まみれのマジックセットを見つけた会長は、捨てるのももったいないので何かに使えないかと考えたところ、このろくでもない企画を思いついたのであった。

 裏地が赤で表が黒のマントには斑点状の白いカビが浮き、湿気でどこかじっとりと重く、ベタついていた。シルクハットはところどころひしゃげており、いくら押しても形は戻らなかった。


「僕、マジックなんてやったことないですよ。急な話でしたし、練習する時間も……」


「説明書は読んだんだろう? 書いてある通りにやるだけだからさ」


「無理ですって……絶対無理ですよ……」


「えー? でもマジック好きなんでしょ? 部屋に本がたくさんあったじゃない」


「あれは、そういうのじゃ――」


「おーい、会長! そいつ、ゴミ捨て場から拾ってきたんじゃないよなあ!」


 後ろのほうから野太い声が飛び、住民たちの笑い声がどっと広がった。“そいつ”が、マントとシルクハットを指しているのか、それとも自分自身のことなのか。判断がつかず、彼はただ背中を丸めるしかなかった。


「はははは! さあさあ、世紀の大魔術をご覧あれ!」


「だからっ、どうしてそうやってハードルを上げるんですかっ」


「盛り上げようとしてるんだよ。手品は雰囲気だよ、雰囲気。ほら、もたもたしてると場が冷めるよ。マイクもちゃんとついてるね。さあ、やってやって!」


 会長は彼の襟につけたピンマイクを軽く弾くと、背中をバンバン叩いて横へと捌けた。残された彼は室内をおずおずと見回し、身をよじりながら深々と頭を下げた。控えめな拍手が起こり、しかしすぐに尻すぼみになった。 


「えー……では、やります。まずはこのステッキから……おっ、う」


 彼の手に握られた鉄製の黒いステッキは、本来なら少し捻るだけで先端から花が飛び出す仕掛けだ。しかし表面に赤錆が浮いており、内部まで固まっているのか、どれだけ力を込めてもびくともしなかった。


「おいおい、にいちゃん! こんなところでシコるなよ!」

「やだあ、もう……」


 品のない野次が飛び、くすくすと笑い声がこぼれた。彼は顔を真っ赤にしてステッキを床に置くと、手の甲で鼻を擦った。鉄の匂いがした。


「えー、えっと、続きまして、このハンカチを……」


「おいおい、そんなもん見せんなよお!」


「えっ、えっ?」


「シコりすぎてシミが残ってんぞお!」

「もー」

「やめたげなさいよお。うふふ」


「あ、あはは……えっと、じゃあ、このカップの中の玉を……あれ? あれ? 玉が、玉……」


 彼は小さな机の上にプラスチック製のカップを三つ並べた。本来ならカップに入った玉が左右に移動するという定番のマジックなのだが、肝心の玉がどこにも見当たらない。言うまでもなく、町内会長の不備である。そして、これもまた言うまでもなく、玉に絡めた下品な野次が飛んだ。

 手品はことごとく不発に終わり、『インポ野郎』という不名誉なあだ名をつけられる頃には、彼はもう立っているのがやっとだった。

 額からは汗がダラダラと流れ、足は小刻みに震え、噛みしめた指先には血が滲んでいる。唇の周りにその血がつき、赤がはみ出した下手な塗り絵のようだった。


「え、えと、え……」


「その帽子から何か出してみろよお! はははは! 出ーせ、出ーせ、出ーせ!」


 その野次を皮切りに、手拍子とコールが広がった。彼は助けを求め、ちらりと会長を振り返った。会長もまた笑顔で手拍子をしていた。


「出ーせ!」「出ーせ!」

「出ーせ!」「出ーせ!」


「ああっううっ……」


 喉の奥から言葉にならない声が漏れた。そして、彼の目が一瞬だけ鋭く光った。

 彼は天井を仰ぎ、目を閉じると、シルクハットをひっくり返してそっと机の上に置いた。縁を指先でなぞり、マイクに拾われないほどの小さな声で何かを呟いた。それから咳払いをひとつして、口を開いた。


「じゃ、じゃあ、出します……」


「何を出すんだあ? ナニは出すなよぉ~。はははは!」


 彼がシルクハットの中に片手を突っ込んだ。もう片方の手で机の縁を掴み、ぐっ、ぐっと肩に力を入れて、何かを探るように腕を動かす。やがて動きがぴたりと止まった。住民たちはやや前のめりになり、ほうっと感嘆の息を漏らした。なかなか演技がうまいじゃないか、と。

 しかし、次の瞬間――


「ギギッ、ギギギギ!」


 金属が擦れ合うような耳障りな音が室内を走った。ある者は眉をひそめ、ある者は耳を塞ぎ、またある者は椅子を軋ませてのけぞった。

 その音は齧歯類の声に似ていたが、ネズミやハクビシンを見慣れた住人たちですら、一度も聞いたことのない悍ましい響きだった。

 やがて声はぴたりと止んだ。彼はゆっくりと手を引き抜き、深々と頭を下げた。


「……いや、帽子から出せよ!」


「だ、出せないんです。出すと危ないんです……」


 彼は小刻みに首を横に振った。


「もう一回やってー!」

「もう一回!」

「もう一回!」


 住人たちは背筋を伸ばし、前のめりの姿勢のまま熱い視線を彼に注いだ。彼は観念したように頭を掻き、しぶしぶと再びシルクハットの中に手を入れた。

 すると今度は、ライオンのような低い唸り声が鳴り響いた。ただ、威厳はなく、どこか喉に痰が絡んだような濁りを含んでいた。

 再び彼が手を引き抜くと、住人たちは「もう一回」と声を揃えて催促した。彼は項垂れ、しばし迷った末に、また手を入れた。


「ワッハッハッハッハ!」


 今度は腹の底を揺さぶられるような哄笑が室内に轟いた。空気が震え、天井の蛍光灯がかすかにちらつく。住人たちは背骨を内側から握られるような、ひやりとした恐怖を覚えた。


「な、何か仕掛けがあるんだろう! スピーカーを使ってるんだ!」


 野次が飛んだ。確かに、その声は彼の襟元のマイクにも拾われていた。だが、誰もが声の出所はシルクハットの奥だと感じていた。さらに最前列の住民たちは、焦げたような匂いも嗅いでいた。

 これまで大声で野次を飛ばしていた男が、椅子を鳴らして立ち上がった。実はその男、もとは場を盛り上げるつもりで声を張っていたのだが、今や完全に『トリックを暴いてやる』という興奮に突き動かされていた。

 男はずかずかと前へ出て、彼の腕を掴んだ。


「ほら、出せよ! 男ならどーんと出してみろい!」


「だめ、ダメですってば!」


 男は彼の腕を無理やり引っ張り出そうとし、彼は必死に抵抗した。すると男は苛立ち、自分の腕をシルクハットにずぼっと突っ込んだ。

 彼は慌てて飛び退いた。そして、次の瞬間――


「あ? あっあっお、あああああ!」


 肘、肩、頭――順に、男の身体はまるで便器の水が吸い込まれるように、するするとシルクハットの奥へと引き込まれていく。男の悲鳴とシルクハットの奥から響く異様な笑い声が重なり合い、室内に渦巻いた。

 残響が消え、室内が静まり返ると、彼は静かに両手を掲げて深く一礼した。

 ぽつり、ぽつりと拍手が起きた。その音にすがるように、住民たちはひたすら手を叩き続けた。

 やがて、拍手の渦の中で住民の一人がぽつりと呟いた。


「私、あの人、下品だから嫌いだったのよね」

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