2話:都市伝説との邂逅
――4月の初週、始めて着たワイシャツはまるで自分が社会人になったような気がした。昨日の夜、母さんに教えてもらってブレザーにアイロンをかけたおかげで制服に皺ひとつない。家から少し遠い私立高校に私は通う事になった。友達はみんな第一志望に受かり、疎外感を感じるけれど今生の別れってわけじゃない。いつだって会える。気持ちを切り替えよう、そう思って首にリボンを留めた。
やがて自転車を飛ばして駅に着く。駅に入る。制服の襟をちょっと直して、吸い込まれるように改札機の前に立った。ポケットから取り出した定期券をタッチすると、ピッという音とともに、ゲートが開く。なんてことない音だけど、なんだか少し、くすぐったい気持ちになった。
この定期券は父さんの。学生証はまだ渡されていないから、定期は作れない。使っていいのかわからないけど、まあ、バレはしないよね……?
改札を抜けた時、私はほんの少しだけ、大人になった気がしていた。ぴかぴかの黒い服を着て、定期で改札を抜ける、まるで大人みたいだって。
……でも、次の瞬間、何かがズレた。ガヤガヤしていたはずの駅構内。
制服の子たち、スーツの人、誰かの会話――全部、消えていた。声も、姿も。今入ってきた改札の向こうには、誰もいない。ベンチにも人影がない。
人の気配が一切ない。駅員がいるはずの窓口に目をやる。シャッターが半分降りかけていて、中には誰もいなかった。制服の端すら見えない。
おかしい。そうは思った。時計を見た瞬間、入学式に遅刻することが頭をよぎり、そして今まで出会った経験を踏まえ、これは幻覚だと理性は判断した。
「幻覚、だよね……?」
そう呟いた声が、やけに大きく駅に響いた気がした。私は改札をくぐったまま、立ち止まっている。こんなところで立ち止まっていたら後ろからぶつかられたり怒鳴られたりするのに、足音一つしない。案内板に従って階段を登り、ホームへ向かった。
7番線の待機列に立ち尽くす。誰もいない。電光掲示板を見るが、何も変わらず次の列車の到着時間を光らせ、日本語から英語へと切り替わっていく。
『——間もなく、7番線に埼京線、各駅停車新木場行きが参ります。危ないですから、黄色い線の内側にお下がりください』
何の変哲もない放送が流れた。やっぱり今自分が見ているこれらは全て幻覚だと言い聞かせ、ホームに滑り込んでくるエメラルドグリーンのラインが入ったフツウの列車。運転手の姿が見えて安心した。
ドアが開いた時、瞬きをすると辺りには人が大勢いた。ようやく幻覚から解放されたと胸をなでおろし、バカみたいに混みまくっている通勤電車に乗り込み、何とか座席に座ることができた。
走り出した電車。何も変わらない放送、しかし、一つだけおかしいことがあった。次の停車駅で満員電車は空になった。客車に残るまばらな乗客、池袋や新宿ではないのに、スーツを着た人々までみんな降りて行った。
電車が走り出した時、違和感に気が付く。誰もスマホを触っていない。みんな下を見ている。電車の中で、誰もスマホをいじってないなんてこと、ある?話し声も、ない。誰も喋っていない。イヤホンをしている人もいない。まるで「音を出してはいけない」というルールでもあるかのように、乗客全員が静かすぎるほど静かだった。
私は隣の人の様子を、そっと盗み見る。下を向いている。その向こうの人も、斜め前の人も、立っている人も、みんな。みんなが、まるで約束したかのように、一様に下を向いている。首を垂れ、背を丸め、黙りこくって、じっと一点を見つめているような――
そして、ニタァ……と、笑っている。目を細め、口は吊り上がり、異様な白さの歯が見える。誰も声を出さずに、ただ、笑っている。
いかれた世界が終わっていない事に気が付いてしまった。見なかったフリをして自分も下を見つめる事にした。
――その瞬間、放送が聞こえる。
『本日も地獄行き行楽劣者の強盗団が師走には帰国するとのことでありがとうございます』——少し気取った車掌の声。しかしその放送は意味が分からなかった。
『次は、涅槃、涅槃』
そんな駅ない。乗客は誰一人声を上げない。
『涅槃涅槃涅槃涅槃涅槃涅槃涅槃涅槃涅槃涅槃——』
まるで念仏を唱えるかのようにその単語だけが繰り返される。低い落ち着いた車掌の声で。スピーカーがぶつぶつと音割れを起こしているのがわかるくらい声量が大きくなるのに気が付く。そして、次の瞬間……。
「涅槃ねはははははっはははははっははっはははっはっは」甲高い子供の声が耳元で聞こえた。
「ひっ……」声が漏れてしまう。そして、「涅槃駅」に停車した瞬間、何も考えずに私は電車を飛び出したくなった。
がたんと席を立ったその瞬間、今まで下を向いていた人たちは一斉に、まるでマスゲームや集団行動の様に動いた。顔を上げ、私の方を、女の子もおじさんも、おじいさんもおばあさんも、皆同じ顔で私を見つめている。
怖い。でも彼らは見るだけで何もしてこない。席から離れ歩き始めると視線がこちらを追うのを理解する。最も気味が悪いのは、何も起こらない事だった。何かあれば、アドレナリンが出て走り去ることだってできるのに、理性が私を押さえつける。
ホームへ降り立つと電車は去った。ここは何事もないいつもの駅。涅槃ではなく、普段通りの駅名が掲げられ、販売機があり、人々がホームに立っている。
入学式に遅れたくない。腕時計を見た後、電光掲示板を見る。でも、なにも表示されていない。数字も文字も、まったく、なにも。まだ終わっていなかった。
私の他にも人はたくさんいる。制服の子も、スーツの大人も。でも、誰一人として掲示板を見ていない。皆、同じように、首を垂れて、ただ立っているだけ。電光掲示板の異常なんて無いと感じているかのように。
――これは幻覚だ。きっと幻覚だ。
でもこれは……あまりに整っている。人間の幻にしては、構造がありすぎる。整然としすぎている。リアルすぎる。頬を抓るも痛みが走る。明晰夢ってのがあるのを聞いたことがある。夢の中で夢を見ている事に気が付くと自由に動けるようになるとかなんとか、私の体は一切完全に自由だが、その他の物は一切自由にはできなさそうだった。
階段を上がって、改札へ向かう。しかし、改札口の向こうには壁がある。物理的な、コンクリートのような質感ではない。目で見る限りはただ駅の構造が続いているはずなのに、そこにはなにもない。出入口も、券売機も、駅員の窓口も。この奇妙な夢から出られない。
私は踵を返し、ホームへ戻った。改札から出られないけど、線路の向こうの柵には住宅街が見えている。ここからなら、出られるんでは? ――でも、もし、これが幻覚で、私が飛び出したとしたら? 本当に電車が走っていて、轢かれてしまったら?
そのとき、ニュースにはきっとこう書かれる。「女子高生が飛び込み自殺か。精神疾患の可能性」。
ホームを散策していると、同じ学校の制服を着た女の子を見つける。私はほっとして、近寄った。あの掲示板、なにも映ってないのに、誰も気にしてない。そんなの、変だよね。
「ねえ、電光掲示板、壊れてるみたいだけど……」言いかけたときだった。
「……あのね、ケン君と付き合ってたんだけどね」
その子が突然、ぽつりと話し始めた。私は言葉を止めた。そのとき、気づいた。彼女は手に小さくて、しわくちゃな物を持っている。その四肢のあるピクリとも動かない物体の腹から伸びた赤黒い紐のようなものが、彼女のスカートの奥に消えている。
目が離せなかった。心臓がバクバク鳴っているのに、足は動かなかった。その時、ぐしゃっと音がした。彼女の首が裂けた。まるで雑巾をひねるように、皮膚が裂け、血が飛び散った。涙を流しながら笑っている。右腕が根元からもげて、ぶらりと落ちたが、制服の袖から骨と神経かなにかによってかろうじてぶら下がっている。
腹が割れて、長靴何かがソーセージみたいにうねうねと、床に垂れていった。彼女は笑っていた。
「捨てられちゃった……この子のせいかな……私のせいかな……」血に濡れた顔で、こちらを見ていた。
「ねえ、なんで? ねえ……これ、なに? なに? なに? なに? なに?」
――逃げなきゃ。私は一目散に走り出し、ホームの端まで逃げた。後ろを振り返ると彼女の姿はもうなかった。柱の影に座り込んで考えた。あの女の子、見たことがある気がする。
……そうだ、ニュースで。私立高校に通う女の子が交際関係の揉め事で自殺したって。じゃああの手に持っていた小さいのと、お腹から伸びていたあれはどこに繋がっていたのか……。
「交際していた男子生徒に裏切られた」「親に隠していた」「一人で病院にも行けなかった」――青少年の健全な性教育が云々と批判がされていた。
――そんな言葉が、画面のテロップで流れていた気がする。腕の中のあれ――あれは胎児だった。スカートの下から伸びる、赤くて細長い管――臍の緒。それが繋がっていたのは、彼女の腹。
──同情してしまう。ぐちゃぐちゃになった彼女の姿を前に、胸がきゅっと苦しくなった。
なんで誰も助けてあげられなかったんだろう。可哀そうだって。
次の瞬間、右肩に何かが乗った。重い。ぐいっと肩に爪が食い込むほど掴まれるような感触と共に背筋を伸ばしていられなくなる。
「な、なに……?」
頭の奥でキーンという音が鳴る。目の前がチカチカして、ぐらりと視界が傾ぐ。
頭が、痛い。何が起きたか即座に本能で理解した気がする。
――霊を「かわいそう」と思った瞬間、向こうが「この人ならわかってくれる」と思って取り憑く。背後に誰かがいる。息をひそめて、ぴったりと肩に顔を寄せている。
耳元で笑った気がした。
「──私のこと、わかってくれるんだよね」
「しらない、やだ、やめて……」声を出したい。首を振るけど声が出ない。
──しかし聞こえてくるのは優しい声だった。耳の奥にすっと染み込んでくる。まるで母が子守唄を囁くような声。
「あっち、いこ、一緒だとさみしくないよ?」
その言葉と同時に、顔の横から指をさされた。私はゆっくりと、視線をそちらに向けた。黄色い線の向こう。その先には線路。さらにその向こう側には──住宅街と道路が見える。
「あっち」って、どっち?
彼女の指は、駅の外ではなく、線路の中央を指しているようにも見えた。……私をどこへ連れて行こうとしているの?
「ねえ、のぞみちゃん」
どうして名前を知っているの……?私は口を開こうとした。だけど、声が出ない。喉が凍りついたみたいに。行っちゃいけないのは分かっている。まるで三途の川だって理解しているのに。なのに“行ってもいいかな”って思ってしまう。
黄色い線をまたいだ瞬間、頭の奥でブザーのような音が鳴った気がした。その警告をかき消すようにあの声が、また響く。
「大丈夫だよ、のぞみちゃん」
私の中で、もう一人の私が叫んでいる。やめろって、戻れって、早く! だのに身体はいう事を聞かず、このまま、線路に降りようとしている。
次の瞬間、バンというまるで花火が打ち上がる時の音のようなのが聞こえた。ちゃりんと軽い金属製の何かがコンクリートの床を撥ねる音がした。背中が軽くなり地面にたおれる。誰かに地面に押し付けられ、腕を背中に回され、手錠か何かで。拘束される。
「動かないでください。拘束させていただきます」女の子の声。
頭に何かをかぶせられ辺りが見えなくなる。
「こちらオトギリ1-3、空間閉鎖内に浸透した。3等脅威霊体を排除しました!」
『HQ、了解。あたりの他の霊体は?』
「おおむね低級や中立霊体です。射撃による滅却は不要かと。異常反応は消失したので撤退を具申します」
「監督! 一般人を一名保護しました。迷い込んでいたようです!」
『了解。オトギリ隊は速やかに一般人を連れて空間封鎖から脱出してください』
「もう大丈夫ですからね、ほら、行きますよ、肩貸しますね」
「あの、何が……」
優しく声をかけられ引き立てられ、歩き出した。何か聞く、何が起きたか聞く。答えは得られなかった。